「はぁ〜・・・・・。」
 後ろの席から流れて来た重たい溜め息が背中に当たって、仁美はしぶしぶ後ろを振り返
った。2−Bの教室で一番窓際、後ろから三番目。真後ろには鞄に顎を乗せて項垂れた級友
が居る。
「ちょっと咲、あんまりおっきい溜め息吐くの、マジやめてよね。
 こっちまで気が滅入ってくるじゃない。」
 しかめっ面をして振り返ると、鞄に顔を半ばまで突っ込んでいた咲が、動物園の熊みた
いにけだるい動きで顔を上げた。真ん丸の目は覇気がなくて垂れ下がり気味で、でも、ま
んまる顔はさらにまんまるになって不満を露にする。
「だってぇー、今日も舞、休みだったんだよ。
 なんか調子狂っちゃうよ。」
 そう言われて、仁美は咲の背中越しに一番後ろの席へと目をやる。机の脇に荷物も掛か
らず、椅子もきっちりしまい込まれた席には、窓から斜めの光が溜まっているばっかりだ
った。月曜からこの方、三日間も姿を見せない級友を思い描いて、仁美は頭を掻いた。
「美翔さん、インフルエンザなんでしょ?
 マジ仕方ないじゃない、かかっちゃったものは。」
「そうだけどさぁー。」
 ぶー、と音が聞こえそうな程に唇を突き出して、咲は机の上にだらしなく伸びる。掃除
も終わって後は帰りのホームルームだけになった教室はまだ騒がしくって、咲のこのだら
しなさを見とがめる人は居ない。ただ、真ん前の席の仁美に、溜め息の嵐が吹き付けるば
っかりだ。
「そんなに気になるなら、お見舞いに行ったらいいんじゃない?」
 掃除から戻って来た優子が、後ろから咲の背を軽く叩いた。咲は少し優子を見上げると、
「うん・・・。」と歯切れの悪い声を出す。
「なによ、その反応。」
 あまりぱっとしない咲の顔を、仁美が覗き込む。
「私も、お見舞い行こうかな、って思ったんだ。
 だけどね、昨日お母さんに相談したら、
 まだ熱が下がってなかったらかえって迷惑だし、うつったら大変だから、って。」
 仁美と優子は顔を見合わせると、肩を竦めた。咲のお母さんが言うことはもっともだし、
咲の家はパン屋だ、他の家よりも風邪や病気には敏感だろう。美翔さんが戻ってくるまで、
マジこの調子かもしれないね、なんて二人は目でやりとりする。咲はそんな様子にも気付
かず、猫背をもっと丸めて、窓から空を見上げた。真っ青な2月の青空が、薄雲と共に広
がっている。
「あら、咲はまだそんな調子なの?」
 軽い調子の言葉が、三人に飛んで来た。仁美と優子は近づいてくる二人に、ほらこの通
り、とばかりに咲を見せる。
「霧生さん、マジ、ほんと咲をどうにかしてよ。
 今日一日中、咲ったらずっとこんな調子なんだよ。」
 満は、ふーん、と言いながら咲の隣まで歩いて来た。半歩後ろに居た薫は、そっけない
表情のまま、何も言わずに舞の席に横向きに腰掛ける。
「絶不調なり、って感じね。」
 薫が頬杖をついて、咲を見もせずに呟いた。満は、今は薫が座っている舞の席を見て、
それから咲の顔を見下ろした。いつもはきりっとしている眉も、今日は心なしか元気が無
い。
 満は咲の頭に手を乗せると、ぺちぺちと叩く。そうすると、むむぅ、と咲がくぐもった
声を漏らした。
「お昼のときは元気だったのにね。
 やっぱり咲は、そうなのねぇ。」
 満が意味ありげにしみじみと言う。咲が、ちらっと満を見上げた。
「満? それどういう意味?」
 満はよくわからないわ、とでも言うように小首を傾げてみせると、わざとらしく口の端
を持ち上げた。
「そのままの意味だけど?
