私に叩き落とされた手を、はやては胸の前で引き結んだ。驚きに見開かれた目が、私
を見上げる。瞬きも忘れて、中央に私を映して。
「な、に、言っとんの、フェイトちゃん。」
 乾いた声が唇を割って出てくる。眉が歪んで、指先が微かに震えているように見えた。
気のせいかもしれない、震えそうなのは、私だ。はやての左手が、叩かれた右手を包み
込もうとして、動きを止める。唇を噛み、はやてはその左手を、私へと伸ばす。その手
は、やっぱり、震えていた。
「いきなり、冗談キツいで。
 はぐれたらもう会えへんって、分かっとるのに、
 何やっとるん。」
 はやてが不器用に笑みを浮かべた。引き攣った表情は、笑っているというよりも、苦
しんでいるように見える。
「ほんま、そういう冗談よしてって。」
 そう言って、はやては白々しい笑い声を上げる。くしゃくしゃになった笑顔の奥で、
私をずっと見つめて。はやてが私に手を差し出す。
「ほら、フェイトちゃんが行きたい道でええから、な?」
 私はその手を、見下ろすことすらしなかった。
 目を細めて、はやてを睥睨する。
「あれ、はやて。
 私がなんて言ったか、聞えなかったの?」
 はやて、私って、嘘を吐くのが下手なんだっけ。自分でもそんな気がするよ。でも、
じゃあ、嘘じゃなければいいんだよね。演技をするからいけないんだよね。
 全部、本当にするよ。君へ向かうはずじゃない苛立ちも怒りも憤りも、全部君へぶつ
けて、君を渾身の力で傷つける。
 だから早く、
「はやてとは違う道に行くって、言ったんだよ。」

 早く。









				私







「だ、だから、フェイトちゃん。
 さっきから、何言っとんの?
 突然、そんな。」
 はやての左手が、私のバリアジャケットに触れる。白いマントを握る細い指が目に付
いた。私はマントを払って、はやての手を弾く。
「やめてよ、うっとうしいから。」
 はやてが息を呑んだ。その目に私を捉えたまま凍りつく。私はもう目を逸らさない。
はやてを見下して、言葉を吐き捨てる。
「突然じゃないよ。
 本当はね、ずっと前から思ってたんだよ。
 はやてって、一人じゃ何にも出来ないよね。」
 もうなんでもいい、なんでもいいから、酷い言葉をぶつけるんだ。渾身の力で、誰の
言葉か判らない言葉で、傷つけるためだけに言葉を吐き出せ。私は最低な人間だと、他
の誰でもない、はやてにこの場で見せつけろ。
 やることはそれだけでいい。他のことなんて考える必要ない。
「この中を探索とか言ったって、
 はやての低い制御能力じゃ、やってもやらなくても変わらないんじゃない?
 砲身にしかならないアームドデバイスで、何が出来るの?」
 はやてが唇を結ぶ。私を見たまま、口を閉ざす。
 この程度じゃダメだ。後ではやてに気付かれたら、最悪だ。もう二度と、私の顔なん
てみたくないって、思わせるくらいじゃないとダメだ。そうじゃないと、はやてはやさ
しくて、それで察しが良いから。
 気付かせちゃいけない。
 むしろ、私が居なくなって清々したって思わせるくらいじゃないと、ね。大丈夫。私
はきっと、嘘を吐くのは苦手でも、人に嫌われるのは得意だ。なんて思うのは、まだ何
処かにいる子供の私が、拗ねているだけなのかもしれないけれど。
 なんだっていい。
「本当に、ただバカみたいに魔力が大きいだけで攻撃するしか能がないなんて、
 あんまり酷いんじゃないかな。」
 はやてに嫌われさえすれば、なんだっていい。
 はやてが口を開いて、でも何も言えずに閉ざす。この薄暗さでも分かる。はやての方
が多分、私よりずっと蒼白な顔をしている。私は言葉の出てこないはやてに畳み掛ける。
「あれ、何か言いたいことでもあった?
 ないよね、まさか。
 だって、せいぜい測れるのって、エネルギー強度の分布ぐらいだもんね。」
 はやてが唇を噛んだ。目の端が潤み始めている。だけど、違う。はやてに嫌われる為
の言葉は、これじゃない。
「もう少しぐらい、何か出来るかと思ったけど。
 これ以上は付き合ってられないよ。」
 やけに冷静な思考が答えを出してくる。はやては自分のことで怒ったりはしない。は
やては自分が責められたって、ただ受け止めるだけだ。はやてが怒るのは、そうだ。
 私は吐き捨てるように笑った。
「はやてがそんなだから、
 ヴォルケンリッターも大したことないのかな。」
 はやての目付きが変わった。戸惑って、怯えたような色が消える。噛み締められてい
た唇が開いて、微かに戦慄く。私はそれに満足して、口角を吊り上げる。嫌味に映って
いればいい。私は淀むことなく続ける。
「古代ベルカの時代だっけ?
 そんな頃からあるのにランクがせいぜいS−だなんて、
 笑い話にもならないよね。」
 はやての顔色が黒くなっていく。胸の前で結ばれていた手が下ろされる。握り締めら
れた拳が震えだす。
「ああ、でもはやてはそれでもいいのか。
 家族のフリをしてくれれば、何だっていいんだよね。
 例えあんな、」
 私は鼻で嗤った。
「人を殺すしか能のないデバイスでも。」

