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 二死一、三塁。ボールカウント3、ストライクカウント2。今日は、スライダーのコー
スが甘い。高めに入り、三遊間とショートを抜かせてしまった。左右の揺さぶりも相手は
冷静に見極めていて、こちらの球威にも付いて来ている。
 咲は優子が出したサインに首を横に振った。一、三塁に牽制の視線を送り、ボールを握
り直す。勝負を掛ける球はもう決まっている。コースが甘いなら、変化球でど真ん中を突
く。
 近頃作ったばかりの真新しいサインを優子が出すのを見て、咲は口許をグローブで覆い
隠したまま首を引いて頷いた。汗でグローブが蒸れた。決め球と心は決まっているのに、
本当に決まるかどうか体の方は操りきれないのが問題かな、と胸の端っこの方で考える。
でも、決めたことだ。やりぬく。
 マウンドの砂をスパイクで削る。その爪先の傍に、淡く色づいた桜の花びらが一枚、落
ちていた。咲はふ、と肘から力を抜いた。
 そして、息を振り絞る。
 小指と薬指の間から抜けた白球は、利き手方向に変化してストライクゾーンど真ん中、
バットを避けてキャッチャーミットに突き刺さった。
 乾いた音が咲の耳朶を打つ。
「ストライク!」
 アンパイアが拳を握りしめるのが見えた。
 咲はぐ、と唇を噛み締めて、溢れて来そうな歓喜の声を呑み込んだ。
 そのとき、強い風が足元から吹き上げた。
 桜の花弁と砂埃を舞い上げた風が、青く白い雲を幾つも浮かべた空へ突き抜ける。花の
匂いが体を貫いて、溢れる生き物の気配が背中を押す。皆が髪や顔を抑える中、咲は風が
流れて行く先を追った。グラウンドを囲む緑の土手へ、そこに咲き乱れるたんぽぽへ。歓
声を上げる居並ぶ桜の木へ。澄んだ花びらが何枚も降る。
 その太い幹の隣に、一人の女の子が立っていた。スケッチブックを片手に、長い髪を抑
えて、桜の雨に包まれている。彼女の視線は僅か、山の方へ流れて行った閃きを追い。
 そうして、ゆっくりと、こちらを振り向いた。
 桜が舞の頬を滑る。舞は咲へと微笑んで、首を僅かに傾げた。咲は大きく手を振ると、
ベンチへと駆け出した。


			桜


「うーん。」
 思いも掛けず咲が零した悩み声に、満はパンを齧ろうと開けていた口から、疑問を飛ば
した。
「どうしたの?」
 二年B組の教室はぽっかり穴が空いて、静まり返っている。三年への進級を目の前にし
たこの時期、今まで壁やロッカーを彩っていた掲示物や私物はなく、まるで突然、記憶喪
失にでもなられたみたいだった。よそよそしさの中に、やわらかい日溜まりだけが照って
いる。
「桜、きれいに咲いてるじゃない?
 だから、みんなでお花見したいなー、って思って。」
 に、とお決まりの笑みを浮かべると、咲は手にしていた水筒からお茶をカップに注いだ。
麦茶がちらちら目に眩しい。
『お花見?』
 満と薫は声を揃えた。不思議そうに目を剥くふたりに、舞は頬を解くと、「そう。」と
答えた。
「桜を見ながら、みんなでお弁当を食べたりするの。」
 小鳥みたいに、舞の言葉が暖まった机の上を跳ねる。薫は各々の残り半分未満になった
お弁当を見渡し、不思議顔の満と、わくわくが堪えきれないといった風の咲と、目を細め
る舞を順に見た。舞の黒髪は熱を吸って温かそうで、咲の茶髪は膨れてふわふわの綿菓子
みたいだった。
「ふぅん、それは楽しそうね。
 でも、どうして難しい顔してたの?」
 薫は言いながら、お弁当箱の中でウィンナーを転がした。表面で油がつるつるしている。
舞はちらりと、隣に座る咲に視線をくれた。問い掛けるというよりは、答えを確認する為
みたいな視線だな、となんとなく薫は感じた。
「私達だけじゃなくって、フラッピとチョッピ、ムープとフープみんなで見たいな、って。
でも、それには人の来ない桜じゃないといけないじゃない? そんなところあったか、思
いつかないんだよね。あったような気はするんだけど。」
 言うなり咲は眉毛と口をへの字に歪めた。ミミンガ騒動、というのを満も薫も聞いたこ
とがあった。いつも溌剌とした咲と舞が、見るも無惨に肩を落として沈んでいたのを思い
描くと、誰も来ない、という重要性が身に染みる。
「学校はみんな来るし、河川敷も青いシートが敷いてあったわね。」
 半月になったメロンパンを眇め見つつ、満が唸る。クッキー生地の凹凸にまで、淡く春
が映り込んでいる。
「町役場の前もバザーとかやってるし。人の来ない公園も、なかったわね。
 街路樹はみんな傍を通るし。」
 この時期の桜は、町で一番輝いている。町中にあって誰も見向きもせず気付かれない桜
など、満は考えれば考える程、一本も無いような気がした。
「トネリコの森は?」
 薫はご飯の最後の一欠けを飲み込むと、咲と舞に尋ねた。舞は眉間に力を込め悩むよう
に窓の外へと目を向けたが、咲は首を振った。
「小さい頃からずっと遊んでるけど、見たコト無いよ。」
 そう言われてしまうと手詰まりで、満は牛乳でメロンパンを流しこんだ。

