ゴキブリ







 私たちはコーヒーを一杯入れた。ケーキが焼きあがるまで、ちょっと休憩だ。
 私は砂糖もミルクも入れていない真っ黒なコーヒーを、はやては牛乳が半分くらい入
った、少しだけ色が残ったコーヒーを。
「フェイトちゃん、またそんな苦いもの飲んどるの?」
 はやてが私のカップを覗き込んで、不満げに言う。私が飲むんだから、いいじゃない
か。
「はやてこそ、またそんな牛乳もどき飲んでるの?」
 言い返すとはやては険悪な目つきを私に向けた。拗ねちゃった、かな。
「偏見なんと違うんかな。
 ちょお、交換してみようって。」
 言うや否や、私の手からカップを奪って、代わりにはやてのを握らせてきた。見れば
見るほどに、コーヒーとは思えない色なんだけど。私、これ飲むの? 砂糖は牛乳ほど
入れてないのは知ってるけど、あんまりぞっとしないなあ。
「飲んでもいないうちからそういう顔すんのやめてくれへんかなぁ。
 こんな黒々とした液体を飲んどる方が間違ってるんやって。」
 私のカップを覗き込み、はやてはコーヒーの表面に見入っている。もうこうなったら
折れるしかない。私とはやては一度目を合わせると、互いに嫌そうな顔をしながら、中
身を口に入れた。そして。
「・・・ぅ甘い。」
「にっがい!」
 同時に声を上げて、テーブルにカップを置いた。なに、この甘い飲み物は。コーヒー
っていうより、コーヒー風味の牛乳だよこれじゃあ。しかも、砂糖、もしかして2、3
杯入れたの? 私、これだったらコーヒー牛乳の方がいいよ。
「うぅ、フェイトちゃんこんな苦いもの飲んでて、
 舌大丈夫なん?」
 珍しく弱弱しい口調で、はやてが呟いた。見やると、はやては涙目で口をしょぼしょ
ぼさせている。ヴィヴィオが間違ってコーヒーを飲んじゃった時と同じような顔だ。
「はやての味覚は、本当にお子様なんだね。」
 鼻を突き抜ける牛乳の匂いに顔をしかめながら私はぼやいた。その言葉に、はやてが
不満そうな視線を投げつけてきた。何処まで行っても、分かり合えないものって悲しい
けどあると思うよ。コーヒーがどんな飲み物かについてとかね。
 口直しにと思って、私は自分のコーヒーに手を伸ばした。でも、それをはやてが阻ん
だ。振り返ると、はやてが私の顔を両手で捕らえた。
「はや、――――。」
 はやての唇が、私の口を塞いだ。
 押し当てられた柔らかい唇が、私の唇を軽く食む。感触を確かめられているみたいに。
手が跳ねて、私は思わずはやての肩口を掴んでいた。はやてが僅かに唇を離す。はぁ、
と一つ息を吐くと、はやての吐き出した息と絡んだ。はやての腕が私を押し倒す。私は
されるがまま、はやての下に組み敷かれていた。はやてが圧し掛かってくると、体がソ
ファに沈み込んだ。
 はやてが私の頭を抱きこんでキスをした。
 上唇を甘噛みし、柔らかい舌が下唇をなぞる。私はいつの間にか目を閉じていた。何
で突然、とか思ってはいるけれど、与えられるキスを逃したくはなくて、何も言わずに
はやての服を掴んでいる。
 はやての舌が、私の唇を開かせた。熱い舌と吐息が、私の口内に滑り込んでくる。そ
の感触に肩を震わせてしまうと、はやてが私の舌先を舐めた。背筋を熱いものが駆け抜
ける。私は自分から、舌をはやてに絡めた。

