見下ろすと、街の影が見えた。真っ黒に染まっていく空に混じって、形を失った街。
私は一段、また一段と長い階段を下へと降りていく。行く手は夜に飲まれて見えない。
何処に続いているか分からない真っ黒な階段を下りていく。もしかしたら、あの街へ着
くのかも知れない。それとも、地面の奥底にでも沈んでいくのだろうか。
 石で組まれた階段は風化を始めていた。左手の方には飾り模様が掘り込まれた大きな
柱が等間隔で並んでいて、見上げる程に高い天井を支えている。
 まだ微かに、物の影が見えた。暗い青と黒がコントラストを描く。柱の影が階段を渡
っていて、階段を下りていく私の頬を順繰りに横切る。
 空に星はなかった。夜風の一吹きもなかった。音のない世界。その中に、私の足音だ
けが甲高く反響している。私はまるで、一点の染みだ。耳障りな音は私が立ち止まると、
微かな残響だけが凝る。僅かの間佇んだその音も、続く階段の先、夜の奥底に飲まれて
逝ってしまう。マントの揺らぎがゆっくり止まっていく。
 私は空を見上げた。
 何処を探しても、微かな光さえなかった。









				私







 幾度なく、世界は編み直されていた。瞬きの間に、全ては崩れ去り再構築されていく。
どれだけ歩き続けているのか、私の手足は鉛にでもなったかのように重たかった。氷み
たいに冷たい手足を、私は引き摺っている。麻痺した感覚では、地面さえ不安定で朧な
ものだった。泥の中に、足首まで埋もれていっているような。
 時間にはもう意味がない。あるとしたら、それは残り時間としてだけだ。あと、10
分なのか、20分なのか。私はそのときまで歩き続けなければならない。一人で居続け
るために。
 硝子の街だった。淡い光を仄かに零す、硅石で出来た街並み。夜になり切れない空に
僅かに残った光の破片を掻き集めては閉じ込めて、燐光を湛えた路地を私は彷徨い歩く。
 目指すところは無い。行き着く場所も無い。ただ、歩き続けるだけだ。
 真っ直ぐな道だった。背の高い建物が両側に並んだ通り。その家の角には一つずつ街
灯がついている。不思議と明かりを燈している街灯に私の影が浮き上がる。宵闇の青と
は切り離された黒い影が。影はひたひたと、音もなく私に付き纏う。
 小さな家の角を通りかかると、そこに付いた一台の街灯が消えた。突如として影は飲
み込まれ、私の足は暗闇に沈みこむ。私は思わず、街灯を振り仰いだ。