 舞が食べ終わったお弁当を鞄に詰める為に開けた鞄から、スケッチブックが二冊覗いて
いるのを満は見つけた。
「舞、それ、新しいスケッチブック?」
 深緑の一冊を指差すと、舞は鞄から半分出して頷いた。
「えぇ、そうよ。」
 真新しいハードカバーのスケッチブックはまだ角が整っていて、閉じられたままの紙面
も白い。丁寧に結ばれたリボンは先が解けないようにのり付けされていた。
「終わった方、見せてもらっても良い?
 薫はケチだから見せてくれないの。」
 その言い草に、薫が満を小突いた。本当のことじゃない、と目で言うと鋭い目つきを向
けられる。舞は困ったように笑った。
「いいわよ。夏前から使ってたの。」
 少しくたびれた茶色の表紙が目に焼き付いた。肩越しに薫を一瞥し、満はスケッチブッ
クを開く。咲は舞のすぐ後ろの机に座り、午前練習で使ったグローブを取り出した。爪の
先で、合間に挟まった小石を弾く。
「へぇ、すごいわね・・・。」
 満はスケッチブックの1ページ目を開き、ようやくそれだけを言った。描かれていたの
は大空の木だ。ちょうど、隣に立っている社から見上げた構図で、雨粒を葉の上に乗せた
大空の木が濡れて光る青空に手を伸ばしている。
「色が、見えるみたいね。」
 鉛筆だけで描かれた景色を見つめ、薫が零した。舞が少し、照れたように頬を染めた。
その腕を、咲が後ろから絡めとる。頬を舞の肩に押し当てて、自分のことのようににっこ
りと歯を輝かせた。
 次のページは、学校のベランダから見た街並だ。夕凪町とその先に海が広がっている。
雲の影が家々の屋根に落ちて、合間に見える日差しがまるで道のようにその間を貫いてい
る。そのさらに次には、トネリコの森だろうか、高い木々に囲まれて一本の若木が光を浴
びていた。若緑の呼吸がそこから吹き出しているみたいだった。
 まるで、舞の心の中を見てるみたい、満が繰るページの一枚一枚を胸に映しながら、薫
はそう思った。薫も見たことがある景色なのに、色彩がまるで違う、見ているものが違う
舞が何を想って、何を大切にして見つめているのか伝わって来る。同じ景色も持っている
心の違いで、違うものに見える。
「あ、なにこれ、雲?」
 満が半ばのページで手を止めた。いつの間にか咲の両腕に捕まっていた舞が顔を向けた。
咲も身を乗り出して来て、舞の肩に顎を置く。
「それは入道雲よ。夏によくできるの。」
 にゅうどうぐも、満は復唱して、黒鉛の踊るページへと目を落とした。海の上に、町の
何倍も大きく、まるで空のてっぺんを突いてしまうのではないかと言う程の、真っ白い雲
が聳えている。日差しが強くて、画面中央を飛ぶカモメの姿も青く陰を落としている。町
に焼け付く日差しは、海と水平線を混ぜた。
「こんな雲が出来るのね。知らなかった。」
 薫がそう呟く。咲が舞の右手に自分の左手を絡めて、握った。
「今年は見られるよ!
 特大の、すっごいのがね!」
 ぱっと顔を太陽に変えて、咲が絶好調に笑った。
 咲はそのまま机を飛び降りると、グローブを手に引っ掛けた。そのまま鞄を肩にかけて、
バックステップで手を振る。
「私、これからお店の手伝いがあるから!
 また明日ね!」
 グローブを持った手を大きく掲げると、咲はそのまま走って教室を出て行った。舞が頷
いて手を振り返すと、肩口を黒髪が揺れた。「またね。」と送り出し、満は入道雲をもう
一度見下ろしてから、ぱたんとスケッチブックを閉じた。舞と薫は午後から美術部だ。満
はみんなでお昼を食べたかったから学校に来たに過ぎない。
「私達もそろそろ、美術室に行きましょ。」
 黒板の上に掛けられた時計を見上げて、舞が言った。時刻は十二時五十分を差していた。
「ありがと、舞。」
 満はスケッチブックを差し出した。長く自分の影が机の上に垂れている。
「ええ。」
 白い舞の手が、大切そうに受け取った。
 舞の気持ちがこもった一冊だ。薫は舞の瞳を振り仰ぐ。黒い睫には陽光が絡んでいる。
「薫さん、そろそろ。」
 スケッチブックを脇に抱え、舞が鞄を持ち上げた。
 薫は咄嗟に、断っていた。
「先に行ってて。満と、話すことがあるから。」
 きょとんとして舞が薫を見上げた。無言で頷いて薫が頷くと、戸惑いを浮かべたまま舞
は満に手を振って教室を出て行った。足音がゆっくりと遠ざかって行く。
「薫?」
 いぶかるように、満が薫を振り仰いだ。薫は目を細める。そうすると、光が眩しかった。
 視界の端で、校庭の桜が揺れた。


