鉛の塊になったみたいだ。体が重い。手足が冷たい。寒い。何かが流れて落ちていく
みたいに、体が冷えていく。指先が悴むような、寒さ。泥に沈んでいく、埋もれていく。
感覚が削れていく。溶ける。
 その中で、腕の中にだけ、形があった。温かい何かが、私の腕の中にある。抱き締め
ている。何かを。微かに甘い、匂いがする。酷く、懐かしい匂いだ。
 声が、
「フェイト、」
 私の体に染み込んでくる。
「ちゃん。」
 揺さぶられて薄っすらと目を開く。真っ黒だった視界に、淡く光が差し込んだ。その
中に、一つの人影があった。
 私の唇が、彼女の名前を零す。
「はやて。」
 腕の中に、はやてが居た。








				はやて







 まどろみから抜け切らないような、判然としない表情で、はやては私を仰いだ。柔ら
かい髪が私の顎をくすぐる。淡い茶色の髪は滑らかで、私は片手を少し動かして、その
後ろ髪を撫でた。
「はやて、怪我、してない?」
 私の声は掠れていた。顔の筋肉を動かすのでさえ、労力を要するようで、酷く緩慢に
しか唇は動かない。起き上がろうという気すら、湧いてこない。喉が少し渇いている。
はやてが小さく首を振った。
「ん、大丈夫みたい。」
 その返事に、力が抜ける。頬が自然と緩んだのを感じた。私はそのまま、華奢なはや
ての体を抱き寄せる。細い肩は、私の腕の中にすっぽりと納まった。はやてが、窮屈そ
うに身じろぎをした。
「もう、フェイトちゃん、苦しいって。」
 呆れた風でも、嫌がった風でもない調子で、はやては言う。うわべだけの言葉で、は
やては私に擦り寄ってくる。はやては頭を私の顎の下に入れて、顔を首筋に押付けた。
「はやて、くすぐったいよ。」
 はやてが微かに笑った。私はその温かさに安堵して、目蓋を静かに閉ざしていく。眠
気が体の中を流れてきて、穏やかに私を押し流していく。自分の胸がゆっくりと動いて
いる。はやての息遣いが首筋に触れ、呼気に合わせて胸が動いているのが伝わってくる。
 はやてが頭を動かした。
 それから、一瞬にしてその体が強張ったかと思った途端、はやては私を押しのけて勢
いよく起き上がった。転がって仰向けになった私の体の上に手を突いて、身を起こした
はやては驚きの声を上げる。
「え、な、なんやのここ!?」
 その叫びは私の意識に突き刺さり、私の両眼を見開かせた。
 空を仰いで寝転がる私の目に飛び込んできたのは、紫の空だった。それは、雲の多い
時の、日が落ちて直ぐの空。残光に彩られた、辺りを見渡すはやての姿が、その空の下、
私の上に覆い被さっている。私ははやての視線の先を追い、顔を横に傾けた。
 そこには、街が広がっていた。
 テレビや本でしか見たことのない、地球で言うならそう、ヨーロッパみたいな感じだ。
石造りの建物が居並ぶ通りはずっと先まで続いている。私が横たわっているのも、砂漠
の砂の上ではなかった。古く年季の入った、乾いた石畳の上だ。
「フェイトちゃん、まさかあの一瞬に転移魔法を使ったとか、あれへんよね。」
 はやてから零れ落ちた呟きに、私は首を振ることしか出来なかった。
 転移魔法は転移先の座標指定や、移動経路の限定の為に、どうやっても発動までにあ
る一定以上の時間が掛かる。そんなに直ぐに、転移できるわけがない。転移できるわけ
がないのに。
「じゃあ、ここは、何処なんや?」
 はやての言葉に私はただ息を呑んで、見慣れぬ街並みを見つめ続けるばかりだった。
 私が体を起こそうとすると、はやては私の上から退いて、そのまま座り込んだ。驚き
に歪んだままの顔は、街並みに端から順繰り向けられる。
 すぐ傍にある建物は、何階建てなんだろう、アパートなんだろうか、一階のところは、
