虹の欠片













 アスファルトで照り返してくる夏の日差しを振り切るように、咲は海岸へ続く道を駆け
下りる。顔に吹き付ける暑い空気に汗が噴き出して来て、照りつける太陽が首の後ろをじ
りじりと焦がす。真っ黒い影は足元で小さくて、真っ白の入道雲が空高くまで立ち上って
いた。
「舞、速く速く!」
 重ねた掌が熱い。肩越しに振り返ると、舞の額で汗が輝いていた。セーラーがぱたぱた
音を立てて、風の音を演出する。遠くから重なって響いてくる蝉の大合唱が青空と海を染
め上げる。
「咲ったら、もう!」
 舞の息は弾んでいる。咲自身よりもやはり少し苦しそうだったけれど、でも表情は明る
くって、咲は握る掌に力を込める。海まではもう少し。このカーブを曲がりきった所にあ
る細い階段を下りたらもう砂浜だ。木陰の下を走り抜けると、耳元を葉音が掠めた。まる
で木が話しかけてきたみたいで、咲はアスファルトを蹴る足に勢いを出す。
「もうすぐ海ムプー!」
「ププー!」
 葉風を起こし、ムープとフープが草むらから飛び出した。ふたりはつむじ風みたいに飛
び上がると、咲と舞の頭の上をくるくると飛び回った。
「もうすぐラピ!」
 フラッピが咲の鞄から頭を出した。
「楽しみチョピ。」
 チョッピは舞の鞄から顔を出して、耳をぱたぱたと揺らす。舞が顔を上げ、大きく頷い
た。
「ええ、もうすぐよ!」
 白線も消えかけた片側一車線のカーブが終わる。海はどんどん近くなって、もう足元に
見えそうなくらいだった。ガードレールを飛び越えたら、海にそのまま飛び込んで行けそ
うな気がするくらいに。潮騒の音が見える。海の匂いがする。海辺を飛んでいるのはカモ
メだ。沖の方には聳えるような入道雲が真っ白に光っていて、手前にあるひょうたん岩を
浮き上がらせている。
 ふたりの足は、海岸へ降りる細い階段を踏んだ。錆び付いた両脇の手摺、ちょっとぼろ
っちいコンクリの階段はなんだかガタガタしていて、合間から背の高い草が生えている。
両脇の小さな土手には名前もよく知らない稲に似た草が生い茂っている。草いきれの中、
ふたりは階段を駆け下りる。目の前に砂浜と海が広がっている。灼けつく陽光を反射させ
る砂と、眩しく輝く夏の海がもう手に届く所にある。
 最後の3段を、咲と舞は飛び降りた。
「到着ー!」
 砂埃を巻き上げて着地して、咲はピースサインを大空に向かって掲げた。額に滲んだ汗
もアクセントにして、笑顔が弾ける。
「海ラピー!」
 フラッピがいち早く咲の鞄を飛び出した。
「ムプー!」「ププー!」
 ムープとフープが歓声を上げて海へと向かって行く。少し出遅れたチョッピがあわてて
舞の元から駆け出すと、4人は一緒になって波打ち際に飛び込んだ。
「気持ちいいね、咲。」
 咲達を見下ろしている吸い込まれそうなくらいに真っ青な空から、風が吹き下ろしてく
る。舞が乱れた髪を耳に掛けるその腕は少し日焼けしていた。何処もかしこも夏が溢れて
いる。咲は嬉しくなって、砂浜に着いた時に離した左手を舞に向けて開いた。
「夏は絶好調ナリ!」
 舞が笑い返して、右手を出した。
「そうね、絶好調ね!」
 ぱん、と軽やかな音を弾かせて、ふたりは揃ってハイタッチをした。そうして顔を見合
わせて、笑い声を零す。
「咲、舞、いっしょに遊ぶププ!」
 波打ち際で跳ね回っていたフープが咲と舞を呼んだ。
「満と薫、きっとすぐに来るから、そうしたらね。
 ひょうたん岩に行こうって話なのに、あんまり濡れちゃったら行けなくなっちゃうし。」
 咲は眉を垂らしてそう答えながら、舞に目を送る。舞も小さく頷いた。
「遊ばないチョピ?」
 そう小首を傾げるチョッピのしっぽの先から、水が滴り落ちている。その隣でジャンプ
したフラッピが海水を跳ねさせた。光の粒が宙を舞って軌跡を描く。
「遊ぶけど、満さんと薫さんが来てからちょっとね。」
 舞がそう答えると、フープとチョッピはムープとフラッピを振り返った。砂浜には陽炎
が立ち上っていて、汗が首元にまとわりついて暑苦しい。水の中に入ったら気持ちいいだ
ろうなあ、と咲も舞も思うけれど、今日の優先順位の一番は満と薫と一緒にひょうたん岩
に行くことだ。日直の仕事で後から来ると行っていた二人はもうすぐ来るだろう。きらき
ら光る水飛沫が目に眩しくって、靴の中で指先がむずむずするけれど、後もう少しの―――
