大粒の涙が目に溜まって、真っ白い光の中で煌いていた。
 その中で、私の姿が揺れている。
 はやてが頬を綻ばせた。
「フェイトちゃん、よかった。」
 呟くように言ったその口の端を、零れた涙が伝い落ちていった。
 一滴の音を立てて、胸元に落ちて染み込み消える。
「よか・・・った。」
 囁いたはやての腕が、私の首に回された。
 体が触れ合う。
 頬が合わされ、髪が首筋をくすぐった。
 速い心臓の音が伝わってくる。
 微かに甘やかな匂い。
 その中に、汗と涙の気配がした。
 暖かい雫が、私の頬までを濡らし、肩に、首筋に落ちた。


 






				私とはやて







 はやてだ。
 はやてが、泣いている。
 どうして、ないているんだろう。
 はやての肩越しに、真っ白い光に霞んだ夜の闇がある。暗い夜道は静かで、はやての
嗚咽だけが響いている。あがるしゃくりに合わせて、体が少し跳ねる。
「はやて。」
 名前を呼ぶと、はやてがぎゅっと腕に力を込めた。息苦しいくらいに強く、しがみ付
いてくる。鼓動まで重なっているみたいだ。はやての熱が、冷え切った私の体に流れ込
んでくる。私ははやての肩に顔を埋めて、目蓋を閉じた。
 真っ白い光が塞いだ目蓋を透かして入り込んでくる。
 澱みのない白銀。
 はやての色。