 私は小さな橋の上に立っていた。レンガが敷かれたアーチ型の橋は10歩か20歩で
渡り終わってしまうような短い橋だった。街中を流れる川に架けられた橋。両岸には5、
6階立てのアパートが並んでいる。どれも濃い色のレンガで作られているみたいだった。
だけど、暗くて何色なのか分からない。
 妙に体が重たかった。力が抜けて、その場に立ち竦む。
 空気が、纏わり付くようだった。時を止めた街の澱んだ空気が、私の肺から入り込ん
で、私を侵していく。ゆっくりと、私は飲み込まれていく。澱んだ世界に絡め取られて、
その中に溺れて行く。
 私は、これでよかったんだ。
 私は頭上を仰いだ。アパートに縁を切り取られた視野。その中央に、星の無い空が広
がる。天頂は深く、見詰めていると飲み込まれ、その中に落ちていってしまいそうだっ
た。
 左手のバルディッシュを握り直す。金属片の割れる音がした。
 私は頭を振ると、纏わり付く空気を振り払うよう、マントを翻した。白いマントは夜
に、青みがかって見えた。橋のアーチを下り、私は静かに川を渡っていく。音もなく流
れる川の上を。
 河岸にたどり着くと、景色が細い路地に摩り替わった。小さな店がせめぎ合う、雑然
とした裏路地に。手狭な通りに、店は身を寄せ合い、僅かな場所を奪い合うように並ん
でいる。しっかりとした構えの店はなくて、半地下にある店や、露店と大差のないよう
なごく小さな店等がひしめいていた。
 私は道の左右を埋めるその店達を眺めながら歩いていく。雑な舗装の路面に足を取ら
れてしまいそうで、霞む目を凝らす。だけど、暗闇が視界をノイズで覆い、鮮明に見え
ることはなかった。何件かが出している小さな看板の文字も読むことが出来ない。古ぼ
けた扉が閉ざしているだけの、色のない街。
 私は、ふと顔を横に傾けた。道の右側。一際低い屋根の店が、微かに光を放った気が
したからだ。
 振り返った先にあったのは、一枚のショウウィンドウだった。その表面が、何かを反
射させたのだろう。ただ、曇っていて中に何があるのかここからでは分からなかった。
私はそのショウウィンドウに歩み寄る。埃が厚く積もった硝子には何か映っているみた
いだった。輪郭の曖昧な影は、近づいていくと段々大きくなる。
 私はショウウィンドウの前に立ち止まった。
 黒ずんだ木の枠に入った硝子の中、朧な影ははっきりとした形を持っていた。
 それは、痩せこけた、見知らぬ人の顔だった。
 土気色の肌に、色のない唇をしている。頬は痩せていて、影がそこに差し込んでいた。
病的な気色が刻み込まれた体には、べったりと拭い切れないものが張り付いている。瞼
の淵には薄っすらと隈が浮かんでいて、その中で虚ろな赤い目が私を見ていた。濁った
血の色をした目が私を食い入るように見つめている。
 その人の頬は良く見ると、左側だけが変色していた。口の端には赤黒く固まった血が
付いている。
 私はゆっくりと右手を自分の口元へ伸ばした。そうすると、硝子の中の人も同じよう
に自分の口元へと手を伸ばす。触れるとそこには、何かがこびりついていた。凝固した
それは強く擦ると剥がれて、私の手のひらに落ちた。
 黒ずんだそれは、血だった。
 硝子を見た。その人も、自分の手のひらを見ていたような姿勢のまま、私を見返して
来ていた。落ち窪んだ眼窩の中で、澱んだ目に私を映して。その人の肩を、ツインに結
わえた金の髪が滑り落ちた。
 硝子に映っているのは、私だった。

 鼓動が一拍、強く打たれた。その強さに息が詰まる。私は両手を顔に伸ばした。硝子
の中の人も、自分の頬に手を伸ばしている。両腕とも大きく震わせて。指が顔を滑って
いく。
「これが、私?」
 私は喉を鳴らして、唾液を飲み込んだ。耳の裏で鳴り響いた大きな音。それでも、鼓
動の音が止まらない。胸の淵を突き破ろうと強く叩き続ける。
 私の手が震えていた。止めようと思って、右手首を左手で握り締める。だけど、左手
すら、止めようもなく震えていた。
 私は、何をこんなに震えているんだ。震えることなんて、何もない。元から分かって
いたことだ。どうしようも、ないことなんだ。私はここから出ることは、出来ない。魔
力も、リンカーコアも、なにもかも奪われて、ここで。
 それでも私は、はやての未来を手に入れたんだ。誰も、無力に死んでいくことしか出
来ない空間で、私だけは欲しいものを手に入れたんだ。
 だから、何も、怖くなんかない。
 私は、はやてを守ったんだから。
 強く握り締めたままの手を、私は硝子に押し付けた。硝子の中に映る人影を殴るよう
に。額を手に当て、目を瞑る。目を閉じると、何もかも消えた。痛みを感じられるよう
に、私は手のひらに爪を立て強く握り込む。
 はやて。
 はやて。
 私ははやてにずっと笑っていて欲しかった。あの人懐っこい笑顔とか、シグナム達だ
けに向ける安堵して少し甘えた笑顔とか、指揮官として見せる不敵な笑顔とか。あの、
満面の笑顔とか。
 何よりも大切だと思った。はやてが自分で思ってるよりずっと、皆、あの笑顔を大切
にしてる。守りたいって、願ってるんだ。
 だから。
 私は、はやての未来を守りたいんだ。笑っていて欲しい。私のことなんて、忘れてい
いから。はやてさえ、幸せだったら、なんだっていい。
 君との未来なんてなくても、君の未来さえあれば、いいから。だから。
 はやて。