 その時、ふたりの突撃隊が海から飛び出した。手に掬えるだけの水を溜め込んで。
「アタックムプー!」
「アタックラピー!」
 ばしゃあ、っと気持ちのいい音をまき散らし、咲の顔面に大量の水が投げつけられた。
「あ。」
 舞が思わず声を漏らした。その間にも、咲の顔から水が滴り落ちて行く。小さな音を落
としながら顎先を滑る水もそのまま、咲は得意げな顔を見せるムープとフラッピを見た。
「・・・・あんたたちねぇ。」
 引き攣らせた唇の端に触れた水がしょっぱい。暑いからか水はすぐに乾いて行って、肌
が塩でべたべたしだす。けれど、日差しに火照った体には凄く気持ちがよかった。涼しい
風が突然体を駆け抜けて行くみたいに。
「ムプ?」「ラピ?」
 ムープが耳を弾ませて、フラッピがしっぽをぴんと立てて咲を窺っている。すぐ隣では
フープとチョッピが期待に満ちた目で咲を見ていた。そう、咲だって判ってる。夏の海で
遊ぶのがどれだけ気持ちよくてどれだけ楽しいか、15年の経験でばっちり心に刻み込ま
れている。でも、今日はこれから満と薫と一緒にひょうたん岩に行くのに、ここであんま
り濡れるわけにはいかない。だから、
「遊ばないって言ってるでしょー!こらー!」
 声を上げると、咲は4人を追いかけて海へと飛び込んだ。波の中にジャンプすると、足
元で水が砕けて大きな飛沫が上がる。フラッピ達では作れない大きな水飛沫だ。フラッピ
達が上げる歓声が耳に心地いい、掛かる水の感触が気持ちいい。咲は浜辺にいる舞に手を
伸ばした。
「舞!」
 もう、咲ったら。耳に馴染んだその言葉をくれそうな、そんな眼差しで見つめていた舞
が笑みを放つ。
「舞ー!」
 チョッピが呼ぶ。舞は砂を蹴って駆け出して、咲の手を掴むと思いっきり海へと駆け込
んだ。
「あーあ、舞まで入って来ちゃって!」
 咲が肩を竦めてみせる。満面の笑みを花開かせて、頬に太陽を受けて、瞳に青空を輝か
せて。
「ちょっとだけなら大丈夫よ、きっと。
 それに、遊んで待ってたって満さんも薫さんも怒らないわ。」
 舞がちょっといたずらっこみたいに微笑んだ。でも、咲もそれに賛成だった。だってこ
んなに暑いのに、海の目の前でただ待ってるのはもったいない。満と薫だって、ずぶ濡れ
じゃなければ許してくれるはずだ。それにきっと、楽しく海で遊んで待ってる方がふたり
も喜ぶに違いない、なんてちょっと自分に都合のいい解釈かも知れないけれど、でも絶対
そうに決まってる、なんて胸の中で高らかに叫んで、咲は海に両手を突っ込んだ。
「秘技! 咲ちゃんスペシャル!」
 ソフトボールで鍛えた豪腕で海の水を底から持ち上げるみたいに振り抜いて、塊みたい
な海水を舞とチョッピとフラッピに向かって飛ばした。
「きゃ!」
 顔に思いっきり水を浴びて、舞が笑う。
「お返しラピー!」「お返しチョピー!」
 頭から浴びたフラッピがチョッピと結託して小さな水を連続して咲の方に飛ばす。当て
ずっぽうなマシンガンはムープとフープも巻き込んで、二人を海に落としそうな勢いだっ
た。
「ムープ、フープ、負けちゃいられないよ!」
 水の勢いに圧されているムープとフープを励ましつつ、咲はエースの右手を抜き放った。
左手で顔を覆いながら、フルスイングで水面を掻き一直線に水をフラッピに向かって飛ば
す。
「いけ、消える魔球!」
 水の球はフラッピにヒットすると、弾けて海に落ちる。
「ラピー!」
 良い一発を貰ったフラッピは後ろに転んで海に突っ込んだ。
「フラッピー!」
 チョッピが慌ててフラッピを助けに掛かる。前衛ふたりの攻撃の手が休んだ今、舞は無
防備だ。咲はムープとフープに向かって告げた。
「今よ!」
 咲に応えて、ムープとフープが水面に小さな手を入れた。
「舞、かくごムプー!」「かくごププー!」
 ムープとフープが舞に水を掛ける。咲も一緒になって両手で大きく水を掻くと、舞が手
でガードを作りながら跳ねるように逃げた。でも水はそんなガードごと舞を濡らす。
「きゃ、もう冷たーい!」
 顔を覆う腕の間から、舞の笑顔が見える。咲は力いっぱい水を叩いて、空に橋でも作れ
ちゃいそうな気持ちで水を飛ばす。
「ほらほら、反撃しないと負けちゃうよ舞ぃー!」
 舞の顔を水が伝って行く。左目を閉じて、唇に笑みを刻んだ舞が咲を見た。濡れた髪が
色濃く染まって、色白の舞の肌とコントラストを描く。舞が応えた。
「ゼッタイに負けないからねっ!
