春の大曲線













 大きな音を立てて、頭上の木々の枝がしなる。街灯は遠く、月明かりに真っ黒く染まっ
た白樫の葉が、舞の見る景色に模様を描く。細長い木の葉の奥に、満月が白く輝いている。
「舞ー! おまたせ!」
 駆け寄って来る足音に、舞は緩やかにカーブする道路を振り返った。息を弾ませてアス
ファルトを蹴る咲が手を振りながらやってくる。首の後ろで結んだ群青のマフラーの端が、
軽やかに跳ねる。
「ううん、私も今来た所だから。」
 首を僅かに傾げると、咲は満面の笑みを浮かべた。最後の一歩を大きく飛ぶと、舞の隣
に両足を揃えて着地する。
「そっか、よかった。
 じゃあいこっか!」
 左手を伸ばして舞の手をぎゅっと握ると、ふたりは並んでトネリコの森への道を歩き始
めた。
「まだ夜は寒いね、やっぱり!」
 肌を叩く夜気の冷たさを、触れ合った掌の暖かさが埋める。夕凪の町を背中に坂を上が
って行くふたりの上に、満月がぽっと灯っている。
「でも、もう羽虫も出て来てるし、それに春の匂いがするわ。」
 舞の前髪が風に靡いた。咲は頷くと、目蓋を閉じて鼻から空気を吸い込む。冬の土ぼこ
りと寒さだけが詰まった風とは違う。新しい葉の匂いと、開き始めた花々の薫りが混じる。
肌に強く、生き物の気配を感じる。
「満と薫は、もう来てるかな。」
 握る手に僅かに力を込めると、舞が同じ強さで握り返して来た。
「ちょっと、いそごっか。」
「うん。」
 目を見つめ合って頷き合う。舞の二つの目には、咲の姿と夜の森が映っていた。二人の
足は神社へと向かう石畳を踏む。神社の裏を回って少し行けば、大空の木がある。今夜の
待ち合わせ場所だ。
「ここまで来ると、すっごく静かだね。」
 灯籠が左右に並ぶ道を進む。肩越しに振り向けば、木々に隠れて町の光は見えない。満
月の輝きが二人の足元を照らすばかりだ。空を渡る雲の切れ端が白から灰色へグラデーシ
ョンを描き、月に続く道のようだった。
「うん、なんだかドキドキしちゃう。」
 鳥居をくぐる。赤いはずの鳥居も薄青く見える。神社の正面、赤と白の太い綱を垂らす
鈴を横目に左手に回り込む。玉砂利をざくざくと踏みしめる舞の手を、咲が引いた。
「ね、舞。
 ここの裏、見てよ!」
 咲が神社の軒下を指差す。近づくと、咲は膝を折り曲げて縁側に片足で乗り上がった。
手に導かれるまま、舞も体を乗り出して屋根の内側を覗き込む。薄暗い屋根の裏側、咲が
指差す先、太い梁の上を舞は見つめる。瞬きを数度繰り返し、その青さに目が慣れるとぼ
んやりと形が見える。泥で作られた掌程の器がある。
「あ、ツバメの巣。」
 呟くと、咲が大きく頷いた。
「そう! この前、こっちから帰ったら、ツバメがひゅんひゅん飛んでてさ!
 なにしてるのかなー、って覗いたら巣を作ってるの見つけちゃったんだ!」
 まだ作りかけなのだろう巣に、眠るツバメの姿は見えない。きっと何処かの木陰にとま
り、目を閉じているのだろう。春の闇は不思議だ。何もいないように見えて、一歩入れば
そこにはいろいろな生き物が潜んでいる。
「よし、満と薫のところに行こう!」
 縁側から飛び降りて、咲は舞の手を握る指に力を込める。ツバメの巣を見上げる舞の横
顔は澄んでいる。舞はかわいいと思う。けれど、真剣に何かを瞳に映している舞は綺麗だ。
きっと、明日の朝にでも、舞はここに絵を描きに来るだろう。だから、ポットにあったか
いお茶を入れてこっそり隣に座りに来る、そんな明日の日差しを咲は思い描いた。
「うん、行きましょ。」
 舞の視線が咲の元へと戻って来る。緩やかな舞の微笑みを見て、咲の足は軽くなる。玉
砂利の音のトーンさえ上がった気がする。脇に生える背の低い楓に肩を掠めさせ、ふたり
は道を急いだ。
 神社の裏庭を抜け、飛び石も無くなればもう大空の木の陰が木立の先に見える。見上げ
る程に大きな木の、一番上の枝が風に揺れている。一歩毎に土の薫りが立ち上る草の中を
進み、背の高い楠の隣を抜ける。赤い小さなお社の脇に、咲と舞は出た。
「咲、舞。
 そっちから来るなんて、珍しいわね。」
 明るい声が響く。
「満! 薫!」
 満と薫が、大空の木の前に並んで手を挙げた。
「咲のことだから遅れて来るかと思ったけど、さすが舞ね。時間ぴったり。」
 目の前に来た二人に、薫が口を解く。咲はにや、っと口角をあげると、眉毛を逆ハの字