なんだかショウウィンドウみたいになっていて、何かのお店に見えるけれど、四角の窓
が2階位のところから、何段か続いている。建築に詳しくない私には、黄土色の壁が何
で出来ているのか分からない。ただ、海鳴とも、ミッドチルダとも建物の雰囲気は大き
く違う。やっぱり、テレビで見たヨーロッパの街並みっていうのに、凄く似てると思う。
 割と似たような建物が並び、その端々に狭い路地があるのが見える。石畳には溝が2
本走っていて、影がその中に溜まっていた。
 日の暮れた街は、黙ってしまうと、何も音がなくなった。
「誰も、いないのかな。」
 何の気配もない。人の気配も、犬や猫の足取りも、虫の羽音も、何もない。からっぽ
の街並みに、一抹の陽光と影だけが詰まっている。
「そうかも、知れへんね。」
 はやてが肯くのを聞きながら、私は通りの先を見る。通りの向こうには小高い丘が在
って、そこにも何か建物がある。ここにあるのとは、また違った雰囲気のそれらは、例
えば教会か何かなんだろうか。
 人どころか、猫も犬もそれ以外の動物も、ましてや虫すらいない場所だなんて、ある
のだろうか。虫なんて、人では住む事の考えられないような場所ですら、多様な進化に
よって生息を可能としている種類もいると聞いたことがある。
 それなのに、ここには何の気配もない。
 それが一体どういうことなのか、考えるまでもなかった。直感が背筋に怖気を駆け上
がらせる。私は咄嗟に、すぐ傍にあったバルディッシュを掴んだ。
 手の中で、バルディッシュの装甲が剥がれ落ちた。
 硬い音を立てて、バルディッシュが手から零れる。
「バルディッシュ。」
 転がったバルディッシュには真ん中に、大きく罅が入っていた。柄の部分は裂け、内
部構造が一部覗いている。表面は何処もぼろぼろで、周りに金属片が散らばっていた。
核は割れ、宝玉は何処へ行ったのか、縁に僅かに金色の欠片が残るだけだった。
 反応はない。待機状態に戻ることすらなかった。
「フェイトちゃん。」
 はやてが私を呼んだ。私は上手く答えられそうもなくって、ただ、小さく頷いた。
 壊さないようにそっと柄を掴み、私は静かにバルディッシュを掌中に納めた。手に馴
染んだ筈の感触に、違和感を覚えるのはもうどうしようもないことだった。
 顔を上げると、はやてと目が合った。
 苦しげな、思いつめたような顔だった。眼差しが、私を映して揺れている。はやての
唇が躊躇いがちに震える。続く言葉が分かる。私はその言葉を、言わせたくなかった。
はやてにそんな風に思って欲しくなかった。はやてのせいなわけがないから。
 私は、微笑んだ。
「大丈夫だよ。
 今までも、壊しちゃったことが無かったわけじゃないし、
 その度にバルディッシュは直って、たまに前よりも強くなって、
 私のところに帰ってきてくれたから。
 今度も、きっと、大丈夫だよ。」
 はやての唇が引き結ばれた。目線が下に落ちて、バルディッシュを見つめる。私はそ
んなはやての頭を撫でる。柔らかい髪が指の間を滑った。
「直してもらうためにも、
 今は私たちのこの状況をどうにかしなくっちゃ。
 大丈夫だよ、私とはやての二人が居るんだから、怖いことなんてないよ。」
 はやてが顔を上げた。薄く涙の滲んだ瞳。私はさらに言葉を紡ぐ。
「早く帰って、バルディッシュを直してくれるようにシャーリーに頼んで、
 報告書を直ぐに書いて、
 それで、一緒にスーパーに行って、晩御飯何にするか、一緒に考えようよ。
 絶対に、すっごく、楽しいよ。」
 ね? と言って首を傾げると、はやては少し逡巡するように動きを止めて。それから、
眉を変な形に歪めて、笑った。
「そうやな、頑張らんとあかんな!