 チョッピ、フラッピ!」
 雨みたいに海水が降り注ぐ中で、起き上がったフラッピとチョッピが反撃の体勢を取っ
た。舞の手が大きな水飛沫を作る。
「えい!」
 その一発は咲の顔にクリティカルヒットして、咲は大きく後ろにのけぞった。
「おわぁあ!」
 隙が生まれたその期を逃さず、フラッピとチョッピがムープとフープに水を掛け返す。
「ムプ〜!」
 一気に形勢逆転。ムープとフープは掛けられるばっかりになって、ぱたぱたと逃げ回り
始めた。でも肝心要の咲までやられっぱなしになってしまって、水が掛けられ放題だ。
「逆転ね、咲!」
 舞の明るい声が響く。
「冷たーい! もう、負けないからねー!」
 咲はノーガードで水を頭から浴びながら、舞達に水を飛ばし返す。セーラー服が濡れて
肌に張り付いているけれど、もうおかまいなしだ。手加減なしの水音が飛び交って、まる
でムキになってるみたいだった。空に投げた水が乱反射してる。
「ひっさつわざムプー!」
 そのとき突然、何か閃いたのかムープが海に頭っから飛び込んだ。
「え、ムープ?!」
 咲が気付いて目を丸くするけど、ムープの姿は見当たらない。いやでも自分から飛び込
んだから、溺れてるわけじゃないのよね、と疑問が頭の中を駆け巡る。
「アタックムプー!」
 元気な声は、舞の方から聞こえた。
「ええ!?」
 舞の悲鳴が上がる。水から飛び出したムープは、器用に回転して水を弾き飛ばしながら
舞にタックルするように迫る。軌道的には顔を避けて行くみたいだったけれど、驚いた舞
が足を滑らせた。
「あ、舞!」
 舞が転ぶ、そう思って咲は手を伸ばして走り出したけれど、水が足に纏わりついて届か
ない。
「きゃ!」
 短い悲鳴と共に、舞は海の中に盛大に転んだ。柱みたいに水が跳ね上がって、咲もフラ
ッピもチョッピもフープのことも濡らした。ただひとり、ちょっと高い所を飛んでいたム
ープだけが、まんまるの目をさらにまんまるくして固まった。
「やっちゃったね。」
 ムープは手が小さいから、もっと勢いよく水を掛けたくってやったんだなぁ、なんてぼ
んやり頭の片隅で思いつつ、咲は尻餅をついてきょとんとこちらを見上げている舞に笑い
掛けた。
「やっちゃった。」
 舞が観念したように座り込んだまま、眉尻を下げた。結わえた髪は解けていて、長い髪
が肩に流れている。毛先からも顔からも制服からも水が滴っていて、まさに全身びしょ濡
れだった。一回頭まで水に沈んだせいか、睫にまで水滴が乗っている。
「もう、ムープ、やりすぎちゃダメじゃない!」
 咲は腰に手を当てて、頬を膨らませた。ムープはしゅんとなって舞の所に降りてくると、
小さな頭を下げた。
「ごめんなさいムプ。」
 舞はそんなムープの手に人差し指で軽く触れると、小首を傾げてみせた。
「いいのよ、ムープ。」
 ムープが舞を窺うように見つめた。舞がにっこり笑うと、ムープはたちまち元気を取り
戻したみたいで、口がぱあっと開いた。舞が咲を見上げる。目が合うと咲が笑みを深くし
て、そうしたら自然と笑いが込み上げて来た。
「あっははははは! もう、舞ったらやんちゃなんだから!」
「誘ったのは咲なのに、もう!」
 起こった笑いは伝播して、フラッピ、チョッピ、ムープ、フープみんなが声を上げて笑
った。お腹が痛くて捩れそうで、咲はひーひー言って笑いながら、海の中にお尻をついた
ままの舞に手を差し出す。舞の瞳にあるのは海水なのか笑い過ぎの涙なのか、咲にはちょ
