温かい掌が、私の肩に触れている。少し汗ばんだ掌。眠たくなる温かさに、私は体を
丸めた。冷たいシーツの寝心地はよくって、ずるずると頭が重くなっていく。
「―――トちゃん。」
 靄の向こうで、誰かの声がする。染み込むような声。名前が出てこない。けど、誰か
分かっている。今も、隣に居てくれてる君が、私は、
「フェイトちゃん!
 お願い起きて!!」
 耳を殴りつけた大声に、
「はいっ!!」
 私は飛び起きた。









				ゴキブリ







「起きた!?
 フェイトちゃん起きた!?」
 目を開くと、光に慣れず歪んでぼやけた景色の中に、はやてが居た。はやては私の肩
をしっかりと掴んで、必死に何事か叫ぶ。その目蓋の縁には、少し涙が滲んでいた。
 どうして泣いてるんだろう。さっきまで、何をしてたんだっけ。考えていくと、思考
が鮮明になる。
「起きてるよ、はやて。」
 はやての顔に安堵が浮かぶ。私は首肯しながら続ける。
「菅原さんの家の柿、渋柿だったんだね。
 すっごい渋いね。」
 はやての動きが止まった。うん、はやてが泣いちゃうのも分かるよ。私も、泣きたい
のを我慢してるんだ。だって、夕飯のときまで舌が痺れてたもんね。
「やっぱり、あんまり柿どろぼうはよくないんだね。
 あ、でも、榎本のおじさんが、
 茶色いつぶつぶがある奴ほど甘いって言ってたから、
 今度は良く見てから取ればいいのかなぁ。」
 言いながら、どうにも頭が重くって、引き摺られるように、私の上半身は勝手に後に
倒れかかる。はやてが私の肩を掴みあげた。
「寝ぼけとる!
 フェイトちゃんめっちゃ寝ぼけとる!
 いつの話しとんの!!
 起きて!
 お願いやから!
 フェイトちゃん!」
 はやてが力任せに私の体を揺さぶった。はやての手は汗ばんでいる。頭の中が掻き混
ぜられる。はやてやめてよ、気持ち悪くなっちゃうよ。
「お願い、やからっ!」
 はやての声が、震えた。
 それは一条の矢となって、私の脳幹を貫く。視界が晴れ、朧な物の影は明確な輪郭を
得て、朝日の中に描き出される。見慣れた寝室。私の部屋。薄く開けられた窓から吹き
込む風が、レースのカーテンを揺らす。
「はやて。」
 私は、涙を浮かべるはやてを見つめた。濡れた黒い睫の放つ艶が、光を纏って輝きを
零す。微かに赤らんだ頬。大きな瞳に私を映し、戦慄く腕は私の肩に触れたまま。
 その唇が、
「あ、アイツが・・・っ。」
 震えるように、
 言葉を、

「アイツが出たねん!!」

 私に叩き付けた。

 その音量に、部屋の壁が軋み、窓ガラスが歪な音を立てた気がした。頭を横殴りされ
たような衝撃に、寝起きの私は、平衡感覚が粉砕されて、視界が揺れた。痛みの蟠る額
を押さえ、私は呟く。
「アイツって、誰が出たの?
 私、合鍵なんて、はやてにしか渡してないよ。」
 するとはやては首を横に振りながら、珍しく声を荒げる。
「人間やないのっ!
 あ、あれやねん、あの、その―――っ。」
 口が上手く回らないのか、はやては渋かった顔を更に歪めて、言い募ろうともがく。
緊張しているらしく、表情にも余裕はない。
「何が、出たの?」
 私は喉を鳴らして、固唾を嚥下した。バルディッシュは今、整備中で手元にない。デ
バイスなしで、私にどれくらいのことが出来るのだろう。私に、はやてを守れるだろう
か。
 気持ちの悪い汗が、背中を伝い流れた。
 はやてが低い声を発する。
「・・・Gが、出たねん。」
 私は汗ばんだ掌を握り締めた。拍動が強く、心臓が痛い。私は重たい口を、緩慢に動
かし、慎重に言葉を選んだ。
「はやてのお爺さんが、出たの?」
 瞬間、はやての目から涙が零れた。息を吸い込み、涙に塗れた目を硬く瞑り、はやて
は絶叫を迸らせた。


