「フェイトちゃん、
 これまでになにか気付いたこととか、ある?」
 真っ白い壁が左右に高く伸びる路地を歩きながら、はやてが私を仰いだ。荒く舗装さ
れた道は真ん中がややくぼんでいて、道は全体としてはなだらかな坂になっている。声
が家々の壁に反響して、手元に戻ってくる程に狭い道は、行く手で右に曲がっていて、
先まで見通すことは出来ない。
「気付いたこと、か。」
 私は肯いて、これまであったことを整理する。
 ロストロギアに取り込まれたのは、確かもう5時間も前になる。さすがに5時間ずっ
と歩き詰めていたわけではないけれど。とりあえず、経験的に分かったことはいくつか
ある。
「さっきも言ったけど、
 転移の間隔はランダムみたいだよね。
 転移先は同じ場所に二回出た、っていうことはないから、
 ランダムって言って良いのかよくわからないけど。
 でも、転移先の候補はランダム、
 もしくは無限に近く存在しているんだと思う。」
 今までの転移の回数は、もう途中から訳が判らなくなっちゃって、大雑把だけれど、
大体50回を少し上回るくらいだ。単純に割り算をすると、6分に一回くらい転移して
いることにはなるけど、一歩踏み出す度に吹き飛び続けたこともあるし、逆に何キロ歩
いても全然転移しなかったこともあるから、単純に平均を取るのは無駄だ。
「やっぱり、フェイトちゃんもそう思うんね。
 私も大体同じ意見やよ。」
 はやては言いながら、繋いだ手を握り直した。
 塔の天辺に飛ばされて、そのまま墜ちたことはあったけど、そんなに危ないことはあ
れ一回きりだった。だから、あの時は随分参っていたけれど、転移に慣れてしまった今
となっては、それなりに気が楽だった。
 何日か待てば、管理局が絶対にどうにかしてくれるから、というのも多分にあるんだ
ろうけれど。
 空の色は、もう青く変わっていた。足元の影は朧になって、景色に混じり始めている。
暗くなっていく街並み。隣を歩くはやての横顔も、微かに青に染まっている。
 寒かった。手足の先が冷えて強張っている。触れ合った掌から、はやての熱が伝わっ
てきて、右手ばかりがずっと温かく、緩やかに解けていた。
「はやて。」
 呼びかけると、はやては振り返った。
「どうかしたん?」
 見上げてくるその目に私が映っていることが、なんだか気分が良かった。私は温かい
手を握り返し、首を横に振った。
「なんでもないよ。」









				私







 私とはやて、二人分の足音が反響しながら進んでいく。曲がり角はもうすぐそこだ。
「あんなフェイトちゃん。
 私はあそこを曲がった途端、どこかに飛ぶと思うんやけど、
 フェイトちゃんはどう思う?」
 はやてはすぐ目の前に迫った、路地の曲がり角を示して言った。曲がり角、というよ
りは路地の終わりで、違う小道が横手に延びている、と言ったほうが正しいのかもしれ
ない。横手の道は、二人並んで歩くにも不自由しそうな、細い道だった。路地裏ってい
う言葉が、これほどしっくり来る道も、中々無いと思う。暗くて細い小路だ。
「え、それじゃあ私は、
 飛ばないに賭けようか?」
 冗談交じりにそういうと、はやては嬉しそうに笑って、捲くし立てる。
「言ったな、フェイトちゃん。
 じゃあじゃあ、何賭ける?
 私な、帰ったら耳かきして欲しいねん。
 フェイトちゃんはどうする?」
 握った手を振りながら、はやては凄く楽しげだ。そんなはやての様子を見ていたら、
私は自然と笑ってしまった。何を言い出すかと思ったら、耳かきして欲しいだなんて。
甘えるのが上手なのか下手なのか、よく判らなくて可笑しい。
「え、それじゃあ、私は、
 夕飯にデザートつけて欲しいな。
 プリンとケーキ。
 プリンケーキでもいいよ。」
 はやてはプリンケーキと聞いた途端、顔色を変えて真剣な表情を浮かべた。
「プリンケーキか・・・。
 これは、賭けに負けるわけにはいかへんな。」
 神妙な声が耳朶を打った。
 はやては料理だけじゃなくって、お菓子作りも凄く上手だ。今までに、いろいろ作っ
てくれたけれど、そのどれもがおいしかった。その中でも、プリンケーキは前にせびっ
て作ってもらったものだ。
 プリンケーキっていうものが、あるなんて知らなくって、たまたま通りかかったお店
であるのを見つけて、食べてみたいから作ってって確か、その日のうちにはやてに頼ん
だんだ。その前に、ショートケーキもプリンも作ってくれたことがあって、どっちもお
いしかったからなんだけど。
 でも、あの一回きり、はやてはプリンケーキを作ってくれない。
「プリンケーキ、すっごくおいしかったのに。
 また食べたいよ。」
 手を握り返しながら言うと、一歩先を歩くはやては、肩越しに私を振り返った。なん
となく恨めしそうな目付きだ。
「そういう声出すん、やめてくれへんかな。
 なんか、決意が揺らぐんやけど。」
 一言零すと、はやてはすぐに顔を背けて、前を向いてしまった。決意っていうのは、
作らない決意とか、賭けに勝とうっていう決意のことなんだろうな。プリンとケーキを
作らなくちゃいけないからプリンケーキを作るのは大変だっていうのは、私にも判って
るけど、でも、そんな決意までするなんて、はやてはちょっと意地悪だ。
 私だって作るってなったら手伝うのに。切るのはともかく、あんまり、混ぜるのとか
得意じゃないけど。この前、予熱したオーブン触ってやけどして、はやてに怒られたり
したけど。
「ま、着いたで、フェイトちゃん。」
 はやてが立ち止まった。私も隣で立ち止まり、右手の方に伸びる小路へと視線を投げ
た。レンガ造りの建物の間にある細い道は、入り口に街灯が立っていて、余計に狭く感
じられた。街灯と言っても、電気が通っているわけじゃないから、何で光るのかはよく
分からない。暗くなり始めた街中で、薄く光を放ち始めている。淡い暖色の光だ。
「せーので振り向いて、一緒に一歩出すんやで。
 ええ?」
 私を見上げて確認してくるはやての顔は、真剣すぎてなんだか睨まれてるような気分
になる。私はそんなはやてをしっかりと見つめ返して、肯いた。
「いつでも、大丈夫だよ。」
 応えると、合わせるように息を大きく吸って、はやてが声を張った。
「せーのっ!」
 それに合わせて、私とはやては同時に小路へと足を踏み出した。
 二人が並ぶと、肩がぶつかるような狭い小道だった。
 小路の先、頭上からの街灯の光と、高い家の屋根の奥に、切り取られた夜の青に染ま
りだした、夕の空が見えた。暗く足元の見えない道へ、二歩目を踏み出す。


