少しで良い、救いを。








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				始まりの日







 誰かが、言っていた。
 星空は私達、人間のようだと。
 若い星、年寄りの星、眩しい星、暗い星、たくさんの星は、まるで私達のようだと。
互いに照らし合いながら、この広い宇宙で生きているのだと。
「はやて。」
 砂漠の続く夜空の世界に、足音が一つ現れた。はやては振り返らず、空を見上げたま
ま応えた。
「提督が、こんなところで油売ってええの?
 クロノくん。」
 出会った頃から変わらない声音。クロノには変わったのはむしろ、自分の方な気がし
た。昔口ずさんだ歌も、もうほとんど歌えない。
「髪の色、ユニゾンしているときのままなんだな。」
 クロノははやての後姿を見つめて言った。近頃は見ることの減っていた普段着姿。家
からふらっと出てきたような格好なのに、髪の色だけが違う。異質なクリーム色。
「髪だけやないんよ。
 目も碧のまんまなんよ。」
 はやてが振り返る。髪が肩を滑って、見慣れた笑顔をこちらに向けた。人懐っこい笑
み。魔力に底光りする碧色の眼が、クロノを映した。クロノは目を逸らしたい気持ちに
駆られながらも、受け止めるようはやてを見つめた。
「リンカーコアの分離は、出来ないのか?」
 かすかな願いを込めてクロノは尋ねた。それが、絶望に変わらないことだけを、ひた
すらに祈って。はやては見惚れるような笑みをくれた。
「クロノくんは、カフェオレからミルクとコーヒーを取り出せるん?」
 それは、どうしようも無い事実だった。
 例えばあの時、強引に魔法を使わなければ、システムが破壊されることもなく、融合
も暴走も起こらなかったのかも知れないけど。
「守護騎士システムの段階的な切り離しを行っていたのは、
 こういうときのためだったんだな。」
 クロノにそう言われて、はやては、元々はそういうつもりでもなかったんやけど、と
破顔した。守護騎士達の顔が頭に浮かぶ。はやては頭上の星を仰いだ。
「みんな、せっかく大切なものが出来たのに、
 私が死んだら、一緒に消えるしかないなんて、もったいないやん。
 そう思って、結構前にいつでも切り離せるような段階まで、
 進めといたっていう、だけなんやよ。」
 10年間、共に居てくれた存在。一人きりだった自分の、家族になってくれた人たち。
最初は、傍にいてくれるなら誰でもいいと、縋っただけだった。そのうちに、彼女達で
無ければダメだと、思うようになった。
「みんなは今、どうしてるん?」
 会いたいと素直に思う。いつだってうるさいくらいに賑やかなあの家に、戻れたらも
う何もいらないとすら思える。昔はいくら一人でも大丈夫だったのに、今はほんの数日
で参ってしまう。
 クロノは何処か、彼方を眺めていた。
「リィンフォースは泣いてた。
 はやてに、嫌いだって、言ってしまったって。
 本当は大好きなのに、嫌いだって、言って、別れてしまったって。
 泣いてた。」
 はやては一言、ため息のように漏らした。
「そっか。」
 目を伏せたはやての脳裏に、転移魔法の中に消えていくリィンフォースUの姿が浮か
んだ。最後に見えたリィンの顔は、やはり泣き顔だった。
 怒声を浴びせたことを今更後悔する。あんな顔をさせたいわけじゃない。悲しませる
為に作り出したんじゃない。共に、生きる為に作ったのに、どうして、笑顔だけで彼女
の、彼女達の世界を彩ってやれないのだろう。
 微笑んでいてほしかった。
 あの柔らかい昼の日差しの中、海風に包まれていた街で過ごした日々のように、
 いつまでも瞬くような微笑を。
「ヴォルケンリッターは魔力の絶対量こそ下がったが、
 生活に支障は無いレベルだ。
 怪我も、快方に向かっている。」
 リィンフォースが捧げ、守護騎士達が十代の命を捨てて与えてくれた、自分という人。
一体、自分は彼女達の何に、応えられたというのだろう。破壊ばかりを撒き散らして。
「それ聞いて、安心したわ。
 ありがとな、クロノくん。」
 システムからの分離という、僅かながらの自由がせめてもの贖罪になれば良いと思う。
クロノは閉口して、短く相槌を打っただけだった。二人の他に、人も、生き物の気配も
しない砂の中は静かで、その静けさが体の中を侵食してくるようだった。
「あの人たちの目的はやっぱり?」