 どうしてはやてがここに居るんだ。

 私ははやてを振り払ったはずだ。二度と出会わないように、ずっと逃げ続けたはずだ。
それなのに、どうしてはやてがここにいるんだ。
 どうして私ははやての腕に抱かれているんだ。
「はやて。
 なに、やってるの?」
 突き放そうにも腕は動かない。
 だから私は突き刺すように、一言一言を強調して言い捨て、拒絶をする。纏わり付く
腕が煩わしいとでも言うように、首を捩り、腕から逃れようともがきながら。
「離してよ。
 慣れなれしい、ったら。」
 はやてが一瞬体を震わせたのが分かった。そう、それでいい。
 はやては私を嫌いになればいいんだ。見捨てればいい。
 私には、はやての未来を諦めるなんて出来ないから。
 他の全てを諦めたって。
「なに、歩いてたらたまたま出くわしちゃったの?
 能力どころか、運もないんだね。」
 確実に会えなくなると思っていたのに、こうして会ってしまうなんて、私はどれだけ
運が悪いのか知れない。でも、そんな運だなんていう不確かなもののために、私は何も
失うつもりはない。
 私が視線を下に投げたまま吐き捨てた言葉に、はやての腕がゆっくりと解かれる。体
が離れ、満たされていた温かさに寒気が一筋入り込む。胸に突き刺さるような冷気が、
一条の矢のように突き刺さる。
 はやての腕の温もり。
 でも、そんなものよりもずっと欲しいものがある。
 私は顔を上げた。
「なんのつもり、なのかな。
 はやては何、自分のことを利用するような人が好きなの?」
 そうやって、嘲笑を浴びせかける。引き攣りそうな顔に表情を貼り付ける。
 はやての目が私を映していた。怒りも何も浮かんでいない、凪いだ瞳が私をただひた
すらに見つめている。
 私の息は詰まりそうだった。はやての手は、まだ私の首筋に触れたままだ。汗ばんだ
熱い掌がずっと、振り解く力もない私に触れている。
「自分は捨ててなんて、リインフォースだっけ?
 よく似てるよね。
 ペットでもないのに。
 でも私、そんな人とは一緒に居たくないんだ、気持ち悪いよ。」
 私は何度だって言ってみせる。
 はやてが本当に、もう二度と私のことなんて見たくないと思えるまでずっと。そのた
めなら何だって言う。何だってする。もう構わない。小学生のころからの記憶から、私
が消え去っても。はやての中から私の存在がなくなっても構わない。
 はやての未来さえ手に入るなら、他には何もいらない。
「お願いだから、
 何処かに消えてくれるかな。」
 私ははやてを睨め付け、一息に言い切った。
 はやては口を閉ざしたまま、私を見つめていた。琥珀の瞳に映された私の時間は引き
延ばされて、言い切ったその後に息を継ぐことが出来なかった。足元から舞い上がる無
数の白い光の破片の一つがはやての頬を滑り、夜空に溶けて、その顔に陰影を落として
いる。
 はやての両手が、私から離れ、そっと、まるで壊れ物かなにかに触るみたいに、私の
頬に触れた。そして、穏やかで、澄んだ声が、はやての唇から奏でられた。
「もう、ええよ。
 そんなこと、もう、言わんでええから、な?」
 はやては、微笑んでいた。
 私を見つめて、涙を浮かべたまま。
 濡れた頬が光を零している。囁くように、はやてが緩やかに言葉を紡ぐ。
「全部、わかっとるから。」
 目を細めると、はやての目の縁から一掬の涙が溢れ落ちた。
 はやてが私の頬を撫でた。左手が顎先を伝って、胸に押し当てられると、汚れた執務
官服を通して、熱が伝わってくる。私の心臓の音が聞こえる。早鐘のように鳴り響く、
私の心臓の音が。私は喉を鳴らした。
「変なこと言わないでよ。
 何をわかるって、言うの?」
 声が震えてしまいそうで、それだけが怖かった。振り絞るように肺の奥から引きずり
出した言葉。冷淡な否定の言葉に、でもはやてが顔を歪めることはなかった。微笑んで、
私を見つめているだけだ。涙を浮かべたまま。
「私は、はやてのことなんか嫌いなんだよ?
 はやてのことなんか、だいっ嫌いなんだよ。」
 駄目だよはやて。そんな顔しないで。私に、そんな風に微笑んじゃいけないんだ。は
やては私を嫌いにならなきゃいけないんだよ。早くあのときみたいに私を叩いて、殴り
飛ばして、冷たい目で睨みつけて何処かに行ってよ。
 何でも言うから、何でもするから、嫌いになって。お願い。
「だからさっさと、何処かに行ってよ!」
 そんな、私を許しているみたいに微笑むのはやめて。
 叩きつけるように怒鳴りつけた私。それでもはやては動こうとしなかった。乱れた私
の髪を指で梳き、頬を緩める。はやて、やめてよ。ねえ、これ以上、どんな悪態を吐け
ば、私を嫌ってくれるの見捨ててくれるの。
 私は駄目なんだよ。一緒には居られないんだ、一緒には行けないんだよ。はやての未
来に私は居ないんだ。私は、はやての前で死んでしまって、はやてのことを傷つけたく
ないんだ。だから、