 私たちは、海辺に立っていた。
 潮騒の音が低く響いてくる夜の海だった。真っ黒な水面が、目の前に広がっている。
周りを見渡せばやはり何処かの街で、街が途中で切れて突然海が現れたような、そんな
不思議な街並みだった。
 レンガ造りの家と、石畳の路面。家々は海に面して立ち、左手の方を見通せば、離れ
たところで、多分運河なんだろう河が家の間を走っていた。そこにはアーチ状の小さな
橋が渡してあり、対岸は細い路地に繋がっているみたいだった。
 家の何件かは、運河に面して玄関がついているんだろうか、立派な古めかしいドアが、
水の上にある。
「転移、したやん。」
 はやてがぼやいた。振り返ると、はやても目の前の景色を呆然と眺めていた。
 空は真っ黒だった。夜の冷たい匂いが肺の中に染み込んでくる。夜空に星はなかった。
街の外れなんだろう、海を遮るものはなくって、黒い水が何処までも続いている。水平
線は夜目には空と混じってしまって、境界は分からない。
「でも、二歩目だよ。」
 否定を返す。はやてが首を巡らせて、街並みから海へと向き直った気配がした。
「転移は転移や。
 それに、あれは一歩のうちや。」
 私は一瞬黙って、でもすぐに言い返す。
「曲がった途端じゃあなかったよ。
 プリンケーキ。」
 はやてが私の手を掴む手に、力を徐々に込め始める。
「いや、耳かきや。」
 私も負けるわけにはいかない。ここで負けたら、プリンケーキなんてこの先作ってく
れない。握りつぶされる前に、私も手に力を入れる。
「プリンケーキだよ。」
 痛い。はやてが肩をいからせて、本気で握りつぶしに掛かってくる。私も全力で握り
返す。はやてが怒った声を上げた。
「ええやん、耳かきで!
 減るもんやないし!」
 手がかなり痛い。でも、はやてはそんなに力がないから、このままいけば勝てる。そ
れに私は利き手だから有利だ。
「綿棒が減るよ!」
 言ってさらに力を込めようとすると、痛そうに顔を歪めたはやては、目の端に涙を浮
かべたまま、叫んだ。
「絶対、耳かき!
 行くで!
 最終兵器、右手!」
 言うや否や、はやては使っていなかった右手も出してきて、両手で私の手を握り締め
た。流石にはやての両手の力には勝てない。だけど、待機状態に戻せないバルディッシ
ュを左手で持っている私は、両手で戦うなんて無理だ。
「バルディッシュで片手が塞がってるからって、卑怯だよ!」
 何せ、一歩で転移させられてしまうことだってあるのに、バルディッシュを何処かに
置くなんて出来ない。
「勝負に卑怯もへったくれもあらへん!
 勝ったもん勝ちや!」
 酷いよ。
 痛いよ!
 でも、プリンケーキが!
 そう思って粘ったけれど、結局、両手の力には勝てなかった。手から、なんか間接が
ずれるような嫌な音が聞えた気がして、私は降参してしまった。
 手が痛い分だけ、すっごく損した気持ちだ。
「はやてのけち。」
 呻くと、はやてはつんとして言い放った。
「これも戦略やもん。」
 その発言は部隊を一つ束ねていた人とは思えないよ、はやて。ずるいよ。
 私は項垂れて、足元の海へと視線を落とした。潮の匂いとかはしない。遠くから響い
てくる低い音だけが、ここが海だと思わせる。滔々とした水の表面を私の視線は撫でる。
 夜の海は冷える。私は静かに息を吐き出すと、海の奥を見つめる。水は透明みたいだ
った。街と一緒で、水に生き物も居なければ、きっとしょっぱくもないんだろう。星の
ない空が映る海には光がなく、ただ、真っ黒いだけだ。夜の街には、街灯は一つも灯っ
ていなかった。けど、
「・・・あれ?」
思わず口から声が出てしまった。澄ましていたはやてが首を傾げる。
「フェイトちゃん、どうかしたん?」
 私は海の底を凝視しながら、返事をする。海の底、いや、海の向こうだろうか、透明
な海のずっと奥に、何かが見えた気がした。
「なんか、海の奥にあったような気がして。」
 はやてが同じように海を見下ろした。
「海の、奥?」
 訝しげな声を出しながら、はやてが道の縁に座り込んだ。私も手を引かれて、隣に膝
を着く。水面の奥に目を凝らす。幾重にも折り重なる水の中、波の反射に霞むその先に、
微かに、小さな光が見えた。針で描いたような、小さな光の点だ。その光は、1つでは
ない。よく見れば、無数の光が散らばっている。暗闇に散らばる無数の光。
 それはまるで、