 はやてが問い掛ける。クロノははやてを振り向いて、淡々と答えた。
「君とフェイトの確保、だそうだ。」
 返って来たそれは、しかしはやての予想と少しずれていた。
「フェイトちゃんが?」
 聞き返すと、クロノは確かに頷いた。厳しい目がはやてに向けられる。
「プロジェクトF.A.T.E.は知っているな。」
 何度か耳にした事のある言葉だった。機動六課の担当したJS事件も、それ絡みとい
えないこともない。はやてはなるべく間違わないよう注意しながら、持っている情報の
確認をする。
「確か、人間を人工的に作り出したろいう研究やったっけ。
 フェイトちゃんはそれで作り出されたとかいう。」
 クロノは肯いた。
 そして、押し殺した低い声を出す。
「例えば君と同じ能力を持った人間が100人居れば、
 世界は形を変えるだろうな。」
 はやては急激に理解する。全ての不審が、頭の中で一直線になって、意味を持った。
最初に口をついて出たのは、驚愕だった。
「そんな、人間を兵器扱いするようなこと。」
 クロノが視線を下に落とした。苦々しい表情で吐き捨てる。
「間違ってるよな。
 でも、それを真剣に考えてる人間が、多いんだよ。」
 言い放つ。
「管理局にも。」
 その歪みを。
 はやてはぽつりと返した。
「そう、みたいやね。」
 とっくに判っていたことだった。
 闇の書事件は大きな事件ではあるが、解決事態はアースラ単機で行われたものであり、
その詳細を知っているものは限られている。そして、レアスキル保持者はその能力から
出自までが特秘事項扱いになる。一般に、はやてが夜天の魔導書と融合したことは知ら
れていないはずのことなのだ。
 それが何故、知られていたのか。そして何故、あの融合機が的確にセキュリティホー
ルを突いて来ることが出来たのか。答えは簡単なことだった。
「フェイトが助けたあの女の子、覚えてるか。
 ビルの中に居た子。」
 フェイトがビルの中から抱き上げて来た女の子をはやては思い描く。一瞬しか見えな
かったが、茶色掛かった黒髪の女の子だった。
「うん、覚えてるよ。」
 思えばあれが決定的だったのかもしれない。あの子が、殺されたりしなければ、フェ
イトが怒りに我を見失うことなどなかっただろう。あんな怪我を負うことも無かっただ
ろう。
 思索にふけったはやての耳に、クロノの声が響いた。
「あの子も、そうなんだ。」
 全ての景色が、瞬間遠ざかったような錯覚に陥った。目を見開いて、はやてはクロノ
の顔を凝視した。クロノは顔を伏せたまま、言葉を続ける。
「あの子も、研究の為に作られて、
 でも期待する成果が得られなかったから、
 確実にフェイトを落とすための駒として使ったそうだ。」
 胸の縁にこみ上げてくる感情がなんなのか、はやてにはにわかに判らなかった。
 ただ、間違ってる、とだけ強く思う。それは誰かを守るためなのかもしれないし、よ
り多くを助けようとしているだけなのかもしれない。単純な利己心なのかもしれない。
でも、たとえどんな理由があったとして、どうしてこんなことが出来るのだろう。
 人工的に強力な魔導師を作り出して、兵器として運用して、それで何を成すというの
だろう。はやては拳を強く握り締め、唇を噛んだ。
 冷たい風が頬を打った。
 クロノが顔を背けているはやてに向かって、重い口を開く。
「議会で、君の処遇が決定したんだ。」
 はやての体が強張った。砂礫を見つめる眼差しが揺れている。
 クロノが現れた時点で、その話だということはわかっていた。何処かに、クラウディ
アを待たせているのだろう。そもそもこうして二人きりで話せている事自体、恐らくは
クロノの命令違反だ。
 だから、最初から覚悟はしていた。
 あの街の人口は30万だった。生存者は、7名だった。
「そう、おっさん達は、なんて?」
 なるべくいつも通りに聞えるように言ったつもりだった。
 クロノが告げる。
「議会は君を、第一級破壊指定ロストロギアとして登録したんだ。」
 はやては思わず息を呑んだ。頭の中で、クロノの言葉が回り続ける。汗ばんだ手で、
服の裾を握り締める。決定的な事実が、心臓を貫く。空気が上手く吸えない。
 クロノの声が、
「そして、もし、君の捕獲に成功した際は、技術開発の研究に使用される。」
震える。押し殺して、振り絞られて、滲む。
「もう俺は君を、人間として扱ってやれないんだ。
 君は被害者なのに。」
 言葉尻が掠れて、聞えなくなって、はやてはクロノを振り返った。クロノは片手で顔