「はやて、」

 私、一人を残して、

「お願い、居なくなって。」


 硬く目を瞑った私の頬を、静寂が掠めていく。はやてが穏やかに息を吐いているのだ
けが、押し当てられた掌を通して伝わってくる。お願い、はやて。私を突き放して。お
願い。
 降り注いだのは、はやての柔らかな声だった。
「フェイトちゃんは、本当にやさしいんやね。」
 暖かなはやての手が頬を撫でる。やさしく、何度も。
 私は目を開いた。微かに感じる眩しさの中、滲んだ視界の中で、はやては変わらずに、
笑顔を私にくれていた。私を見つめていた。誰よりも優しい笑顔で、誰よりも幸福な笑
顔で。
「どう、して。」
 呟いた私に、はやては首を少し傾げた。
 舞い踊る光の粒が彩る黒い瞳に、私だけを映して。
「なに、そんな驚いた顔しとんの。
 私に本当に嫌われたって、思った?」
 悪戯っぽく歪めた顔に、汗が滲んでいた。額には前髪が張り付いていて、鼻の頭にも
汗の粒が載っている。はやてが眉を垂らして、呆れたように言う。
「あんな、フェイトちゃん。
 私、多分、フェイトちゃんが思ってるよりずっと、
 フェイトちゃんのこと信頼してんねんで。」
 そう言うと、はやては汗を片手で拭った。
 なんで、はやてはこんなに汗を掻いてるんだろう。ここでそんなに汗を掻くなんて考
えられない。気温の変化しないロストロギアの中で、私たち以外の全てが止まっている
この場所で、暑いなんてことはないはずなのに。
「はやて、その汗。」
 私の発した声は乾いていた。ここは、動いたときにだけ転移をする。つまり、長い距
離を移動すれば移動しただけ、たくさん転移することが出来る。歩けば歩いただけ。
 走れば、走っただけ。
「もしかして、ずっと・・・?」
 揺れる私の言葉に、はやてがあっけらかんと言い放った。
「あれ、なんやもうバレた?」
 それから、ヒーロー気取りたかったんやけど、あてが外れたなあ、と頬を掻く。あれ
から何時間も経った。走れば、それこそ全速力で走り続ければ、相当な回数転移をする
ことは可能だったはずだ。でも。
「そんな、無理だよ・・・。
 魔法もなしで、みつかるわけないよ。」
 多分ロストロギアが内含しているエネルギーに比例して内部空間は拡張されていて、
そして、そのエネルギーは途方もなく大きいものだったはずだ。それなのに、走っただ
けで見つかるわけがない。そんな何時間も走り続けられるわけない。
「ええこと教えてあげようか、フェイトちゃん。
 探し物を、絶対に見つける方法。」
 はやては、はは、と軽い笑い声を上げて、ぴっと人差し指を私の目の前に立てた。そ
れから、取って置きの宝物を見せるときみたいに、うれしそうに頬を染めた。

「それは、見つかるまで探し続けることや。」 

 本当に、私を見つけるまで走り続けたっていうの。探し回ったっていうの。
 見つかる可能性なんてほとんどないのに、見つかるわけないのに、私を見つけるまで
ずっと当てもなく走り回ったって言うの。