 苦かった。

 広がった苦味に驚いていると、はやてが唇を離した。細い糸が繋がっていたけど、一
瞬で切れて消える。はやてがしてやったり、というような意地の悪い表情を浮かべてい
た。
「ほら、苦いコーヒーなんて飲むもんやないやろ?」
 体を起こし、私を見下ろしてはやては、なんだろう、妙に誇らしげで自信満々だ。ど
こにそんな根拠があるのか、私にはまったくわからなかったけど、私は破顔した。
「そうかもね。」
 うれしかった。何がどうとかは結局、どうでもよくって。はやてと一緒に念願のプリ
ンケーキを、しかも前よりもずっと手の込んだのを作れて、一緒に焼き上がりを期待し
ながら待って、一緒にコーヒーなんて飲んでる。そして、はやてが私に惜しみなく笑顔
をくれて、キスをくれる。
 理由なんていらない。
「はやて。」
 私ははやてがいてくれるだけで、たまらくうれしい。
 私は腕を伸ばして、はやての首筋を絡め取った。
「ん。」
 私から今度は口付けをすると、はやての小さな声が一欠け私の喉を通った。微かな間、
触れ合わせただけなのに、頭の中すら溶けてしまう様な気がした。
「フェイトちゃん。」
 茶色掛かった髪の毛が、私の頬をくすぐった。間近にあるはやての顔。見上げると、
はやては目元を赤らませていた。視線が溶け、混じり合う。はやての瞳の中に、私の何
もかもが崩れて、流れ込んでいってしまうみたいに。私が形を失う。
 はやての白い喉が動いた。

 三回目のキスは、灼けるように熱かった。

 舌の粘膜が混ざり合って立てる音が口の中に響いて、頭の奥へと痺れを撒き散らす。
無遠慮にはやては私の舌の表面も裏側も舐めまわし、空気までも奪っていく。代わりに
流れ込んでくるのは、はやての匂い。口の中に溢れるその匂いは、強い香気のように、
喉の裏を通って鼻先へと掠めていく。
 唾液が口内へと注がれた。何の味もしない、だけどはやてが私に与えたそれを私は喉
を鳴らして飲み下す。熱い塊が、私の喉の奥を流れて、体の内側へと入っていく。脳が
酸欠を訴えだしていた。閉じた目蓋の裏を、明滅を繰り返す光が過ぎる。苦しい。だけ
ど、呼吸よりももっとはやてが欲しかった。はやての首に回した腕に力を込めると、は
やては身じろぎをして、私の服を握り締めた。
 はやてが私の舌を、自分の口内に導いた。絡めあった舌。はやて、私、はやての全部
が欲しいよ。
 押し付けあった口の端から、音が零れる。私とはやての交じり合った液体の立てる音
は静かな室内に波紋を広げる。
 はやてが少し口を開き、私の舌に歯を立てた。突然のことに、体が硬直する。はやて
は私の舌を舐めると、そのまま強く吸った。
「――――っは。」
 驚いて、私は咄嗟に舌を引っ込めた。はやてが緩んだ私の腕を押し上げて、顔を上げ
た。私とはやてを繋いだ一筋の糸は、やっぱりすぐに切れ、私の口角へと落ちた。
「驚いた?」
 はやては楽しげに微笑むと、返事を聞かずに私の口の端へと口付けを落とした。舌先
がそこに落ちていた糸を舐め取る。
 それは、びっくりしたけれど。でも、なんだか素直に答える気にもなれなくて、私は
顔を背ける。すると、はやてが私の上にそのまま寝そべった。力を抜いて、体を伸ばし
ている。
「はやて、私は布団じゃないよ。」
 一瞥を送りながら言うと、はやては熱い私の頬を突付いた。
「知っとるよー。
 お布団はこんなに顔赤くせぇへんもん。」
 いつも通りの口調で言うけれど、はやての顔はいつも通りなんかじゃなかった。目元
潤んでるよ、はやて。だけど、私の上に乗っかって、うれしそうにしているはやてを見
ていると、言い返す気もなんだかなくなっちゃって。
 はやても黙って、私の上でぼんやりと窓の外を見ていた。横顔が私の胸の上下に合わ
せて揺れる。
 はやての呼吸も、私の呼吸も、とてもゆっくりとしていた。眠りに着く前のまどろみ
のように、長い時間をかけて空気を吸い込み、それから同じくらいの時間をかけて吐き
出す。一定の周期が、いくつも繰り返されていく。
 一度は諦めたものだった。
 もう二度と、取り戻すことは出来ないと、思ったものだった。
 それが今、当然のように私の手の中にあって。
 私ははやての頭を撫でた。滑らかな髪に指を通し、毛先へと梳いていく。はやてが身
じろぎをしたのがわかった。私はソファに体を預け、天井を見上げる。染みのない、真
っ白な天井には、何処からの反射なのか、一条の光が四角く差し込んでいた。

