「フェイトちゃんが、
 ゴキブリを素手で掴んでたなんて、
 ありえへん。」
 はやては部屋の隅っこ、とは言っても、ゴキブリが怖いのか、埃が溜まり易いほどの
端ではなく、壁から一歩離れたくらいの場所に立ちすくみ、暗い顔で呟いた。
 山とかにはゴキブリって結構居るし、アルフとかは小さい頃、たまに悪戯とかしてた
から、私はあんまり抵抗がなかったんだけど。流石にそんな反応をされると辛い、かな。
「はやて、転移魔法で何処か雑木林にでも飛ばすから、
 封鎖領域への魔力絶縁、緩和してくれるかな?」
 バルディッシュがなくても、ゴキブリ一匹を転移魔法で同次元世界内に飛ばすくらい
わけない。転移魔法なら、はやての目に触れることもないし。
 そう考えながら、はやてを振り返ると、はやては涙を滲ませたまま、決然とした目付
きで、私を睨むように見上げていた。
「絶対、嫌や。」









				私







 あれ、今、嫌とか言われた?
 私ははやての口から出た言葉が信じられず、はやてを凝視した。はやては唇を尖らせ
て、不機嫌そうに言い放つ。
「弱めて、そこから這い出してきたら、どうするん!?」
 いや、そんなこと、万に一つも起こらないと思うんだけど。とは思ったけれど、はっ
きりと口に出すのは何故だか憚られて、私は頬を掻いて視線を逸らした。
「えと、捕まえて窓から投げる?」
 ゴキブリって、結構立派な翅を持ってるから、ここは13階だけど、元気に飛び立っ
て行ってくれると思う。
「やから、フェイトちゃんはどうしてそうやって手で捕まえようとするん!?
 ほんまにありえへんよ!」
 言い切ったはやての声には、涙が混じっていた。目蓋からは、もう溢れてしまいそう
で。
「私、こんな、ゴキブリ嫌いやのに、
 フェイトちゃん、酷いんちゃうかな。」
 俯いたはやて。伏せられた睫から、朝日の中、一粒の光が床に零れた。
「はやて。」
 体を縮こまらせ、肩を震わせて。はやては涙を流していた。
 私は深く息を吸い込んで、静かに言葉を紡ぐ。
「ごめん、はやて。
 はやてがゴキブリを、そんなに嫌いだなんて、思わなくて。」
 頬を濡らす涙を拭いたくって、私はそっと、はやてに手を伸ばした。はやての瞳が、
私の指先を映し。はやては、

 バックした。

 半歩くらい。
「はやてぇ・・・。」
 空を掻いた手を持て余し、私は情け無い声を上げた。半歩ほど私から離れたはやては、
バツが悪そうに私から目を逸らしている。
「や、その、なんやろ・・・。
 別に、昨日、今日どうってわけやないってのは、
 わかってるんやけど、その。
 先に手、洗ってからにして欲しい。」
 涙の止まったはやての顔を見つめながら、私は思う。
 泣いて良いかな?
 まあ、でも、二人揃ってしょげていても埒が明かないから。私は込み上げて来る熱い
ものを渾身の力で飲み込んで、相変わらず台所の隅で皓々と光を散らす、白い半球型の
ドームへと向き直った。
「とにかく。
 はやて、結界の魔力絶縁を緩和―――。」
 言いかけた私を遮って、
「絶対、嫌や。」
はやては今日、二度目の否定を発した。
「あ、あのさ、はやて。
 こんな強固な結界、はやてが緩めてくれないと、どうしようもないよ。」
 至極真っ当な意見のはずだよね。自分より遥かに大きな魔力を有する人間が、全力を
注いでいる、わずか半径5cmの結界に、デバイスもなく、そして破壊するでもなく干渉
するなんて、生半可なことじゃない。
 というか乱暴な言葉で表せば、どうかしてる、っていうレベルだ。
「そんなん知らへん。
 フェイトちゃんがどうにかして。」
 そんな、無茶だよ。
 書いて字のごとく口が塞がらない私。でも、はやてはこれ以上取り合うつもりはない
らしく、涙を袖口で拭いながら、拗ねた様子でリビングの方に視線を投げていた。
 私はなんとも言いがたい、何処かもやもやとした気持ちを抱えたまま、再び、半球型
のドームと対峙した。