「嘘だよ、そんなの。
 走ったって、見つかるわけないよ。」
 私の声は震えていた。まるで、泣いてるみたいだ。
 はやては困り顔になって頬を掻いた。
「ここに居る私は、
 嘘でも偽物でもないんやけどなあ。」
 一息笑うと、はやてが指先で私の左頬をなぞった。まだ痺れの残る頬。切れた唇の端
に触れられると、微かに痛みが走って、思わず私は顔を顰めた。そうすると、はやては
眉間に力を入れて、私の口の端を触っていた右手を握り締めた。私を殴りつけた手。
「なあ、フェイトちゃんは、
 私のために、あんなこと言うてくれたんやよね。
 私を外に出すために。
 自分は外に出られへんから、
 嫌われれば、私がフェイトちゃんのこと、気に病まなくなるやろうって。」
 心臓が締め付けられたみたいに痛んだ。
 はやての手が開かれた。その手は耳にかかる私の髪を梳き、指先に絡めた。
「はやて、なにを言ってるの?
 はやてのためとか、私は出られないとか、
 なんの話?」
 全部ばれているなんて、そんなことはない。
 私ははやてに何も気づかれちゃいけないはずで、何も知らせずに、嫌われたまま消え
ていくんだ。そして、それはうまく行っているはずなんだ。だから、はやてはきっと、
やさしいから、私がはやてのために何かをしていると思い込んで、それであてずっぽう
でありそうなことを言っているだけだ。そうに決まってる。
 でもはやては、フェイトちゃんは相変わらず強情張りやなぁ、なんてぼやいて。
「全部、わかっとるって言うたやんか。
 ここにはAMFなんて満たされとらへん。
 逆や。
 このロストロギアはリンカーコアごと魔力を吸い取り続ける、
 捕獲型のロストロギアや。」
 当たってるやろ、とはやては自信ありげに言った。
 はやては何も知らなくていい。私だけが一人で居なくなればいいんだ。なのに、
「はやて、どうして。」
 はやては目を細めた。
 肩口で髪の毛が滑った。
「フェイトちゃんのこと、信じとるから。」
 花が咲き初めるみたいな、ほのかな笑みだった。
「信じてるって、なに・・・?
 私、あんなこと言ったんだよ。
 あんな、最低なこと・・・。
 それなのに、なにを信じたって言うの、はやて。」
 嫌いになったんじゃないの。
 私、だって、はやてのあんな顔、今まで見たことなかったよ。
 一度だって。誰に対してだって。
 それなのに、私のなにを信じたって言うの。
「全部やよ。
 フェイトちゃんの全部。」
 はやての頬を、白い光が滑っていく。穏やかな微笑。怒りの色なんて、微塵も見えな
くて。はやてはこつんと、私の額に自分の額を当てた。伏せた睫の上を光が流れる。
「そら、悩んだよ。
 本当だったら、どうしようとか。
 フェイトちゃんに嫌われたんだったら、どうしようとか。
 もっとたくさん。
 いろいろ、悩んだ。」
 金糸のように紡がれるはやての声が、私の鼓膜を振るわせる。はやては一つ一つ、言
葉を重ねて、私の胸に与えていく。とん、とんと私の胸に触れているはやての手の裏で、
私の心臓が音を立てる。
「だけど結局、フェイトちゃんの気持ちがどこにあるかなんて、
 悩んでもわからへんかった。
 でも、あんな終わりなんて私、嫌やった。」
 はやては額を離すと、私を見て、困ったように笑った。
「私、