 はやてが私に手を振り上げた。

 甲高い音が広場に響き渡った。
 左頬が熱い。残響が耳の奥にいつまでも蟠る。思考が一瞬麻痺して、私は意識して呼
吸をしなければ、空気すら吸えなかった。
「いくらフェイトちゃんでも、
 みんなのことを悪く言うんだけは、許さへん。」
 はやての声は、這うように低かった。心臓が握り潰されているみたいだ。息が詰まり
そうで、私は強引に頬を引き攣らせて笑う。左の頬が痛い。横に弾かれた顔をはやてに
向けると、突き刺すようなはやての視線とぶつかった。はやては振り抜いた右手を握り
締めていた。
 そうだ。これでいいんだ。
 これが私の望んだことだ。上等じゃないか。
「悪くなんて言ってないよ、本当のことでしょ?
 闇の書事件の報告書とか、
 まさか一回も読んだことないなんてないよね。」
 私は笑いながら言い続ける。はやての目は私を凝視したまま瞬き一つしない。
「何人の人間が犠牲になったか、数えたことある?
 はやての指じゃ、数え切れないんだよ。」
 はやての顔が歪んでいく。目の奥に、感情が渦巻いてる。止め処なく呻り声を上げて
いる感情を、はやては押し留めている。轟音を立てるそれを、必死に押し留めている。
それでも溢れ出した潮騒が、はやての周りで逆巻いている。

 いいんだよ、はやて。
 我慢しなくたって。
 そうしたら、手を放して、離れ離れになっても、私を探さないで済む。

「はやての隣に居て、息が詰まりそうになることとかあったよ。
 それでも一緒に居たのは、
 もう少し何か出来るかなって、思ったからだけど。」
 はやての肩が攣りあがり、腕が戦慄いている。噛み締められてる奥歯の音が聞えて
来そうな程に、歯を食いしばっている。

 そうすれば何日か経って、管理局に助け出されて、私の死体が出てきたって、
 君は気に病まないで済むんだ。
 わたしのことなんて思い出さなくなって。
 きっと晴れやかに笑える。

 私が欲しいのは、それだけなんだ。

「こんなに何も出来ないんじゃ、」
 朱に染まった目が静止する。一瞬。はやてが息を止めた。

 君が、花やかに笑う未来。

 それさえあれば、


「リィンフォースも消えて当然だったよね。」


 いいんだ。


 瞬間。
 はやての怒鳴り声が日暮れの街を引き裂いた。

「今、なんて言ったんやぁぁぁああああああああっ!!」

 はやては私の胸倉を引っ掴んだ。容赦ない力で掴み上げ、体当たり同然に私を強く後
に押した。首が絞まって息が止まる。踏み留まろうとしたけど、私の足は上手く動かな
かった。感覚がまるでない。足がもつれて私は背中から後に傾ぐ。はやてはそれでも手
を離さない。縺れ合うように、私達は地面に倒れこんだ。
「――――っ。」
 背中を強かに打ちつけて、咳き込みそうになる。でも私の首は襟に締め付けられてい
て、狭まった気管では息が出入りを出来ずに呼吸が詰まった。視界が滲む。抑えきれな
い咳の衝動で、私の体が無駄に跳ねる。唾液が喉に引っかかる。
 引き攣る私の体を、上に乗ったはやてが、両腕の力で強引に抑え付けた。息が出来な
い。苦しくて、私ははやての手首を掴んだ。はやての力は信じられないくらいに強かっ
た。引き離そうとしても、少しも動かないどころか、はやては益々力を込めて、私を押
し潰す。腕が震えている。
「もう一回、言ってみぃ。」
 暗くなっていく視界の中で、はやての声が私の耳を突き通す。底冷えするような音だ
った。私は無理矢理見開いた霞んだ目で、はやてを見上げた。
 真っ青な空を背景に、はやての顔が視野いっぱいに広がった。無様な私が、怒涛の音
を立てる眼差しに映っている。暗い影が落ちた表情の中で、その目だけが鈍い光を湛え
ていた。
「もう一回、言ってみんかああああああああああっ!!」
 はやては掴んだ胸倉を引き上げ、私の背中を地面に打ちつけた。鈍い衝撃に、私の視
界は揺らぐ。
「―――っ、ぅ。」
 唇から呻き声が零れる。力任せに揺さぶられ、後頭部が地面に当たる。私は必死には
やての両手を掴んで体を丸めた。はやてが怒鳴る。
「ほら、どうしたぁ!
 もう一回言ってみんかあっ!!」
 空気が欲しくって口を開いた瞬間、叩きつけられて舌を噛んだ。苦い味が口の中に広
がる。私は歯を食い縛る。
「フェイトちゃんに何が分かるっていうんや!
 私たちのことの、リィンフォースのことの、
 一体、何が分かるっていうん!?
 それを、それを―――――っ!!」
 私は目を開いた。腕を伸ばして、はやての襟を捕まえて、思いっきり引っ張った。不
意のことにはやては前のめりに倒れ掛かり、私の顔の脇に手をついた。
「何回、だって・・・・言ってあげるよ。」
 鼻先が、触れ合うかという近くに、はやての顔がある。間近で見るはやての目の端に
は、涙が浮かんでいた。怒りに滲む乱れた呼気が、私の頬に触れる。
 私の呼吸も荒れていた。空気が欲しくって、咳をしたくて、でもそれを捩じ伏せて、
はっきりと口を動かした。はやてが聞き逃さないように、殊更ゆっくり言葉を紡ぐ。

