第八話









 ティアナが何も答えられずにいると、フェイトは眉を垂らして困ったように頬を掻い
た。
「えと、ティアナ、どうかしたの?」
 ティアナははっとなって、モニタを閉じ、作り笑いを浮かべた。
「あ、いえ、なんでもありません。
 ちょっと、考え事をしていて。」
 椅子を倒しそうになりながら立ち上がり、ティアナは先ほど淹れたコーヒーを、フェ
イトのカップに注いだ。フェイトの視線を背中に感じる。
「そっか。
 あ、私にもコーヒー淹れてくれたの?
 ありがとう。」
 フェイトの穏やかな声を聞きながら、しかし、ティアナの内心はざわざわと嵐が吹き
荒れているようだった。耳の奥から潮騒すら聞えるような気がしてならない。肌が粟立
つ感覚というのは、こういうのを指すのだろう。
 ティアナは知らずに喉を鳴らすと、一度息を吸い込んでから口を開いた。
「あの、フェイトさんに聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
 なるべくいつもと変わらない調子で言ったつもりだったのに声は上擦っていた。ティ
アナはそれに気付かなかった振りをして、フェイトの様子を注視する。自分の椅子に着
いたフェイトは破顔して、首を傾げた。その横顔が開いた空間モニタからの微かな光に
晒されている。
「どうしたの、急に改まって。
 判らないことなら、遠慮しないで何でも聞いて良いよ。」
 それは、今までも幾度と無く繰り返してきた言葉だった。ティアナはフェイトにコー
ヒーを手渡す。
「それが、フェイトさんのことについてなんです。
 ちょっと不躾な質問かも知れないんですけど。」
 フェイトは意外そうな顔をしたが、気を悪くした風もなく軽く頬を掻いた。
「私のこと?
 いいけど、なんか珍しいね。
 いつもは私がティアナのこと聞いてばっかりなのに。」
 少し照れてすらいるような様子で、フェイトはティアナを仰いだ。
 この2週間で強奪被害にあった全ての世界に、事件前日に行っていたことも、交戦中
の映像に似た魔力光の固有色が見えたのも、漏れた情報は捜査主任であるフェイトなら
ば知りえたことであるのも。 
 全て、偶然だと一笑して欲しい。
 転送ポートの無断使用は単なる手違いだと。先ほど脳裏を過ぎった全ては、自分の馬
鹿げた想像だと。笑い飛ばして欲しい。あの、包み込むような微笑で。
 ティアナは撥ねそうになる声を宥めて、その言葉を紡ぐ。
「フェイトさんは、
 アルハザードに行きたいと思っているんですか?」
 部屋から、全ての音が消えた。
 フェイトの面差しから、表情が立ち消える。ほんの一瞬。だが、それは、見逃しよう
のない一瞬だった。ティアナが見つめる中、フェイトはまるでそれが気のせいだったと
でも言うように、笑いなおす。
「それはまた、
 随分唐突な質問だね。」
 その目は笑っていなかった。赤い瞳の奥で、鈍い輝きが揺らめいて、自分を映してい
る。背中に嫌な汗が流れる。ティアナは音を立てて、唾を飲み込んだ。
 フェイトがゆっくりと口を開く。
「相対性原理と光速度不変の原理。」
 突然発された、耳慣れない言葉に、ティアナは、え、と思わず声を漏らした。フェイ
トはそんなティアナを一瞥し、コーヒーに一度口をつけて、続ける。
「全ての慣性系において、
 物理法則は同じ形式で表されなければならないという学術的要求と、
 光源の運動によらず、
 光の速度は2.99792458×10^8m/sであるという実験事実によって、
 時間、質量、長さ、3つの基本単位系が全てエネルギーとして表されるようになる。
 反変テンソルを用いて四元速度を定義すると、
 すぐに四元運動量が定義できるよね。
 四元運動量の第一成分、丁度時間の項だね、
 それに光速度を掛けたものを冪級数で展開すると、
 二次の項に運動エネルギーが、一次の項には静止質量エネルギーが現れる。」
 するするとフェイトの口から紡がれる言葉を、ティアナは呆然と眺めているしかなか
った。何を言っているのか、まるで理解出来なかった。むしろ、目の前の光景の何もか
もが、非現実めいているようだった。