 私たちが、海鳴市のはやての家のリビングで、ソファとテーブルの間に挟まっている
のを局員に発見されたとき。
 私とはやては強く手を繋いでいたらしい。局員が私のお腹の上に乗っているはやてを
抱き上げたら、私まで付いてきて、頭をテーブルの角にぶつける羽目になったとかなん
とか。起きたとき、後頭部に氷嚢が宛がわれていたのはそういうことらしい。あれから
3日経った今でも、たまに痛む。
 でも、その手は引き剥がさないと離れなかったっていうのも、同時に聞いた。
 私はバルディッシュを失っていて、時計も身につけていなかったから正確なところは
わかっていなかったんだけれど、はやてのシュベルトクロイツの動作記録を見る限り、
私たちはあの中に13時間、閉じ込められていたらしい。そして、それは外部の時間経
過と同一だった。
 あのロストロギアは私たちを取り込んだあと、案の定、転移して何処かの次元間に姿
を消していたらしく、救援が入るのはやはり再度、ロストロギアの出現を待ち、数日後
になる予定だったとのことだ。
 ロストロギアは今、破壊されてしまっていて、技術部で解析が行われている。私たち
が脱出したときに何か起こったのか、元いた砂漠とそう離れていないところに出現した
ロストロギアは、後から来た他の局員による一発の砲撃で、二つに砕けたらしい。
 解析によると、砕かれる前に既に、機能のほとんどが失われていたのではないか、と
のことだ。破壊に立ち会った局員も、ロストロギアはただ周辺に時折、魔力を弾き出す
くらいのことしかして来ず、それも随分と弱いものだったと口を揃えている。
 なんでそうなったのか、と問われれば、よくわからない。
 私とはやての推測した、捕獲型のロストロギアであるというのは確かだった、とだけ
はわかっている。しかも、内部空間に張る結界は、飲み込んだ人間の魔力も利用するら
しく、一度入ったら絶対に出られないような仕組みにっていたんだとか。あまり詳しい
ことは怖くて聞かなかったけど、相当な人数があの中に取り込まれ、そして出て来られ
ないまま宝石の奥にある、一抹の光になってしまっているらしい。
 あの時、夜天の魔導書の内部にある魔力は、吸収対象からはずされていた。人を捕獲
することを前提としていたあのロストロギアにとって、デバイス内に蓄積された魔力と
いうのは、感知不可能だったのだろうというのが、技術部の見解だ。
 私は全ての魔力とリンカーコアを失い全治三週間。出力可能な程度まで回復するにも、
二週間ほどかかり、その間、魔法は一切使えない。バルディッシュの方はもっと重症で、
幸いコア自体は砂漠に落ちていたから大丈夫だったのだけれど、メインフレームから内
臓機関の何から何まで、全部新しく製造する、という羽目になってしまった。シャーリ
ーはこの機会に、新しい機能を搭載しましょう、とか言っていた気がするけれど、お見
舞いに来られたときにはまだ意識が朦朧としていたから、なんて答えたか自分でも自信
がない。宴会用の隠し芸アイテムとか装備されてたら、私、どうしたらいいんだろう。
 はやては過度の魔力消費と、瞬間最大出力、制御能力、変換効率の全てに於いて限界
を超え、無理に魔力を解き放ったために、リンカーコアが損傷を受けている。重症とい
う程でもなく、時間が経てば回復するらしいが、現在は魔法を使用することが出来ない。
 というわけで、この二週間は二人揃って自宅療養をする羽目になっている。
 それで、はやては一週間私の家にお泊りをしていく。なんでも、シグナム達が心配し
すぎて、みんな揃って2週間の休暇を取って来そうな勢いだったかららしい。昨日の朝、
はやてを送ってきたシグナムの私に向ける視線は、少し痛かったけど。