 私は君に、嫌われたんだよ。


 息を静かに吐き出して、私は目を開いた。体を硝子から引き剥がし、強張った指を少
しずつ解いていく。ずっと握り締めていた手は、真っ白になっていた。
 もう少し歩こう。まだ時間はある。少しでも離れて行きたい。あの、夕暮れの広場か
ら。別れてしまったあの場所から、少しでも、遠くに行きたい。一人になりたい。一人
に、ならなくちゃ。
 私は道の先を振り返った。迷路のような細い路地は見通しが悪く、何処にも先はない
ように見えた。狭い壁の隙間にだけ、真っ暗な道がある。影が詰まった道。
 私はいつの間にか足元に落としてしまっていたバルディッシュを見下ろした。裂けた
部分から、内部の金属片が飛び散っていた。落としたときの衝撃のせいだろう。もう直
らない。私とここで、止まってしまうから。
 私は身を屈め、バルディッシュへと手を伸ばした。
 解けた髪の毛が、視界を覆った。

「え・・・?」
 金色をした髪だ。バリアジャケットの時、ツインテールに結い上げているはずの私の
髪が、解けて肩に落ちている。私は耳の脇から手を入れて、頭に触れた。細い髪が指の
間を滑り抜ける。
 バリアジャケットが消え始めているんだ。
 なんで、だ。どうして。
 いや、違う、そうだ。分かってる筈だ。私はもう、バリアジャケットを保つだけの魔
力もないんだ。たった、それだけの魔力も。
「思ったより、早かった、かな。」
 呟いて、私は口角を吊り上げた。まさかこんなに早いとは思わなかったけど。これだ
け予想を外すなんて、あんまり、私らしくない、かな。
 でも、大丈夫だ。
 私は、もう一人っきりだ。誰も居ない、ここには誰も。だから、大丈夫だ。
 私は何もかも持ってる。
 はやての未来も、何も、かも。手に入れたんだ。だから。
 だから、大丈夫だ。
「私は、これでよかったんだ。」
 喉が鳴った。低い私の声は震えてなんかいない。
 だから、

「いやだ。」

 唇が、震えた。言葉が勝手に出てきて、私は両手で口を押さえた。
 これ以上、何か言わせちゃだめだ。
 だっておかしい。私は自分で望んでこうしたのに、いやだなんておかしい。一番、良
い方法を選んだのに、それがいやだなんて、そんなのおかしい。
 私、は。
 私はここで、死ぬんだ。
「死にたくない。」
 言葉が唇を割って、零れた。口を押さえていた筈の手は、私を裏切って目の前で力な
く戦慄いていた。土みたいな色をした手が暗闇に浮かんでいる。
「こんなのいやだよ。
 ここで死ぬなんて嫌だよ。」
 息を吸うと喉に何かが絡まった。視界がぼやける。目頭が熱くって、息が苦しくって、
胸を掻き毟った。もう、駄目だった。
「こんなの、嫌だ!
 私、
 こんなところで死にたくない!」
 一人なんて嫌だ。
 一人っきりで、こんな景色に飲み込まれて死んでいくなんていやだ。
 絶対に、帰りたいって、思っていたのに。
 帰れるって思ってたのに。
 なのに、どうして。
「はやて、私、嫌だよ、こんなの!
 はやてと一緒に、帰りたかった。
 はやてと、ずっと一緒にいて、それで。」
 どうして、それなのに、はやては今一緒に居ないの。
 どうして私は一人っきりにならなきゃいけないの。
 どうして私ははやてと一緒に行けないの。
「はやて。」
 目を閉じると、頬を熱いものが伝った。とめどなく溢れては顎先を伝って落ちていく。
直ぐに冷えてしまう、雫の感触。
 真っ黒な瞼の裏に、はやてが浮かんだ。一筋の明かりみたいに。暮れていく空。残照
が薄い雲を紫に染めた空に向かって、高いビルが幾重にも折り重なるようにして伸びて
いる広場の端。
 はやてが私を見つめている。
 真っ直ぐに、私を。
 拳を握り締め、怒りに歪んだ顔で、私を睨み付けている。

 そうだ、私は。

「こんなの嫌だよ、はやて。」


 はやてに、嫌われたんだ。


「はやてぇぇぇぇええええええええええええええええっ!!」