 フェイトはティアナの戸惑いなどお構いなしに、話を続ける。
「この操作によって、物質はエネルギーに変換することがわかった、
 って言い方は正しくないかな。
 自然単位系を導入出来た時点で、自明なことだからね。
 とりあえず、物質の質量からエネルギーを取り出せるってことがわかったんだよ。
 このエネルギーを取り出す方法として、
 原子炉とかが第97管理外世界では今も用いられているんだ。
 まあ、そのためには放射性ウランとかが一定量以上必要だし、
 放射性廃棄物の処理問題や、
 コストパフォーマンス的な問題から、
 魔法の発達したミッドチルダなんかでは、
 とっくに廃れた技術になっちゃってるけど。」
 そう言って、フェイトが軽く笑った。
 そんなんだから、こんな魔導式の解析に、何週間も掛かるんだよ、と独り言のように
口にする。コーヒーがまたその舌を滑る。
「でもね、そのエネルギーを取り出す魔法形式があるんだよ。
 ミッドチルダ式ともベルカ式とも魔法の定義自体が大きく異なるから、
 魔法って言っていいのかは判らないけど。
 とりあえず、魔力を使うって意味では魔法かな。
 魔力素を中性子の代わりに原子核に打ち込んで、
 核を分裂させるんじゃなくて、内部から破裂させるんだ。
 核子をクォークつまりは量子力学的粒子にまで砕くことによって、
 質量の全てをエネルギーとして取り出す。
 そのエネルギーを魔力で統制して任意の効果を得る魔法。
 制御には魔力を使うけど、
 実際に運用されるエネルギーは魔力とは別物だから、
 例え魔法がキャンセルされる空間にいたとしても、
 魔力運用をする駆動部分さえ遮断してしまえば、
 何処ででも魔法が使えるってことになるよね。
 しかも、純粋魔力だけの運用より、ずっとエネルギー効率がいい。」
 唇を歪めてフェイトはカップの残りを喉に通らせる。コーヒーが嚥下される度、小さ
な音がその白い喉から聞えた。
 ティアナが漏らすことが出来たのは、たったの一言だった。
「なんの、話をしてるんですか?」
 その問いかけに、フェイトの赤い瞳が、ティアナを捉えた。まだ少し中身の残ったカ
ップをデスクにおいて、フェイトが深い笑みを浮かべる。
「アルハザードへ行く方法だよ。」

 ティアナは無言でデバイスを高速起動させた。
 もう、疑うことなど何も無かった。
 魔力光が弾け、バリアジャケットを纏った姿に変わる。ティアナの右手に収まったク
ロスミラージュ。自分の半身のような一体感を持つはずのそれが、重たく感じられた。
フェイトのこめかみに、銃口を押付ける。
「ティアナの魔力光はいい色だよね。
 橙色の、暖かみの在る色っていうか。」
 まるで世間話でもしているかのような調子。ティアナは唇を噛み締めた。
「フェイトさん、今すぐ投降して下さい。
 相手の情報を管理局に提出すれば、まだ処分は軽くなります。」
 フェイトの横顔は未だ笑みを湛えていた。モニタに開いた文字列をじっと見ながら、
フェイトは告げる。
「誰もいないとはいえ、
 管理局内の、執務官室なんかでデバイスを起動させたなんて、
 人に知られたら問題になるよ?」
 ティアナは無意識に、クロスミラージュを握る手に力を込めた。銃先で、フェイトの
頭骨に触れる。
「捜査情報の漏洩、服務規程違反、
 並びに犯罪組織への荷担の容疑により、
 フェイト・T・ハラオウン執務官を逮捕します。」
 ティアナが宣言した。
 しかし、フェイトはティアナを視界に入れることすらなく、モニタに共有フォルダを
開いた。そこに、先ほど届いた移送部からのメールを見つけ、合点がいったという風に、
フェイトは頬を緩める。
「無断使用の履歴、消したと思ったんだけど。
 ウィルスってやっぱり作るの難しいね。」
 その態度に、ティアナが更に言い募ろうとした時だ。フェイトの姿が突如として掻き
消えた。見失い、身を硬くするティアナの首筋に、微かに暖かな指先が触れる。
 真後ろから響く静かな声が鼓膜を打つ。
「ごめんね、ティアナ。
 私はまだ捕まるわけにはいかないんだよ。」	
 それが、ティアナが聞いた最後の言葉だった。
 衝撃に全身を撃ち抜かれ、ティアナは床にくず折れた。