「フェイトちゃん?」
 はやてが顔を起こして、私を見ていた。
「なに?」
 尋ねると、はやては首を振った。
「ううん、何か考え事しとるみたいやったから。
 何、考えとんのかなぁ、って。」
 言いながら、はやては私のお腹の上で寝返りを打った。重みに少し息が詰まるけれど、
仰向けになりながら、私を見上げてくるはやての表情が、なんだかあどけなく思えて、
私の頬は自然と緩んだ。
 はやては私の表情の変化をなんだと思ったのか、身じろぎをすると天井を仰いだ。
「それにしても、
 ゴキブリさんとおんなじ方法で助かるなんて。
 フェイトちゃんは、ゴキブリさんやったんかな?」
 伺うような仕草をするはやてに、私は肩をすくめた。
「酷いなあ、はやては。」
 拗ねたように言いながら、私は手ではやての髪を弄ぶ。癖のない髪は指に巻きつける
と、数本がぴんと撥ねた。それを撫で付けながら、私は尋ねる。
「じゃあ、
 これからはゴキブリさんが出たら、
 ありがとうねって言って、
 一緒に暮らしてく?」
 するとはやては即座に断言した。
「絶対、嫌。」
 私が笑うと、はやては私を軽く叩いた。
 そうして、呆れたようにため息をつくと、はやては長い息と共に脱力した。居心地の
いい沈黙の中、時計の針が進む音だけが、リビングに満ちる。すると、不意に甘い匂い
が鼻先を掠めた。お腹を刺激する匂い。ケーキが焼けてきた匂いだ。
 はやてが私を仰いだ。
「ええ匂いがして来たね。」
 焼き始めて、15分くらい経ったんだろうか。まだ焼けるのには時間が掛かるけど。
「うん、おいしそうだね。」
 私は肯いてはやての頬を撫でた。はやては口元をほころばせて、くすぐったそうに目
を瞑る。それから、私の腕を捕まえて、自分の首に回させる。腕の中に納まってしまう
華奢な肩。触れ合った部分から伝わってくる熱が心地よかった。
「なあ、フェイトちゃん。
 私、フェイトちゃんにこうしてもらっとるの、好きやよ。」
 穏やかで、でもしっかりとした口ぶりだった。私が緩く頷くと、はやては体を捻って、
うつ伏せになった。私の頬を両手で挟み、笑う。
「だから、ずっと一緒に居てくれなあかんよ。
 一人でとか、
 私のことだけは、とか、
 一切、認めへんからね?」
 真摯な眼差し。
 私は静かに、でもはっきりと頷いた。
「うん。
 約束するよ。」
 もう二度と、一人にはしない。
 一人にはならない。
 駄目だって思っても、二人ならきっと出来るって思えるから。
 君は私の勇気だから。

「ずっと一緒に居ようね、はやて。」

 生きるなら、やっぱり、君の居る未来がいいから。

 私は何も、諦めたりしない。
「絶対やでー。
 フェイトちゃんはもう、2つも約束破っとるんやから、
 今度破ったら、罰ゲームやで?」
 はやてはそう言って、私の小指に自分の指を絡めながら、うれしそうに微笑んだ。



「はやて、どう?」
 私は竹串をオーブンの中のプリンケーキに刺しているはやてに問う。26分丁度の時
は、まだ半生で竹串にいろいろついてきて、もうちょっと焼かないといけないね、って
なったんだけれど。
「うん、大丈夫やね!」
 はやては何も付いていない竹串を翳して頷いた。プリンケーキ一段目完成だ。
 パンダさんの形をしたミトンで両手を包み、はやてがそっとオーブンからケーキを取
り出した。甘い、いい匂いが鼻をくすぐる。おいしそうだ。こんがり焼きあがった表面
は綺麗に膨らんでいる。
「うん、よう膨らんどるな。
 後は、粗熱を取ったらラップをかけて冷蔵庫に入れて置けば、
 冷えたころにはうまいこと取り出せるやろ。」
 台の上にケーキを置いて、はやては満足そうに頬を緩めた。
 私はまじまじとケーキを見つめる。初めて私が切るように混ぜる、という工程をやら
せてもらったケーキだ。しかも、これからデコレーションまでされたプリンケーキにな
っていく第一段目だ。完成したら、どんなことになるんだろう。
 そんなことを考えていると、はやてが小さく笑い声を上げた。
「どうしたの?」
 振り返ると、はやては堪え切れないというように顔を歪めて、口元を覆った。
「だって、フェイトちゃん、すっごい目をきらきらさせてるんやもん!
 お姉さん、それがツボに入ってしもうて!」
 笑いのために、小刻みに振動しているはやて。なんだろう、この無性にこみ上げてく
る悔しさ。
「もー、さっきからはやては、私のことからかい過ぎだよ。」
 そして、抑え切れないうれしさは、なんなんだろうね。
 唇を尖らせると、はやては手で引っ張った。
「お、あひるフェイトちゃんの登場や。
 こら、お魚さん用意せんと、
 嘴で襲われるかしれへん!」
 ころころとはやてが笑い声を上げる。
「もう、はやてってば!」
 私は怒る。怒ったフリをする。可笑しくて仕方なくて笑いながら、怒ったフリを。
 はやてはいつまでも楽しそうで、笑いながらお鍋を取り出して、言う。
「さー、あんまりふざけてると、
 日が暮れてまうから、
 早いとこ、二段目を作って、今日の作業を終わらせようか。」
 私にお鍋を手渡すと、はやてはもう一つある18cm型にバターを塗る準備を始めた。
今日中に焼く工程は終わらせて、明日、冷えたらデコレーション。そういう計画だ。私
はさっきと同じように、砂糖と水でカラメルを作る作業に取り掛かった。