 ほら、・・・それに、なんだっけ、
 なんとかは風邪をひかないとか、なんとか言うのに、おかしいなぁ、って。」
 咲が身を起こすと、むむ、っと満の顔を覗き込む。「ええっと、なんだったかしら。」
と満がとぼけていると、薫がぼそっと言った。
「バカでしょ。」
 咲が、ガーン、とショックを受けた顔で薫を振り向く。仁美と優子は満薫と咲の顔を見
比べて、心なしか不安げだ。
「そうそう、それ。」
 満がぽんと手を打つと、咲が弾かれたように満を振り仰いだ。
「満ー?」
 咲が不信の呻きを上げる。満はそれを聞き流しつつ、わざとらしく上の方を見上げなが
ら、口元に手を当てて、さも気遣っているように言う。
「能天気で元気の塊みたいな咲から、健康を取ったら何も残らないのに、
 こんなに落ち込んでるから、私心配で――――。」
「ちょっと満、それどういう意味よ!?」
 咲が瞬間、思いっきりよく立ち上がった。椅子が薫の机に当たって押され、薫の脇腹に
クリティカルヒットする。う、と鈍い声があがったが、満は咲の手を擦り抜けると、軽や
かに身を翻した。
「そのまんまよっ!」
 赤い髪とセーラーの襟が靡く。満はくす、っと咲に微笑みかけると、教室の後ろへと駆
ける。バックステップで軽く、薫の足は踏んだけれども、風のように走り抜ける。
「あ、こら、満!」
 咲の手が満を追って空を掻いた。
「満! このぉー!」
 咲が逃げる満を追って走り出す。一歩目に何かを踏んだけれど、ウサギみたいに素早く
逃げて行く満を追いかけて、咲は脇目も振らない。満は足が速いけれど、狭い教室を走り
回った経験なら咲の方が多い。勝敗はやってみなくちゃわからない、教室の角の急カーブ
を、ベースを踏んだときみたいに体を反転させて前へ、満の後ろ姿を追いかける。
「ま、マジ・・・?」
 仁美はバタバタと走り回る二人を、棒立ちになって眺めた。優子は足を抑えて踞る薫へ
と目を向けた。
「霧生さん、大丈夫・・・?」
 俯く薫から、返事はなかった。ただ、小刻みに肩が震えている。さっき、満と咲が欠片
の躊躇いもなく薫の足を踏んづけていったのは、大層痛かったらしい。廊下からは、「こ
ら満ー!待ちなさい!」という咲の大声と、「それって命令ー?」とふざけた満の声が、
けたたましい足音と共に響いて来ていた。
「霧生さん?」
 仁美が気遣わしげに薫の様子を窺った時、薫が顔を上げた。
「だ、大丈夫・・・?」
 優子がもう一度尋ねると、薫は涙目で顔を真っ赤にしたまま、口を引き結んだ。嫌に鋭
い眼差しが、教室の前のドアから駆け込んで来た満と咲を捉える。咲の手が満のセーラー
服に触れる刹那、薫の怒声が弾けた。
「満、咲! いい加減にしなさい!」
 満と咲が薫の方を振り返って目を丸くした瞬間、薫が席を蹴って二人の方へと駆けた。
「うわぁ、薫が怒ってるよぉ! なんでぇ!?」
 咲がびっくりして手を緩めるのを見過ごさず、満は咲の脇をすり抜けた。満は自分が薫
の足を踏んだことに気付いていたから、通路を塞ぎ気味の新田の鞄を飛び越えて、教室の
後ろに向かって疾走する。
「あ、満!」
 咲は満が逃げたことにすぐに気付くと、ソフト部4番の足を以て追い縋る。一番後ろを
薫が追って、三人は教室中の視線を集めながら廊下へと再び飛び出した。
 仁美は廊下を脅かす三つの足音を聞きながら、ぽうっと呟いた。
「き、霧生さんが・・・、追いかけっこしてる・・・。
 これって、マジ?」
 優子はただ、ぽかんと口を開けて頷いた。
「満、咲! 待ちなさい!」
 薫が教室を飛び出した所で叫ぶ。咲は満の背を見たまま、
「満!」
と声を張る。満は咲を肩越しに振り向いた。目が合う一瞬。怒ったような口調の咲、その
額には風が吹いていて、目には差し込む光がある。満は口元を緩めて微笑んだ、僅かな瞬
間だけ。その笑みに気付いた咲が、口元を綻ばせる。そして、満面の笑みを浮かべた。満
は二人に向かって、
「待つわけないでしょ!」
と快活に言い放った。クラスメイトの間を縫って走る。その姿は教室の前の扉を素通りし、
階段の方へと逃れる、その時だ。
「こら、霧生、日向!