 はやての馬鹿。
 一瞬、脳裏を過ぎってしまった思いに、私は申し訳ない気分に襲われた。人のことを
馬鹿だなんて、あまり言うものではない。それは分かっているし、そう思っている。
 けれど。
 やっぱり、この結界の硬さは異常だ。
 解析すら弾かれるって、どういうこと、かな? こんな硬い結界、私今まで見たこと
ないよ。維持するの大変じゃないのかな、これ。
 思ってはやてを肩越しに窺うと、はやては立っているのが疲れたのか、しゃがみこん
で、でも私をじっと見ていた。いつに無く真剣な眼差しだ。これは、結界を破壊しよう
とした途端、怒られそう。私もう、ちゃんと手は洗ったよ?
 私は一度小さく息を吐くと、最終手段に及ぶ決心をした。
 解析も出来ないうえに、デバイスもない私の取れる唯一の方法は、およそオーバーS
ランク魔導師とは思えない、効率の悪い方法だ。
 ゴキブリが出られる分だけの狭い範囲に魔力を叩き込んで、一時的に結界効果の一部
を、ある程度の魔法介入が出来る程度に低下させる。要は、エネルギーの次元に穴、と
までは行かない、網戸程度の魔力の通り抜け可能な部分を作る。そこから、魔法を結界
内部に作用させよう、というもの。
 上手く行くかどうかは、私の魔力次第。一点に魔力を注ぐことで、局所的にはやての
魔力密度を無視できる程度に高めるわけだから、まあ、なんていうか、朝から魔力の使
いすぎで倒れるかもしれない。ゴキブリに使う魔法も、魔力をそれなりに使う転移魔法
で、それをはやての魔力に打ち勝つ出力で発動させなければならないから、うん。
 転移対象がゴキブリより大きかったら、多分不可能。
 そんな、頭の悪い、でも唯一の方法で。オーバーSランク程度の魔力が無ければ実現
出来ないという意味では、高度な方法なのかもしれないけれど。
「頑張ろう。」
 私は一言、自分を励ますと、最大出力の魔力波を結界の一点に目掛けて撃ち込んだ。
 そして。
 じゃあね、ゴキブリさん。
 別れを告げる暇もなく。
 ゴキブリは次元の狭間を通って、近所の雑木林に消えた。
「はやて、終わったよ。」
 朝からすっごく疲れた。魔力ダメージでノックアウトは流石にないけれど。起きたば
っかりの筈なのに、もう眠い。
 そう思いながら、はやての方に向き直った瞬間、
「フェイトちゃん!」
はやてが首筋に抱きついた。
「はやて!」
 強く抱き締められて、心臓が跳ねた。はやてと私の頬が触れ合う。
「あー、もう、よかったぁ。
 ほんま、あんなんに朝から出会ってしもうて、 
 どうしようかと思ってたんよ。」
 安堵の溜息を漏らすはやてに、私も胸につっかえていた何かが取れた気がした。
 本当に、私は何を、朝からゴキブリ一匹のために一喜一憂しているんだろうとは思う
けれど。はやてに抱き締められていることが嬉しくって、私ははやての背に手を回した。
 それから、朝ご飯を一緒に作って。もちろん一緒に食べて、一緒に片付けて。食後に
ってコーヒーを一杯淹れた。
 ソファに凭れ掛かって、ミルクも砂糖も入っていないコーヒーに口をつけていると、
自分のカップを両手で持ったはやてが、
「お、空いとる。」
と言って、私の膝の上に座った。
「私は椅子じゃないよ、はやて。」
 そう笑って、私は零さないように、持っていたコーヒーをはやての後にあるテーブル
に、手を伸ばして置く。向かい合うように膝に座ったはやての手にあるカップから、ミ
ルクが多目のコーヒーの甘い匂いがした。
「フェイトちゃんもたまにはミルクとか入れへんの?」
 ほぼカフェオレになっているコーヒーを飲み、はやてが言う。
「コーヒーフレッシュ1個とかだったら、入れてもいいけど。
 はやてのそれは、コーヒーへの冒涜だと思うよ。」
 コーヒーとミルクが1:1で入ってるよね。それどころか、たまに、ミルクのほうが