にしてみせる。
「ちょっとー、それってどういう意味ー!」
 くす、っと薫がマフラーに口を埋めて笑った。
「咲ー!」
「舞ー!」
 聞き馴染んだ懐かしい声がした。咲と舞は弾かれたように迷い無く、大空の木を振り仰
ぐ。太い幹の根元、開いた穴の真っ黒な中から、二つの光が飛び出した。かつての流れ星、
そして四人の友達がその姿を現した。
「フラッピ!」
「チョッピ!」
 歓声を上げるふたりの腕の中へ、フラッピとチョッピはそれぞれ飛び込んだ。久しぶり
に頬に触れるチョッピのやわらかさに、舞は思わず目を細めた。
「ふたりとも、元気にしてた?」
 問い掛ける舞に、フラッピが咲の腕の中で耳をピンと立てる。
「もちろんラピー!」
 威勢のいい声、あたたかさと微かに香る花の爽やかな匂いに、咲は頬が崩れるのを止め
られない。
「ムプー!」
「ププー!」
 続く声がして、ふたつの影が満と薫の頬にタックルをする。おもちみたいに柔らかなふ
たつの感触に、満と薫は友達ふたりに笑い掛けた。
「ひさしぶりね、ムープ。」
「元気そうでよかったわ、フープ。」
 ムープとフープはにっこり全身で笑うと、くるっと一回転してふたりの頭の上に乗っか
った。全員が揃ったのを認めると、咲は片手を空に掲げる。
「よーし、じゃあ、今から春の天体観測を始めます!」
 その号令に合わせて、舞、満、薫、フラッピ、チョッピ、ムープ、フープが手を挙げた。
『はーい!』
 天体観測と言っても、なんてことはない。みんなで一緒に座って、星空を見上げるだけ
だ。舞の家でもいいけれど、やっぱりみんなで並んで見たかったからみんなで待ち合わせ
をして来た。草の上にごろんと横になればまるで、ちらちらと瞬く星空に体を投げ出すみ
たいだ。
「んーと、あれが北斗七星だっけ。」
 空の中頃にある、眩しい七つの星の並びを咲が指差す。
「ほくとしちせいチョピ?」
 舞の腕の中で、チョッピが同じ星を仰いだ。頭を巡らせると、耳元で草が擦れた。草の
青さが鼻を掠める。
「あの七つの星、わかる?
 あれを繋げると、ひしゃくみたいな形になるでしょう。
 それを、北斗七星とかひしゃく座、って呼ぶのよ。」
 答える舞の言葉に、ムープとフープが満と薫の頭の上で跳ねた。
「ほくとしちせームプ!」
「かっこいいププ!」
 迷惑そうに、でも少しくすぐったそうに薫が眉を垂らす。満は夕凪の町を見下ろすと、
ゆっくりと視線を上に上げて行く。細い髪が頬を滑る。
「町の中だと明るくて見えないけど。
 本当にたくさん星があるのね。」
 西から東へ、北から南へと巡らせて数えようと思うけれど、満でも面倒だと感じる程に
硝子の粒が散りばめられている。よく目を凝らせば、色さえ異なる星々がある。
「あの星を、取りに行けたらいいのにね。」
 そう紡いだのは薫だった。満は小さく笑った。
「いっこ、いま掴んでるじゃない。」
 驚いて顔を一瞬変えて、それから薫は掌を土の上に置いた。
「そうね。」
 木々が揺れて、葉が擦れ合う音が降る。
「舞ぃー、他には星の名前、知らないチョピ?」
 チョッピの手が舞の袖を掴む。「そうねぇ。」と舞は応じると、北斗七星の柄の端にあ
る星を指差した。滑らかな指が、東へと空を渡る。
「北斗七星の斜め下に、明るい星があるでしょう。
 あれが、牛飼い座のアルクトゥス。
 そこからもっと先にもう一個、眩しい星、わかる?」
 舞の傍に寄り添って、ムープとフープも星を探す。無数に小さな星があるけれど、一番
綺麗な星二つはすぐに見つかった。
「わかったムプ!」
「ププ!」
 得意げに口の端を持ち上げるふたりに、舞はうれしそうに頷いた。
「あれがね、乙女座のスピカよ。
 その三つを繋いだら、春の大曲線。」
 大曲線、薫が口の中で繰り返した。北東の空から南東までを繋ぐ流れはまさに、春の大
曲線というに相応しいだろう。舞った木の葉が薫の膝の上に落ちた。
「咲はなにか知ってるラピ?」
「えっ。」
 フラッピの台詞に、咄嗟に咲は跳ね起きた。背中についた草切れがぱらぱらと落ちる。
「えっとねぇ。」
 学校の理科で、確かに星座はいくつか習った。北斗七星とカシオペア座と、オリオン座
くらいしか覚えていないけれど。でもどれかと言われると、ちょっぴり自信に欠ける。咲
はうーんと一息唸ると、やおら勢い良く南の空を指差した。
「あれ!」