 そして、思う。

 どうして、不幸って言うのは、唐突に現れるんだろう。
 それとも唐突に現れるから、
 不幸は不幸と呼ばれるんだろうか。

 二段目の生地作りは、私が慣れたこともあってすんなりと出来た。
 はやてがミトンを嵌めた手で、ケーキ型を持って出来栄えを見ている。一段目よりも
よく膨らんでるかもしれない。きつね色の表面が眩しい。でも、私は片手に布巾を持っ
たまま、思考を停止させていた。
 はやてはまだ気づいていない。
 じゃあ、はやてに気づかせずに処理するには、どうしたらいいんだろうか。
 台所の奥、部屋の隅。そこに、

 黒い生き物は、居た。

 どうして、こんなときに現れるんだ。
 あの時以来、一度も出てなかったのに。
 どうして。

 冷や汗が背中を伝い落ちる。魔法も使えないのに、はやてに気づかれず、あれをどう
処理すればいいんだろう。どうしてまた出てくるんだ。噂をすれば影、っていうやつな
んだろうか。それとも、今が夏だから元気なんだろうか。
 とにかく、はやてに気づかせちゃいけない。
 はやては何も知らなくていいんだ、何も、
「これで今日の作業は終わりやね。
 フェイトちゃんおつかれさま。」
 何も。
 はやてがケーキを台の上に置きながら、私を振り返った。
 そして、不覚にも私はまだ、部屋の隅を見つめたままだった。
「あ、はやて!」
 慌ててはやての方を振り返ったときには遅かった。はやては見てしまった。

 触覚を元気一杯振っている、ゴキブリさんの姿を。


「いややああああああああああああああっ!!」

 はやてが絶叫を上げた瞬間、ゴキブリさんはぱっと宙に舞った。
 黒い羽を羽ばたかせて、私たちのほうへ。

「いやあああああああああああああああああっ!!」
 耳を劈く悲鳴を響かせて、はやてが一目散にリビングへ逃げる。私は咄嗟に布巾越し
にまだ熱いケーキを掴んではやてを追いかける。
 はやてはソファもテーブルも飛び越えて、ベランダに飛び出た。意外と身軽だねはや
て。私もソファとテーブルを一足飛びに越えると、慌てて閉められる窓の間に間一髪で
滑り込み、同じようにベランダに出た。
 窓が閉まった瞬間、振り返ると、ゴキブリさんが窓の反対側に張り付いた。
「わぁぁぁぁぁああああああああああああああああっ!!」
 はやてが泣き叫び、ベランダの手すりに足をかけた。片手てケーキをしっかりと握り
ながら、私ははやての腰に抱きつく。
「はやて、やめて!
 ここ13階なんだよ!?」
 布巾越しだけど、170度に加熱されていたケーキ型は熱くて、火傷しそうだった。
でも、はやては足を手すりにかけたまま、渾身の力でもがく。
「離してぇっ!!
 もういややぁああああああああっ!!」
「だめだよはやて!
 今飛べないんだからお願い、やめてええええええっ!!!」










 私は君の勇気で、君は私の勇気で。

 でも、ゴキブリさん相手には、違うのかな。

 そんな、
 私とはやてと時々ゴキブリ。