「うぅぅーん・・・、無いなぁ。」
 鈍く呟きながら、咲は自転車を漕ぐ足に力を込めた。午後最後の配達は本日最後となる
一件を終えた所だ。山沿いの道を咲はからからと車輪を回す。右手の方を見ると、町が一
望出来た。薄い長袖一枚で過ごせる心地よい風が肌の上を滑る。
「お花見したいんだけどなぁ。」
 道路の隅に溜まる桜の花びらを避けて進みながら、咲は後ろ頭を掻く。道すがら回りを
注視して漕いでいたけれど、誰も知らない桜は一本も見当たらなかった。野山に分け入っ
たのではないから、当たり前かも知れないけれど。
「やっぱり、誰も知らない桜なんて、ないのかなぁ。」
 ハンドルに肘をつき、よろよろと自転車が蛇行する。日差しが斜めになって来て、伸び
るガードレールの影がなお、咲の行く手をぐにゃぐにゃに曲げた。初めて来る道だからな
おさら、道は曲がりくねっているかのようだった。
 アスファルトは白んで古く、少し罅入っている。左右に並ぶ家も同じように、長くこの
場所に息づいているで、覗く椿の呼吸が緩い。塀を乗り越えて葉を茂らせる白樫の木漏れ
日が涼しい。
「あ。行き止まりだよぉ。」
 油不足の音を立てて、咲は自転車にブレーキを掛けた。細い路地は黄色の車止めに突き
当たり、その先に森が広がっている。左右の民家も道もそこで終わり。草の生い茂るあぜ
道がうっすら走っているのを、咲は眺めた。人一人が草を掻き分けて漸く進める程度の道。
車止めはこことそちらをわけているようだった。そちらにはまだ涼しそうな森の影が流れ
ていて、鳥の声も微かに響いて来る。
「トネリコの森の方向、かな?」
 ペダルに片足を乗せたまま、咲は逡巡した。行ってみれば、と頭の上の方で誰かが囁い
ている。でもこっちだって、来たことがないわけではない。桜の木が堂々と花を咲かせて
いるなんてことはないと、十四年この町で、しかもトネリコの森を遊び場に育って来てい
るため重々承知している。それなのに、ちらちらと過る何かのイメージが咲の背を押す。
「せっかくだから、行ってみますか!」
 咲はひとまず考えることは放棄して、自転車から降りた。