 自分で思ってたよりずっと、
 フェイトちゃんのこと好きみたいなんよ。」
 はやてははにかんだように、頬を染めた。
 目尻にはまだ、涙が消えずに残っていて、光の中で瞬いていた。淡い煌き。宝石みた
いで手を伸ばしたくて、でも、そんなこと出来なかった。
「そこまで知ってるならなおさら、出て行ってよ、はやて。
 無理だよ、
 私もう、魔力なんて残ってないのに。」
 どうして、一緒に居られないんだろう。
 こんなにやさしくて、こんなにあったかい人と、どうしていつまでも一緒にいられな
いんだろう。どうして私だけ、ここで終わりなんだろう。もっとたくさんあったはずな
のに、どうして何もなくなってしまうんだろう。
 涙が溢れないように、私は目を硬く瞑った。はやての肩に顔を埋める。そうすると、
はやてが私の頭を撫でた。何度も、何度も、私の頭をゆっくりと撫でてくれる。
「は、やて・・・。」
 涙がぽつりと零れ落ちた。一つ落ちると、もっとたくさんの涙が溢れてきて、目蓋か
ら零れて、頬を流れて、私の服に、はやての肩に落ちる。嗚咽だけはあげたくなくって、
私は下唇を噛み締めた。それでも、しゃくりが背を引き攣らせる。
 はやてが私を抱き寄せた。私の頭に頬を寄せ紡ぐ。
「フェイトちゃん、ここを、出よう。」
 その言葉はふ、と私の中に滑り込んできた。
 顔を上げると、はやての視線と触れ合った。口角を持ち上げながら、はやては頷いた。
「私、生きるなら、フェイトちゃんの居る未来がええから。」
 光が私の頬を掠めて舞った。羽のように柔らかくて、微かに温かかった。
 何処からか、溢れてくる光。はやての光と、同じ色の光。私は溢れてくる光の源を探
して視線を下に落とした。
 光は、私の胸に押し当てられたはやての掌から溢れてきていた。
「え・・・。」
 どういうことだろう。
 これは、ロストロギアが出している光じゃないの。
 何処からか溢れているわけじゃないの。
 そうだ、私はもうすでに魔力を全て失って、気を失っていたんじゃなかったのか。そ
の回復を待たずに、魔力を搾取され続けるせいで、二度と目を覚ますことがなく死んで
いくんじゃなかったのか。
 じゃあ、この光は。
 私ははやてを振り仰いだ。はやてが笑った。
「フェイトちゃんは、ほんまに勘がええんね。」
 掌から伝わる熱は。
「はやて、やめてよ・・・!
 人から人に魔力なんて受け渡しできるようなものじゃないんだよ!?」
 はやては一体何をしてるんだ。魔力の受け渡しはまったく出来ないわけじゃない。だ
けど、こんなことするなんて考えられない。放出した魔力の一割だって入っていかない
んだ。さっきから舞っているこの光全て、無駄に流れていっている魔力じゃないか。
「なにやってるの、こんなことしたら、
 はやてまで出られなくなっちゃうよ!?」
 やめさせなくちゃ。少しでも早くやめさせなくちゃいけない。
 それなのにどうして体が動かないんだ。動け、動け、動け。腕を動かして、はやてを
突き飛ばすんだ。それでいいんだ、それだけできっと離れられるんだ。
 それなのにどうして腕が動かないんだ。
「もうどれだけ放出したの!?
 やめてよ!」
 身を捩り叫ぶと、はやての手が私の服を握り締め、大声を張り上げた。
「ええよ。
 全部あげる!
 全部あげるよ!
 だから!」