 廊下を走るな!!」
 天を割るかという程の怒声が、三人を撃ち抜いた。
 階段へと飛び出そうとしていた満が止まり、その背中に咲が激突して抱きつく。薫は少
し後ろで立ち止まって、恐る恐る二人に近づいた。満と咲が、階段の方から来る何かに怯
えて後ずさる。
「し、篠原先生・・・。」
 満が乾いた声を出すのと、咲があははと枯れた笑いを零すのが聞こえて、薫は観念した。
じりじりと満と咲が後退すると、腰に手を当てた篠原先生が階段の方から姿を現した。篠
原先生は、薫が後ろに突っ立っているのも見つけると、呆れたように肩を落とした。
「満だけじゃなくって、薫の方もか。
 まったく、二人揃って廊下を走り回るんじゃない! 日向もだ!
 もう中学三年生になるんだぞ!」
 怒られて、咲が項垂れる。満も小さく「すみません。」と答えた。篠原先生の顔が、薫
の方を向く。私は足を踏まれただけなんだけど、と抗議したかったけれど、なんだか言い
出せなくって薫も肩を縮こまらせた。
「ま、元気なのは結構なんだけどな。」
 言いながら、篠原先生は満の頭に軽く手を置いた。満が手の下から篠原先生を見上げる。
篠原先生はたっぷりとした笑みを浮かべて、満の頭を撫でた。
「仲が良いのも結構。
 だけど、廊下は走らないこと!
 わかったな。」
 念を押すように、咲と満、薫の顔を確認する。三人がおのおの頷くと、篠原先生は「次
はこの程度じゃすまないからな。」と釘を刺して手を下ろした。満が咲へと目配せする。
咲は、いたずらっこみたいに、にこっと笑った。
「日向の猫背も治ったみたいだね。」
 篠原先生がぱん、と軽く咲の背を叩く。えへへ、と恥ずかしそうに頬を染めると、今度
は咲が満に目配せをした。振り向くと、薫も咲の隣に並んだ。薫は少し、釈然としない表
情だったけれど。
「最近、特に元気があるな、霧生たちも。
 なにか良いことあったのか?」
 満と薫は互いに顔を見合わせた。間に挟まれた咲が、どうするんだろう、と二人の目交
いを見上げる。二人は顔を見合わせ、笑って答えた。
「咲と舞、みんなと友達になれたんです。
 そうしたら、こうやって何するのも、みんな楽しくって。」
 満がそう言ったのに続けて、薫が少し恥ずかしそうにしながら、でもはっきりと言った。
「だから、その、絶好調なんです。」
 咲の瞳が中に星でも入っているみたいに、きらきら輝いた。篠原先生はそんな咲、満、
薫に微笑んだ。
「そうか、良い友達が出来てよかったな。」
 満と薫が声を合わせて頷いた。
「はい。」
 肩を寄せ合う三人の真中で、咲が笑顔を零す。篠原先生は小さく頷くと、プリントの束
を咲の前に差し出した。
「じゃあ、その有り余った元気を、もう一人の友達にもよろしくな。」
 プリントを受け取った咲は、きょとんとして首を傾げる。
「これ、配るには少なくないですか?」
 手渡されたプリントは、よく見ると違うものが一枚ずつしかない。クラスに配るにはど
うにも足りないだろう。すると、篠原先生は日誌で肩を叩きながら答えた。
「美翔の分のプリントなんだ。
 昨日、一昨日の分もまとめて、届けてやってくれる?
 なるべく早く受け取って貰いたいプリントもあるし、
 それに、今日はもう熱が下がったって、さっき電話で言ってたからな。」
 頼んだぞ、と篠原先生は教室に入って行く。咲は託されたプリントを手にして、満と薫
を交互に二回見た。
「良かったじゃない、舞に会う口実が出来て。」
 満が口の端を持ち上げる。
「まったく、最初からそうすればよかっただけじゃない。」
 薫が腕を組んで、ちょっと怒ったフリをする。
 咲は満開の笑顔を花咲かせて、Vサインを頭上に高々と掲げた。
「本日も、」
 一拍置いた咲の呼吸に、満と薫も声を合わせる。
『絶好調ナリ!』