 ずびしっ、と示した低い空に、舞が知っている星座はない。町中では明るくて見え難い、
薄らとした星明かりが幾つか灯っている。
「あれはね、フラッピ座って言うんだよ。
 フラッピの尻尾の形に似てるでしょ?」
「ラピっ!?」
 思いがけないものだったのか、フラッピが身を乗り出す。満も目を凝らしてみると、確
かにそれっぽく見えなくもない6個の星がある、ようなないような。ちょっと歪かも、な
んて思っていると、フラッピが案の定、尻尾を立てて抗議をする。
「フラッピの尻尾は、もっとカッコいいラピっ!」
「えー、結構似てると思ったんだけどなぁ。」
 ムープとフープは顔を突き合わせて、「あのナスと同じムプ。」「ププ。」と神妙に頷
き合う。
「ナス?」
 舞が首を傾げると、ふたりは「なんでもないムプ!」「ププ!」と口々に言って満と薫
の頭の上に引っ込んだ。
「ムープ座は、じゃああれなんかどうかしら。」
 満が東の空を指差してみせると、薫が続いて西を振り向いた。
「フープ座はあれね。」
 頭の上で、ムープが尻尾を振り上げてよろこんだのが伝わって来た。ぺちぺちと手が満
の頭をたたく。
「ムープ座ムプ! かっこいいムプ!」
「ププ!」
 チョッピが舞の手を引いた。舞は真っ直ぐ、空の一番上を示した。吸い込まれそうな星
空がある。
「チョッピ座はあれね!」
 5つの明るい星がある。一つは青く輝いて、こちらを見つめている。チョッピが耳を揺
らした。
「みんなの決まったね!
 ほらフラッピ、やっぱりフラッピ座はあれで良かったんだよ!」
 フラッピの尻尾が左右に振れる。その顔をちらっと覗いて、咲は視線を上げる。フラッ
ピ座、チョッピ座、ムープ座、フープ座と名付けられた星々を焼き付ける。これから毎日、
夜の空を見上げた時に真っ先に見つけられるように。
「それにしても、舞は詳しいのね。」
 満の素直な評価に、舞は軽く首を振った。
「お兄ちゃんが好きだから、それでちょっとだけいっしょに覚えたの。
 だから、本当にちょっとだけ、ね。」
 謙遜かな、なんて満が思って相槌を打つと、隣から声があがった。
「ねぇ、舞。宇宙にはどれくらい星があるの?」
 マフラーに半ば埋まった薫の唇が疑問を紡ぐ。胸に抱き寄せたチョッピの頭に顎を載せ
て、舞は首を捻った。困ったように眉毛も傾いて、おだんごからほつれた髪の一束が跳ね
る。
「すごくいっぱい、としかわからないわ。
 春の大曲線の先だっかな、そこでは銀河が二つぶつかって、
 目には見えないけど今も新しい星が生まれてるんだって。」
 満は脳裏に空の地図を描く。水蒸気が多いという春の夜は、冬の空よりもわずかに星の
数は少ないような気がした。それでも、見えないだけで天体は幾つもあるという、しかも
今も生まれながら。星の群を黒い紙に落としたら、真っ白くなってしまうだろうか、そん
なことを考えた。
「いっぱいムプ。」「ププ。」
 ふたりはそう零すと口を噤んだ。そうして、頭上を仰ぐ。息遣いが微かな間を埋める。
森に潜んでいる虫や動物の気配が、この風にも宿る精霊の囁きが。咲、舞、満、薫、フラ
ッピ、チョッピ、ムープ、フープの声が。
「どんな絵も自由に描けるね。こんな星空があって、それだけたくさん星があるなら。」
 薫の指先が天球を擦る。北斗七星の柄を始めに、牛飼い座の一等星へ、おとめ座のスピ
カへ。大曲線を描く。そしてその先、星を生み出す銀河を過る。
「星空は何処までも続いてくのね。」
 満が呟く。まだ肌寒い夜風が森の木々を浚って、四人が座る草原を揺らした。蒸した土
の匂いがする。
「見えないくらいに遠くにあっても、会えないムプ。」
 不満げにムープが小さい口を尖らせると、フープが舞の鼻先に近付いた。
「会えない人の方がいっぱいププ。」
 ムープとフープの不思議そうなまん丸の目。舞は口元を解くと、開いた掌を夜に翳す。
薄青く指先が夜闇に沈む。
「会えないけど、きっと何かで繋がってるんじゃないかな。
 もしかしたら、誰か今頃、こっちに手を振ってるかもしれないわ。」
 星明かりと町の灯が映る舞の横顔から、咲は視線を頭上へと向ける。春の大曲線が映り、
目には見えない彼方の銀河を描く。星の生まれる場所へ、生命の生まれる場所へ。
 潤んだ瞳のように星の瞬く夜空へ、 咲の声が響く。
「そうだよ。
 だって私達は、星空の仲間なんだから!」