「星空、みたいやね。」

 星空だ。
 星空が、海を透かしたその向こう、暗い夜の奥に広がっている。

「なんや、よう見たら、
 この海少しやけど、明るいんやね。」
 はやてが顔を上げて水平線を見つめていた。私は暗い水面を見つめる。星空が底に沈
んだ海は、奥に秘めた星の光が微かに滲んでいた。思えば、空に星も、街灯もないのに、
街が見えるのは、海の底からの光に、照らし出されていたからだったんだ。
 飲み込まれそうだった。胸に潮騒が染み込んで、ゆっくりと体の中を侵食していくみ
たいだった。長い時間を掛けて、入り江が削り取られていくみたいに。私の中に、星空
の海が流れ込んでくる。夜に沈む、透明な海が。
 無言のまま、はやてが立ち上がった。



 夕暮れの空が広がった。
 さっきまでと同じ、薄青い空だ。微かに紫の雲が掛かった、夜になる前の空。
「あれ、もう転移してしもうた。
 空の色も、なんやさっきまでのと同じに戻ってもうたし。」
 はやてが空を振り仰いだ。座ったままだった私も立ち上がり、新しく移った場所を見
渡す。広い通りだった。通りの両側に並ぶのは、さっきまでのアパートとか家とか小さ
な商店とかではなくって、背の高いビルみたいな建物だ。と言っても、海鳴やミッドチ
ルダみたいな形ではなくて、どちらかというともっと無機的な感じだ。奇麗な直線で構
成されたビル群は、白い壁やレンガ、コンクリートではなくって、どちらかといえば、
鉱石のようなもので出来ているように見えた。透明感のある建材は空の色を取り込んで
いて、しかしそのどれもが角度によって微妙に色を変える。
「本当に、変わったところやね。
 立ち上がっただけで転移するっていうんは、
 流石に初めてやないの?」
 はやての口調に緊張感が混ざる。掌が少し汗ばんでいる。私はずっと感じていた寒気
がより一層強くなったような気がした。手足の先が冷たい。バルディッシュを持ってい
る左手の指の感覚が曖昧だった。
「そうだね。
 いつも、最低でも一歩は動いてからだったのに。
 この中、念話も通じないんだし、気をつけないとね。」
 はやてが肯いた。
 AMFの濃度は高いみたいで、試した時に、この距離でも念話は満足に届かなかった。
後で出られるとしても、はぐれないに越したことはない。管理局がこのロストロギアを
破壊するんであれ、封印するんであれ、対策や準備などで数日は掛かるとみて間違いは
ないのに、こんな空間の中に一人で取り残されたら、精神的にも体力的にも辛いから。
「そうやな、探しようもないところやのに、
 はぐれたらもうどうしようもあらへんしな。」
 私は相槌を打ちながら、空を見上げた。取り込まれた時に比べて、随分空は暗くなっ
た。色づいた景色は段々と物の輪郭が朧になってきている。ここに来て、ぐっと気温が
下がったみたいで、凄く寒い。砂漠は暑くって参ったけれど、これだけ寒いのも考え物
だ。
 背筋を冷たいものが這い上がってきて、体の芯までゆっくり冷えていくみたいだった。
私は繋いだ掌を握り直そうとした。はやてに触れる右手だけが温かかったから。
 はやてが溜息を漏らした。
「でも、
 暗くはなっても、気温が変わらへんのは助かるな。」
 頭を殴られた気がした。
 視界がぶれる。
 振り返る。はやてはさっきと変わらない様子で、ビルを見上げていた。横顔を呆れた
ような笑みに歪ませて零す。
「空とか海とかあるけど、
 やっぱりロストロギアの中ってことなんやろうね。
 私なんか、なんやさっきからちょお暑いくらいや。」
 はやてはそう言って、困ったように頬を掻いた。