あいの下













 三時間目の授業が終わるチャイムに重なり、学級委員の宮迫の声が響く。
「起立。」
 はっきりと通る声を耳にして、薫はクラスメイトと同じように立ち上がった。けたたま
しく床を擦る椅子の音は2−Bの教室を満たしただけでなく、上の一年の教室からも地響き
のように落ちてくる。その耳に聞き慣れた明るい声が微かに触れた。惹かれるように、薫
は窓の方を振り向く。
 丁度、薫の席から真っ直ぐ左、窓際の一番後ろの並び。咲が舞を肩越しに振り返って忍
び笑いを零し、舞は難しい顔で首を捻っていた。
「礼! ありがとうございました!」
 宮迫が号令をかけるのに合わせて、『ありがとうございました。』と教室中いっぱいに
みなが礼をする。薫も半ば反射で頭を下げた。休み時間の始まり、途端に緊張がほぐれて、
みなが好き勝手席を立つ。
「薫、どうしたの。」
 すとんと席に座り直した満が、立ったままの薫を見上げた。前髪が流れて、満の額が晒
される。
「いや、舞が難しい顔をしてるのが目についたから。」
 それだけよ、と言い添えると、「ふーん。」と気のない返事をしながら、満が窓の方へ
と目を向けた。休み時間になったとあってか、咲は堂々と舞の方を振り返って、満面の笑
みを浮かべている。ひまわりみたい、なんて窓の外に広がる6月の空を眺めて、薫はこれ
から強くなって行く夏の日差しを思う。
「いいじゃない、聞いてみましょうよ。」
 満は口元を綻ばせると、さっと立ち上がって教室を横切って行く。薫は相槌だけ打って、
手狭な机の間を縫う満の一歩後ろをついて歩いた。
「美翔さん、それマジ、しょうも無いから。
 そんな難しく悩まなくっていいって。」
 近づくにつれ、仁美の呆れた声が聞こえて来た。
「えー、でも、仁美だってわからなかったじゃない!」
「なにが判らなかったの?」
 満が声をかけると、弾かれたように咲と舞が振り返った。
「満!薫!」
 二人の前に並んだ満と薫を見上げて、咲はいつも通り快活に笑い、舞は期待に満ちた目
を向けた。
「あ、霧生さんも聞く?
 咲のマジくだらないなぞなぞ。」
 脱力したように仁美が言うと、咲が恨めしそうな視線を向けた。
「なぞなぞ?
 またどうして。」
 咲と舞は何かとおしゃべりをしたり、じゃれあったりしていることも多いというのは薫
も判っている。でも、なぞなぞを出している咲、というのはなんとなく珍しい気がした。
「みのりちゃんに昨日出されて、判らなくって悔しかったんだって。」
 舞が眉根を寄せたままで言う。
「ふーん、それで舞まで巻き込まれてるのね。
 伊藤さんも太田さんも被害にあったんだ。」
 満が得心がいったように頷いて、呆れ顔の仁美と眉を垂らしている優子に目配せする。
すると、咲が不満そうに唇を尖らせた。
「もー、満までそんな良い方してぇ。
 でも、優子も仁美も判らなかったんだよ!
 舞にだってまだ解かれてないんだから。」
 頬を膨らませた咲と、困り顔の舞を薫は交互に見た。さっきの授業の終わりから舞がし
ていた難しい顔の訳は、ただのなぞなぞだったらしい。みのりが出したなぞなぞだ、咲に
わからなかったとしても、きっとそれは咲が単純だから判らなかっただけだろう。だが、
舞まで判らないとなると、少し興味が湧いた。
「それで、どんな問題なの?」
 薫は咲を促した。すると、咲は待ってましたとばかりに自信満々に笑う。
「それでは、満と薫に問題です。
 『あいの下にあるものはなんでしょーか!』」
 ぽん、と目の前で何かが弾けたような気がした。
「あいの・・・下?」
 あい、と聞いて薫は即座に愛を思い浮かべた。同時に、恋という字も思い浮かべる。前
にどこかで聞いた話が脳裏を過る。曰く、『恋は下心、愛は真心』ということだ。なんで
も、恋という字は下に心があるが、愛という字は真中にあるとかなんとか。
「愛・・・なの? 恋じゃなくて。」
 だから、薫は思わず咲に問い返した。下心と真心の話で行くならば、『恋の下にあるも
のはなにか』という問題でなければならない。だが、咲は思いっきりよく首を横に振った。
「違うよー。
 あいの下にあるもの!」
 薫は口元に手を当てて悩める。仁美があーあ、と残念そうに首を横に振る。舞はそんな
薫を不安げに見つめていた。
「愛の下ってことは、愛の根っことか大本にあるってことよね?」
 不意に、満がそう問い掛けた。思い掛けない内容だったのか、咲が一瞬面食らったよう
に目をしばたたく。
「う、うーん・・・そういうこと、でも・・・いいのかなあ?」
 自信なさげに頭を掻きながら、既に答えを知っている仁美と優子に咲は目配せをした。
仁美は違う違う、と手を振るが、満はそれに気付かなかった。
「なら、簡単じゃない。」
 そして、ぽんっと軽く言い放った。
「え、満もう判ったの!?」
「マジ!?」「さすが霧生さん!」「満さん凄い!」
 咲が目を丸くし、仁美と優子と舞が目を輝かせた。薫も驚いて満の横顔を見る。満は本
当に答えが判ったようで、すっきりとした表情をしていた。
「愛の下にあるものでしょ?
 咲のことだから、舞じゃないの?」
 舞の顔面が真っ赤になるのを薫は見た。

「あっはははははは! マジ言えてる!!
 咲ってば美翔さんにべったりだもんね!」
 火がついたように仁美が笑い声を上げた。満は「あれ、違った?」と至極意外そうに首
を傾げている。
「み、みみみ満!
 そういうことじゃないから! なぞなぞだから、な・ぞ・な・ぞ!!」
 咲が勢い立ち上がって、両手をぶんぶんと振った。恥ずかしそうに俯いた舞は耳まで赤
い。
「でも、咲は舞のこと大好きじゃない。
 舞のこと話す時は、必ず一回は可愛いって言うし。」
 舞が頬を両手で挟むのを薫は見た。いつも咲は舞のことを可愛いというのに、今更こん
な反応をするのが薫には少し意外だった。
「そりゃあ、舞のことは大好きだし、可愛いよ!
 でも、なぞなぞはなぞなぞで、そういうことを聞いてるんじゃないの!」
 なぞなぞの主題を説明している筈の咲の声は大きく堂々と、舞が大好きで可愛い、と教
室中に宣言している。見下ろすと舞は首まで真っ赤で、咲も咲で頬が赤くって、薫は肩を
竦めて窓の外を眺めた。丘を下って広がる海に、薄青く光る空が映っている。
「じゃあ、いいじゃない。
 咲の愛のねっこにあるのは、舞で間違ってないんでしょ?」
 満がしれっと言うと、咲がまた声を張る。
「そ、それはそうかもしんないけど、なぞなぞの答えじゃないの!」
 細く開いた教室の窓から走り込んで来た風の匂いをかいで、薫はぼんやりと、今日もい
い天気、と思った。