「案外、ジャングルだったなり。」
 草むらに分け入り五分も進んだ所で、咲は盛大にため息を吐いた。トネリコの森は下草
が刈られていたりして、あまり人が来ない割には整えられているけれど、ここは全くの原
生林とでもいった感じだった。パンでもちぎって撒いてくればよかったかな、と首をこけ
させながら思うくらいに。
「でも、もうちょっと・・・。」
 ソフト部仕込みのネバーギブアップがそうさせるのかなんなのか、咲は草で引っ掻いた
頬を手の甲で擦りつつ、あと五分頑張ろうと心に決めた。囲む木々は森の名前の通りトネ
リコが多く、行く手を阻む雑草は少し稲に似ている。
 咲は手で大きく草を薙ぐと、新たな一歩を踏み出した。顔が半ばまで草に埋もれて前が
見えないから、地面を探る足は慎重だ。青臭さで肺を満たしながら、先に進む。時折羽虫
が鼻先を掠めて行った。
「う、よっこいしょ。」
 フラッピが聞いたら呆れそうな台詞を口にして、咲はもう一歩進んだ。顔が草むらを抜
ける。
 ぽっかりと広場がそこに出来ていた。競い合うように枝を伸ばし光を僅かにしか零して
くれなかった木々が場所をあけ、行く手を阻んでいた下草の植生が変わる。緑のカーペッ
トの合間に、膝丈程のハルジオンが数本咲く。お日様が溜まる場所。
 その真ん中に、咲より少し背が高いだけの、まだ細い小さな桜の木が花を咲かせていた。
控えめなその咲き方は、花の一つ一つの形を鮮明にする。間に見える黒い枝がしなやかに
風に揺れる。
 咲は踏みしめるようにゆっくり、桜の木に近づいた。花影に一人の姿が覗いている。な
んとなく、咲の背をここまで押して来た人。いつの間にか、ここまで咲の手を引いて来た
人。

 そうだ、これはいつの日か、

 草を踏む音に、その人が桜の木を回る。淡い花びらがその頬に写る。
 咲は微笑みとともに、その名を唇に乗せた。
「舞。」

 舞のスケッチブックで見た桜だ。

「咲。」
 桜に包まれて、舞が微笑む。咲は手を伸ばして、舞の頬に触れた。髪を梳いて、一枚の
桜の花びらを指先に取る。
「舞が、桜になっちゃったみたい。」
 くすくす笑うと、ふたりに触れている桜の木も揺れる。見上げるような桜も良いけれど、
抱きしめてくれるような小さな桜もいいな、と咲は口許を解いた。五枚の花びらが、空を
向いている。
「小さい頃の絵に小さな桜の花があったの。
 それで、お昼にスケッチブック開いたら、あ、葉桜だ、って。」
 描いてるときに気付かないなんておかしいね、舞がそう言って僅かに舌を見せた。
「咲がお花見したいって言ってくれたから、気付いたの。」
 舞が笑うと、桜も同じように囁いた。咲は口を開いて満面の笑みを零すと、桜ごと舞を
ぎゅっと抱きしめた。
「これで、お花見出来るね!」
 舞の匂いと、桜の香りがした。

 ふたりで居るっていい、見てる世界が大きくなる。
 みんなで居るっていい、楽しいことがたくさん増える。