「リィンフォースが消えてくれて良かったね、はやて。」

 はやては私の腕を振り解いた。握り拳が高々と振り上げられる。
「ああああああああああああっ!!」

 鈍い音が、頭の中に充満した。
 顔面を殴り飛ばされて、意識が一瞬途切れる。口の内側がぼろぼろに切れて、血が溜
まった。視界が真っ黒だった。それでも腕を突き出して、はやてを押し退ける。軽いは
やての体が浮き上がったところで、すかさず私は上半身を起こし、はやてを後に突き飛
ばした。
 眩暈を起こしている頭が酷く痛む。口を押さえて咳をすると、手に血が付いた。背中
から後に転がったはやてが体を起こすより早く、私はバルディッシュを掴んで立ち上が
る。
「痛いよ、はやて。
 いくら図星だったからって、そんなに怒らないでよ。」
 口の端に滲んでいる血を手の甲で拭うけど、舌に残った錆びた味は消えない。嫌な匂
いも残ったままだ。痛みも、頬の熱さも。
「フェイトちゃん。」
 はやてが陽炎のように立ち上がった。赤らんだ目の縁に、溢れそうな涙が溜まってい
る。私は唾を飲み込んでいた。冷や汗が背中を伝う。足元から、崩れてしまいそうだっ
た。真っ直ぐに立っている自信がない。頭の中が引っ掻き回されているみたいに。
 はやて。
 はやてが、私を見つめている。
 はやてが、まっすぐに私を。
 私は爪を立てるようにして、掌を固く結んだ。もう、最後なんだ。
「私は、はやてとは違う道に行くよ。」
 もうはやてを見ることはない。私ははやてを真正面から見据える。私を睨みつけるは
やてを。拳を握り締めるはやてを。
 そして、私は最後の言葉を投げつけた。
「じゃあね、はやて。」
 私は身を翻した。ビルの影が流れ込んで、真っ黒に染まった一条の道へと歩き出す。
私の靴が立てる甲高い音だけが、響き渡る。私は前だけしか見ない。広場の奥にある、
黒い道を目指して、夜に呑まれていく街を歩き続ける。
 10歩刻んでも、転移はしなかった。
 私の足音だけが、道を描いていく。他の音はしない。
 広場の端へはまだ着かない。黒い道へは辿り着かない。思っていたよりも遠く感じる。
私の立てる物音以外、何もしない。自分の息遣いばかりが聞えてうるさい。転移は、

 私がまた一歩足を踏み出した。景色が変わった。
 細く狭い、入り組んだ路地裏に私は立っていた。白いレンガで組まれた階段が横手か
ら伸びている。二人で歩けば、肩の当たるような暗くて狭い道だった。
 首が勝手に後を振り返ろうとする。それを私は押し留めた。
 バルディッシュを握り締めると、壊れていく音がした。私は横手の階段を下り始める。
いくら歩いても、私の足音しかやはりしなかった。何故か目頭が熱くて、景色が滲んだ
から、私は強く目を瞑った。寒いせいだろうか、呼吸が震えた。私は唇を噛み締めて、
込み上げて来る吐き気を飲み込んだ。


 何処かから、泣き声が聞えた気がした。


 最後に見えたはやてが、泣いていたからかもしれない。