 涙を湛えた瞳で、はやては私を見つめた。

「お願い、フェイトちゃん。
 私のために、死なないで。」

 大粒の涙が両眼から溢れ出す。はやては私の胸に縋って、体を丸めた。涙声で怒鳴る。
「私がこんな風に助けられて、喜ぶと思った?
 こんな風に私を助けるために、フェイトちゃんを死なせて喜ぶと思った!?」
 体を小刻みに震わせて、
 はやては。
「お願いや、フェイトちゃん。
 確かに私たちは、一つにはなれへんよ。」
 涙で私までを濡らしながら、祈りのように言葉を描いていく。
「だけど、フェイトちゃんの手を握って歩いていくことは出来る。
 同じ未来を生きていくことは出来る。」

 切望を、願いの言葉を。

「たとえ、一つにはなれなくても。」

 はやては涙と共に私に零した。
 真摯な眼差しが私を射抜いたまま停止する。私は何も返せなくって、ただ口を噤んだ。
最後の一筋が、はやての頬を滑り落ちた。
「だから、行こう?
 一緒に。」
 音も立てずに溢れ出す光だけが煩く、耳は静寂に劈かれていた。自分の心臓の音ばか
りが体の中から響いてきて、呼吸音が乱れているのがわかった。私は視線を落とす。
「どうやって。
 こんな結界、破れるわけないよ。」
 一緒に行けるならどれだけいいか。
 でも、どれだけお願いしたって、このロストロギアは人を捕獲して、その人の魔力や
リンカーコアを吸収し続け死に至らしめることは変わらない。魔法を発動すれば、即座
に吸収され効力は失われる。
 私の魔力はもう尽きている。はやてが無理に私に自分の魔力を入れているけれど、効
率が悪すぎる。これでははやての方がもたないっていうことは、分かりきったことで。
 でも、はやては小さく頷いた。
「あるよ、一個だけ。
 頭の悪い方法が。」
 驚いて仰ぐと、はやては訥々と説明しだした。
「夜天の魔導書の中にある全ての魔力を一気に開放して、一点に叩き込む。
 それで局所的に結界の強度を外部に対して魔法効力が及ぶ程度にまで下げて、
 転移魔法で脱出する。」
 それは、あの日私が、台所で使ったのと同じ方法だった。はやてが半径5cmの封鎖
領域に閉じ込めたゴキブリを近所の雑木林に飛ばすために使った、あの頭の悪い、唯一
の方法。必要なのは、大きな魔力だけの。
 はやては得意げに口角を上げた。
「夜天の魔導書の全魔力って言ったら、
 相当なもんやからね。
 そうそう簡単に吸収され尽くすってことはないやろ。」
 まあ私ら、ゴキブリさんなんかよりよっぽど大きいから、そこらへんがちょおやっか
いやけど、と付け足して、はやては唇を笑みの形に引き結んだ。
 確かにそれは、はやて自身の魔力と比べてすら何倍にも及ぶだろう。ロストロギアが
時間当たりに吸収できる量もそんなに大きくはないみたいだから、それだけの魔力を一
気に開放すれば結界に作用を及ぼすことも可能かもしれない。だけど。
「無理だよ、そんなこと。
 制御しきれるわけないよ。」
 そんな量の魔力なんて、人間が一度に操れる限界を超えている。制御に失敗したらど
うなるか、想像だってつかないのに。
「成功なんて、するわけないよ。
 はやてまで出られなくなっちゃうだけだよ。」
 はやては口を閉ざして、目を伏せた。
「そうかも、知れへんね。」
 はやては僅かに頷いた。
 だから、もうやめて。
 私、またはやてに会えて、それで、嫌われてないって分かっただけで、十分だよ。
 はやてを傷つけることになっちゃうのが、すごく、ううん、たまらなく嫌だけれど。
はやてに顔を向けると、はやては瞬きを一つして、私を見た。
 まっすぐな眼差しで、迷いのない瞳で。
「でも、私、
 フェイトちゃんが居れば出来るって、思うよ。」
 そしてはやては息を継ぎ、決然と言い放った。
「フェイトちゃんと一緒なら、二人一緒なら、
 必ず出来るよ。」
 自信の溢れる笑顔は不敵で、何も怖いものはないって、そう言っていた。微笑は揺
ぎ無く私へと向けられている。瞳に差し込んだ光が、煌々とした輝きを放っている。
「こんな急な上に、訳のわからへん任務でも、
 いつもの私でいられたんは、隣にフェイトちゃん居てくれたからやで。
 この迷路みたいな街の中でも、私が前に進めたのは、
 フェイトちゃんが手を握ってくれてたからなんやよ。」
 はやては誇らしげに、口を歪めた。

「フェイトちゃんは私の勇気やから。」

 高らかなはやての声が凛と澄んで響いた。


 はやては満足そうに、へへ、と笑う。
「それに、フェイトちゃんが嫌がっても、私一人でやるで。
 まあ私、制御下手やから、まず間違いなく失敗するやろうな。」
 そうして、くしゃくしゃっと私の頭を撫でる。
「協力、してくれるんやろ?」
 悪戯っ子な悪びれない口調で。
「はやては、いつも強引だ。」
 私ははやての肩に、額を押し付けた。
 人の魔力制御を補助するなんてやったことはないし、デバイスもなしできっと大し
たことは出来ないだろう。そもそも、デバイスがあったとしても、どれだけのことが
出来たのかわからない。
 どうせ私が言ったって、はやては聞き入れたりはしないんだろうから。
 はやてが私の背に腕を回した。
「ありがとな、フェイトちゃん。」
 はやてがシュベルトクロイツを起動させ、夜天の魔導書を顕現させるのを一瞥し、
私ははやての肩に顔を埋めた。はやてが腕に力を込めると体が重なって、はやての息
遣いが聞こえた。鼓動の音がする。私とはやて、二つ分の音が。
 光が一際強くなった。
 魔導書の頁が次々に捲られていく。膨れ上がっていく光。
 その中に、私は一筋の線を描いていく。結界の縁へと繋がる線。結界の縁を越えて
いく線を。私たちが進んでいく道。何処へ続いてくとも知れない、真っ白い道を描く。
 はやてが私に頬を寄せた。

 溢れる真っ白い光が、夜空を、街並みを、
 そして、


 私とはやてを飲み込んだ。