「ゴキブリが出たのっ!!」

 耳鳴りがする。残響が部屋の中に薄く広がって、肌を掠めるように撫でる。涙するは
やてに見つめられながら、私は体の力が抜けていくのを感じた。ため息のように声が出
る。
「それだけ?」
 さっきまでの気負いはなんだったのだろう。そう思うと、朝なのに凄く疲れた気分に
なった。だけどはやては必死で、私の言葉に首を振る。
「それだけ、って、ゴキブリやよ!
 もう、思い出しただけでぞっとするんに!」
 確かにあの黒光りとか、見ててそんなに気持ちが良いものではないけれど、でも、そ
んなに大騒ぎするほどのことなのかな。山には結構居るよね。そんなことを考えてたら、
はやてが恨めしそうな目付きで私を見上げた。
「フェイトちゃんは、何でそんな余裕綽綽なんよ。
 ほっぺた緩んでるやんかー!」
 言うなりはやては私の頬を抓った。引っ張られて、顔が変な風に伸びる。
「はやて、痛いよぉ。」
 マンションなんだから、どんなに綺麗にしてても、出るときは出るんだから仕方ない
のに、それは八つ当たりだよ、はやて。私は、前髪を掻き揚げるように、はやての頭を
撫でた。涙目のはやては、やっぱり少し恨めしそうで。でも、ため息を吐くと、強張ら
せていた体を弛緩させて、私に凭れ掛かって来た。
「まだゴキブリは居るの?
 それとも、何処かに帰って行った?」
 私の肩に顎を載せるはやての重みに、私は倒れないように片手を後ろについた。空い
ている手で、子供をあやすみたいに背を軽く叩くと、はやては小さく肯いた。
「台所に、居るねん。」
 ということは、ゴキブリをどうにかしない限り、私ははやての朝御飯を食べられない、
ということで。自他共に認める寝起きの悪い私は、頭を振って、未だに薄く掛かってい
た靄を振り払った。
「それじゃあ、私がどうにかするから。」
 そう言って、私ははやてが離れてくれるのを待つ。
 だけれどもはやては全く動く気配が無かった。私に張り付いたまま、微動だにしない。
「えと、はやて?」
 窺おうとすると、はやては顔を背けながら、呟いた。
「まだそこらへんに他の居たら、怖い。」
 拗ねたような物言いで、はやては私の腰に回した腕に力を込めた。前に一度、何処か
で見た時も、もの凄く怯えて、ブラッディダガー! とか叫びかけていたけれど。今日
はもしかしたら、あの時以上かも知れない。大きいのでも出たのかな。
 まあ、それではやてがこんなにくっついて来てくれるなら、あんまり悪い気もしない
んだけどな、なんて言ったら、はやては怒っちゃうだろうから。
 私はとりあえず、一番真っ当なことを口にする。
「あの、私まだ、裸なんだけど。」
 それでもはやては顔を背けたままで。
 はやてが離れてくれたのは、結局30分もしてからだった。



 真っ白い燐光を放つ、半球状のドームが顕現している。
「なに、これ。」
 台所の隅っこで。
 半径は5cmくらい。
「中に、居るねん。」
 私はその、唐突に自分の家の台所に現れたドームを指差して尋ねる。だけどはやては
私の背中に引っ付いて、額を押付けてくるだけだった。何も見たくないらしい。私は軽
く脱力しながら、ドームをまじまじと見た。
 それはベルカ式結界魔法ゲフェングニス・デア・マギー。通称封鎖領域だった。しか
も、この半径5cmの小さな半球にはやては全力を注いでいるらしい、軽く飛ばした魔力
波が、とんでもない散乱角で帰ってくる。
「ただのゴキブリ一匹に、何もここまでしなくても。」
 気持ち悪いかも知れないけど、ただの虫だよ? 虫にはやての結界を破るなんて、出
来るわけないと思うんだけど。そんなことを考えながら、体を捩ってはやてを振り返る
と、はやては頭を思いっきり振った。
「で、出てきたらどうするん!?
 下から這い出してきたら、怖いやんか!!」
 はやては涙目になって力説する。人の命を預かるだけの立場に居るはやてが、ゴキブ
リ一匹にこんなにうろたえているなんて、部下が知ったらどう思うんだろうか。きっと、
驚くんだろうな。
 そう思ったらおかしくて、私は笑って、袖を捲り上げた。
「それじゃあ、この結界、解いてくれる?」
 すると、今まで頑なに私にしがみ付いていたはやてが、後ずさるように離れた。はや
ては蒼白な顔で、私を見上げていた。まんまるに見開かれた目に、私が映っている。
「なんでフェイトちゃん、腕まくりしとるの?」
 はやては何か、驚いているみたいだった。でも、私には何ではやてが驚いているのか
分からなかった。だから、考えているままを口にする。
「ゴキブリ捕まえるのに、邪魔だからだけど。」
 それがどうかした? と続けようとした次の瞬間、


「いややぁぁぁぁぁああああああああああああああっ!!!」


 私の鼓膜は破れた。