多かったりするよね。
「だって、苦いの嫌やねん。」
 不満そうに歪めた表情が、妙に子供っぽくて、私は自然と笑みが零れるのを感じた。
はやてが私を見つめる。それから、半分くらい飲んだコーヒーを後のテーブルに置き、
私の額におでこを当てた。
「でも、今日は朝から大変やった。
 こんなに疲れるとは思いもせえへんかった。」
 深々と息を吐くはやてに、私は苦笑を漏らす。
「それはこっちの台詞だよ、はやて。
 朝から魔力が全部なくなっちゃうかと思った。」
 告げるとはやては、心外だ、という感じの顔をした。
「私かて、台所でさささーって動く黒いものを見た瞬間、
 ブラッディダガーを撃とうと思ったんよ。
 やけど、フェイトちゃんが前に、
 ゴキブリだって、生きてるんだから、
 たまたま出てきたってだけでそんなことしたら、可哀想だよ、
 って言ってたん思い出したから。」
 もうホント、なんでフェイトちゃんは、こんなにゴキブリさんのこと庇うんやろ、と
か思ったんやけどね、とはやては呆れたように破顔した。確かに、前にゴキブリを何処
かで見たときに、そんなことを言ったけど。
「覚えてたんだ。」
 はやてはあの時、随分気が動転してるみたいだったから、覚えてないと思ってた。
 私が零すと、はやては笑った。
「凄いやろ。」
 はやては私の首に腕を回すと、抱きついてきた。私の肩に顎を乗せ、息を吐くと力を
抜いて寄りかかってくる。薄く開いた窓から、風が舞い込んで白いレースのカーテンを
揺らした。朝の少し冷たい、でも涼やかな空気の中、はやての匂いが掠める。頬を擽る
髪の毛から、甘い香りがした。触れあったところから、緩やかな心音が伝わってくる気
がした。温かさが体に染み込んでくる。
 はやてが穏やかに言葉を紡ぐ。
「でも、ゴキブリを掴んだ人とは、
 一つになりたないなあ。」
 その言葉に、私の心臓が跳ね上がった。
「え?」
 嫌な予感が、何処からかひしひしと湧き上がってくる。緊張の為か、冷や汗が流れた。
身を起こしたはやての顔は笑っていた。私の頬を両手で挟んで、浮かべるその笑みは、
悪戯っぽい。
「フェイトちゃん、昨日は随分と良かったみたいやねぇ。
 途中からうっかり思念通話全開やったよ?
 一つになりたいなんて、可愛えなぁ、フェイトちゃんは。」
 顔が熱い。耳までが凄く熱い。
「え、あ、・・・っ、そ、そんな!」
 まさかそんなこと、って強く否定したいけど。でも、確かに途中から、もう何も考え
られなくて、自分がどうなってたかなんて曖昧だ。え、でも、そんな、思念通話の回線
が開いてたなんて、そんな、まさか。
「フェイトちゃん茹蛸みたいになっとるで。
 ほっぺたもあっつい。」
 はやては可笑しそうに笑って、私の頬を引っ張る。その軽やかな声音が恨めしくって、
私ははやてを見上げた。そして、苦し紛れに言う。
「は、はやてだって、顔、赤い・・よ?」
 私は変に震える声で、なんとか一言搾り出した。
 そうしたら、はやての動きが一瞬止まって。微かに、朱が差していた頬から、見る間
に顔が真っ赤に染まった。
「し、しゃあないやん!
 あんないやらっしい声が頭の中に直接響いて、
 しかも途中から、はやてはやてはやて、掠れた声で連呼されたら、
 誰だって恥ずかしいに決まっとる!」
 赤い顔で捲くし立てるはやてに、私も益々顔が熱くなって。
 真っ赤な顔で見詰め合う。
 そうしてると、なんだか妙に笑いがこみ上げてきて、二人して笑った。
「一つに、ね。」
 はやては微笑みながら口にすると、さっきまでと同じように、私の首に腕を回して、
顎を肩に乗せた。そして、私の頭を抱き寄せる。
「フェイトちゃんは、あったかいなあ。」
 私はその言葉には答えないで、ただ、はやてを抱き締めた。