を覆って、涙を零していた。
「すまない、はやて。
 俺にもっと力があれば、そうすれば。」
 こんな風に無防備に泣くクロノの姿を見るのは初めてで、でも自分が慰めることの出
来るものでもなくて。ちょっと困ったように、泣きたいのはこっちなんやけど、とか言
えば泣き止んでくれるんだろうけど、そんな言葉を掛けられるような気持ちなんて、ど
こからも沸いてこなくて。
 はやてはクロノに背を向けた。
 何を恨んでいいのか、良くわからなかった。ただ、空しかった。
「どうして、そんな一部の力がある人に、
 みんな、捻じ曲げられてしまうんやろうね。」
 はやての情報を技術部から流したのも、知らない振りをして犯罪者に加担したのも、
そんな研究の為に街を襲ったのも、全部何処かの誰かの采配一つなのだ。気まぐれ一つ
で変えられてしまう。
「みんな、ただ、ずっと、幸せに生きていきたいだけやのに。
 どうして。」
 守る力が壊す力に。笑顔が泣き顔に。はやてはあの事件が起こってから、誰の笑顔も
見ていないことに気付いた。どうすることも、出来ないけれど。
 夏と冬が一日で訪れるという砂漠の夜風は身を切るように冷たくて、普通だったら、
バリアジャケットでなければ耐えられないはずなのに、今となってはそんな感覚すら朧
な数字で。
「はやて。
 どうする?」
 クロノの沈んだ声が耳朶を打った。クロノは手の中に、小さなナイフを持っていた。
はやては鈍い光を湛える刃を見つめた。そして、かすかに肯き、俯いた。そのはやてを
クロノが後ろから抱きしめる。はやての華奢な肩が、クロノの腕の中に納まった。
「おかしいなあ、こんなはずやなかったんやけど。」
 虚勢を張ろうとした声が、無残に震えだす。首に回されたクロノの腕を掴んで、顔を
埋めて止めようとするのに嗚咽が喉の奥から突き上げてくる。
「こんな力なんて、いくらでも持ってってくれてかまへんのに。
 みんなと、一緒に居られれば、こんな、力なんて・・・っ、いらないのに!
 なんで、こんなことになるん?
 なんで?」
 双眸から涙が零れ落ちて、クロノの腕を濡らした。しゃくりを上げるはやての背を、
クロノは強く抱きしめてひたすらに謝り続ける。ごめん、はやて、と。
「私、もっとみんなと一緒に居たかった。
 死にたくなんか、ないよぉ・・・っ!」
 溢れる涙全てを受け止めて。クロノはナイフを引いた。

 首筋から吹き出る血が視界を埋め尽くしたのは、ほんの数秒のことだった。ほんの数
秒で、はやては足から崩れ落ちる。互いに、髪も服も血でべっとりと肌に張り付かせて
いた。掛かった瞬間、温かさを感じたそれは、もう風に晒されて冷たかった。
 クロノははやてを横たえながら、じっと彼女の閉じた瞳を見つめていた。蒼白な肌に
不釣合いな赤がこびり付いている。
「こうするしか、なかったんだ。」
 クロノは何度も胸中で繰り返した為に、既に磨耗しきったその言葉を口にする。
 道なんて無かった。完全に融合したコアに夜天の魔導書の全権限を制圧され、イレギ
ュラーの起こったプログラムはどう機能するかなど判りようもなくて。もう二度と戻れ
ないと判っているのに、そんなものを抱えて、管理局からも利用しようとする犯罪者か
らも逃げ続けて、一生を送れなんて言えなかった。
 逃げられるのはここしかないと思った。数え切れない砲撃を受けて、粉々になって殺
されるのも、実験に使われて、体の中を引っ掻き回されるのも見たくなかった。
 もっと、もっと力があればよかった。
 誰にも文句を言わせないくらいの権力を持っていればよかった。そうすれば。
「ごめん、はやて。」
 数え切れないくらい呟いた言葉を、もう一度はやてにかけてクロノは立ち上がった。
クラウディアに回収を頼まなければならない。クロノが通信用のチャンネルを開こうと
した時だ。
 白い光が足元から立ち上った。
「なっ!」
 砂の上に、正三角形の魔方陣が現れていた。それははやてを中心に広がり、音も無く
回転している。はやてのクリーム色の髪が、吹き上げる魔力に靡いていた。その光が、
一度強く拍動する。はやての指先が跳ねた。
 そして、碧色の瞳が、夜空を映した。
「はや、て・・・。」
 喉が乾燥して、掠れた声しか出なかった。
 はやては横たわったまま、前髪を握りつぶした。
「私、本当に、人間じゃなくなったんやね。」
 目を瞑っても、暗闇は訪れなかった。
 永遠が始まる。