 今日は近所のスーパー5時から特売やし!」
 目指せ質実剛健! と朗らかに宣言し、はやては拳を突き出した。私も握り拳を作る
と、はやてと軽く打ち合わせる。はやてが嬉しそうに顔を綻ばせた。朱に染まった頬は
笑んでいる。
 はやては元気よく立ち上がった。空に向かって思いっきり飛び上がるようにジャンプ
して立つ動きは、小学生の頃から変わらなくって可笑しい。空を背景に、はやてが私を
見下ろした。その唇が囁く。
「ほんと、――――――。」
 それは小さくて、私の耳には届かなかった。「なんて言ったの?」と聞き返すと、は
やては頭を振って悪戯っぽく舌を出した。
「内緒。」
 告げてはやては、花のような笑みを浮かべた。
 はやては満足そうな顔で、私の頭をくしゃくしゃと撫でると、身を翻して街と空を見
渡した。威勢よく言い放つ。
「それじゃあまずは、ここが何処かはっきりさせへんとな!」
 私は応えるよう、はやての隣に立った。途端、視線の高さが反転して、はやてを私が
見下ろすようになる。
「そうだね。
 頑張ろう。」
 言うとはやてが私を仰いで、にっと口角を上げた。私は一度目を細める。
 分かりやすい目標が出来たからかも知れないけど、思考は至ってクリアだった。
 さっきは、ここに虫すらいないのは、虫でさえ住めないような環境なのかも知れない
と思ったけれど。今の私の脳裏を占めるのは、別の可能性だった。
 私は空間モニタを展開し、バックでサポートしてくれているメンバーとの通信を試み
る。
 うーん、砂嵐。
「通信はやっぱり繋がらないか。」
 ロストロギアの封印は、明らかに失敗だった。あの黒い宝石は、何処にも見当たらな
い。私たちが転移させられたのか、それとも双方が転移したのか、どちらなのか、今の
私たちに知る術はない。バルディッシュやリィンフォースUならまだしも、シュベルト
クロイツと夜天の魔導書は、そういった解析的なことを行うには不向きだからだ。
 だけど、多分、今、それは関係ない。
 はやてが口を開いた。
「なあ、フェイトちゃん。
 私らは、本当にあのロストロギアに飛ばされたんやと思う?」
 問いを発するはやての両眼は道の端を見据え、言葉とは裏腹に確信に満ちていた。そ
の質問の意図は、まさに私の推測と一致していた。
 転移魔法で飛ばされたと考えるには、発動までの時間が短すぎるんだ。あのロストロ
ギア自体は、次元の狭間をある程度ランダムに転移するものだから、確かに起動時間は
通常の転移先指定で行う場合に比べて少なくて済むんだろうけど。
 でもその場合、転移先で私たちが生きていられる可能性は、著しく少ないはずだ。人
が生存可能な環境を有する場所なんて、高が知れている。ただ、悪運が強かっただけ、
という考え方も出来るけれど。
 それは、都合が良すぎる解釈だ。むしろ、こう考えた方が、理に適っているだろう。
つまり。
「私たちは転移していないんだと思う。
 転移じゃなくって、」
 私の言葉を、はやてが繋いだ。
 厳かな声音が、耳朶を打つ。
「ロストロギアに、取り込まれた。」
 私は無言で肯いた。
 そうだとすれば、この状況の一応の説明は付く。誰も居ない街並みは、ロストロギア
の内部空間か、固有結界内に形成された仮想的な場だから。生きているのは、ロストロ
ギアの機構が捕獲目的であるから。外部と連絡が取れないのは、ロストロギアによって
断絶されているから。
「まあ、なんや、無駄に高性能なゴキブリほいほいみたいなもんやろかね。
 いや、こんなんに体当たりしていくのは、
 管理局員くらいなもんやろうから、
 局員ほいほい、ってとこやな。」
 冗談めかして言うはやてに、私は呆れる。
「局員とゴキブリを一緒にしちゃだめだよはやて。」
 あ、やっぱり? と頭に手を当てて、はやては明るく答えた。
 はやては屈んで、下に落ちたままだった帽子を拾い上げ、埃を払い被り直した。そし
て、空を見上げた。日暮れ色の空は相変わらず薄く雲を広げ、淡い紫を散らしていた。
ほんの少しだが、肌寒さを感じる。
「結界強度は、どんなもんなんやろうか。
 私でも、壊せるとええんやけど。」
 呟きに答えるため、私は右手を振り上げ、頭上の空に向けた。
「計ってみようか。」
 一番単純に、射撃魔法を一発ぶつけて、散乱波のエネルギーから大まかな値を測定す
る。私は一つ、スフィアを作り出した。
「フォトンランサー、げっせー。」
 はやてが間の抜けた声を出した。
 金色の矢が、空気を引き裂いて空へと伸び上がる。
 閃光は真っ直ぐに、薄明るい空に吸い込まれていく。家々の屋根の高さを越え、遥か
彼方へ突き進む。
「たーまやー。」
 悪ふざけ気味のはやての声が、そう紡いだ瞬間。

 眩い光の矢は、溶けるように消え去った。