っと判らなかったけれど、舞の手を握ると助け起こした。
「あーあ、舞ったらずぶ濡れじゃない。
 仕方ないなあ、もう。」
 呆れたフリをしながら、咲は舞の顔に張り付いている髪を払う。舞は笑いながらスカー
トの水を絞っていた。滝みたいに水が落ちる。
「でも、舞って髪おろしてると、なんかちょっと子供っぽくてかわいいね。」
 解けてしまった髪をみて、咲は素直にそう言った。でも、舞は拗ねたのか恥ずかしいの
か、ちょっと顔を赤らめて唇を尖らせた。
「子供っぽくなんかないわ。」
 そういって、見つめ合うこと3秒。どちらからともなく吹き出すと、青空に笑い声が吹
き抜ける。明日はお腹が筋肉痛になるかもしれない、咲はそんなことを思いながら笑い続
ける。
 そんなふたりに、不意に横手から声がかかった。
「ちょっと・・・、海で待ち合わせとは言ったけれど、
 海の中で待ってろとは言ってないわよ。」
 声のした海岸の方を咲と舞、フラッピ達みんなが弾かれたように振り返った。そこには、
肩をずっこけさせて呆れ顔の二人が立っていた。
「満ー!」「薫ー!」
 ムープとフープが口々に叫んで、ふたりに駆け寄った。
「あ、もう日直終わったんだ。」
 咲はそう言いながら、頬を伝う水滴の感触を感じていた。冷や汗かな、これ、なんて思
いつつ。
「舞なんて、濡れネズミじゃない。
 どうするの、それで。」
 薫が溜め息を吐いて、ふたりを眇見た。咲は頬を掻きつつ、舞は頬を赤らめつつ、ごま
かし笑いをえへへと零す。満が無造作に鞄を砂浜に投げた。
「あなたたちって、放っておくとホントろくなことしないわね。」
 面目ないナリ、なんて咲が蚊の鳴くような声を出した。満の鞄の隣に、薫が自分のを置
く。
「靴ぐらい脱げば良いのに。」
 薫がもう一つ呆れてみせる。その横で、満が靴を脱ぎ捨てた。靴下をその中に突っ込む
と、足が熱い砂浜を捉える。指の間に乾いた砂が入る。
「それで、覚悟は出来てるんでしょうね、プリキュア。」
 満がに、っと唇を歪めて見せた。夏の日差しを浴びた顔が明るい。急いで来たのだろう
か、満の額にも汗が滲んでいた。
「今日こそ、太陽の泉は渡してもらうわ。」
 靴を脱いだ薫が満の隣に並んだ。日焼けした腕に力を込めて、咲と舞の前に立ちはだか
る。その両脇ではムープとフープが構えていて、期待に目を輝かせていた。
 咲と舞は一瞬だけ止まって、それから顔を見合わせると、満と薫に向かって威勢よく声
を張る。
「覚悟なんてするわけないでしょ!」
 咲が笑う。
「太陽の泉は渡さないわ!」
 舞が声を弾ませる。フラッピとチョッピがしっぽをピンと立てると、ふたりは息を合わ
せて高らかに言い放った。
『私達はゼッタイ負けない!』
 瞬間、海に駆け込んできた満と薫が大きな波を作り出した。
 水飛沫が弾けて、光が眩しいくらいに散る。咲も舞も満も薫も、すぐにずぶ濡れになっ
てそれでも太陽は暑い。顔に付いた水を拭うのも忘れて、舞は濡れた睫を透かしてみんな
を見る。何処までも続いて行く海と、砂浜と、肩越しに遠く大空の木が見えて、入道雲が
迫ってくる青空は輝いている、宙を舞う水が太陽を反射させて目映い。
 みんなが笑っている、その中で、虹の欠片が光る。
 睫についた水滴が作る虹の欠片。きっと、みんなにも見えている筈の虹の欠片。舞はそ
れをもっと輝かせるように大きな水飛沫をみんなに向かって弾き飛ばした。