「え?」
 私は目の前で起こったことが信じられず、目を瞬いた。
 でも、いくら目を凝らしても、光の矢は空の何処にも見当たらなかった。散乱波が帰
ってくる気配もない。
 確かに、魔法は距離を進むうちに多少減衰するけど、100メートルも進まずに、突
然消えることなんて、まずない。
 一体、どうして。
 すると、突如として、はやてが手で空を切り、声を張り上げた。
「穿て、ブラッディダガー!」
 途端、中空に現れた6つの漆黒の短剣が、視認限界を超えた初速度で打ち出された。
全てを射止める刃は、雲間へ向かって飛び。
 溶け消える。
 空に混じり、刃は形を失った。
 はやての口が、溜息ともつかない言葉を吐き出す。
「さすが、局員ほいほい。
 AMFも完備、ちゅうわけか。」
 口調に苦い笑いが混じる。
 高エネルギー結晶体と誤認されるほどに、内在しているエネルギーの高かったロスト
ロギアだ。それを、AMF下で突破するなんて、個人で使用可能な魔力値の範囲を優に
超えている。ロストロギアの結界を破壊、もしくは内部空間からの脱出が不可能だと確
定した瞬間だった。
「外のみんなが、助けてくれるのを待つしかない、か。」
 そして、
「お夕飯は、お預けやね。」
 はやての手料理を食べられないことが決定した瞬間だった。

「まあまあ、そう肩を落とさんといてって。
 今日やなくたって、私のご飯なんていつだって食べられるやろ?」
 脱力した私の肩を、はやてがぽんぽんと叩く。それは、分かってる。次のお休みでも
いいし、何なら、ここから出てすぐにだっていいっていうのも分かってる。でも、それ
は、今日じゃない。確実に。
「今日、はやてのご飯が食べたかった。」
 さっき夕飯に何を食べたいか考えた時、口の中に思い出されたご飯の味が恨めしい。
ちょっと寒いし、グラタンでも良いかな、とか思い始めてたのに。冷麦とグラタンとて
んぷらと、酢豚とか、コーンスープとか、シチューとか、焼き魚とか、煮物とか、何で
もお願いし放題だったのに。
「もう、フェイトちゃんってば、口がアヒルさんになっとるよ。」
 可笑しそうに、はやては私の口を手で引っ張った。私は呻り声を漏らす。
「まあ、このロストロギアが局員ほいほいだとして、
 安全っていう保障はなんもないわけやから、
 とりあえず周りを探索してみよ。
 そしたら、案外、スーパーの閉店くらいには、間に合うかも知れへんよ?」
 閉店間際のスーパーなんて、おいしいものほとんど残ってないよ。はやては楽しそう
に笑うと、小さく跳ねて、私に肩からぶつかってきた。
「もう、拗ねすぎやってフェイトちゃん。
 機嫌直してってー。」
 軽い衝撃に、私は一歩後にたたらを踏んだ。


 私は高い橋の上に立っていた。


「え・・・?」
 高く、長い橋だった。河岸まで、100メートルはある。石造りの白い橋は、右側に
見上げるようなアーチが並んでいて、私が立っている橋と同じように、河岸まで続いて
いる。
「うそ。」
 ショルダータックルをした後の、不安定な格好のまま、はやてが呟いた。
 首を巡らせて、橋の掛かる場所を見る。川が確かに流れていて、でもそれはずっと下
のほうだった。後から差す残照が、橋の形を川原に描き出していた。巨大な影が、長く
伸びている。橋は、三段のアーチからなっていた。私たちが立っているのは、二段目の
真ん中だ。
「お、かしいやろ。
 いや、ロストロギアの中なら、おかしくないん、か?」
 額に手を当てて、はやてが呻く。
 私はなんとも答えられなかった。さっきまで、街中に居た筈だ。しかも、一歩動いた
だけだ。ただの幻覚だとすれば、おかしくはない、おかしくはないのかも、知れないけ
れど。
 ふら付いた足取りで、はやては橋の縁へと歩き出そうとする。
「はやて!」
 咄嗟に、私ははやての手を掴んでいた。驚いてはやてが振り返る。
「どないしたん、いきなり大きな声出して。」
 私は掴んだはやての左手を、しっかりと握り直す。細い手を、私の右手が包む。
「だって、さっき一歩動いただけで、
 こんなところに飛ばされちゃったんだよ。
 離れ離れになったら、もう。」
 その先を言うことが出来なくて、私は右手に力を込めた。自分でも分かる。私の手は
震えていた。たとえ、ここが幻覚だとしても、ただの魔力で作り出されただけの世界だ
としても、それを打ち砕くことなんて出来ないんだ。
 それなのに、もし、この手を離したら。
 はやては私を見つめた。黒いはやての瞳は、色づいた日の光で、煌いていた。
「そうやね。」
 はやては肯いて、私の手を握り返した。
 温かい掌と私の手が、重なりあう。
「たまには手を繋いで歩くのも、ええかも知れへんね。」
 はやてはそうやって、はにかんだように微笑んだ。