どん、どん、と強い音がする。鼓動の音だ。
 耳の奥で鳴り響くその音に邪魔されて、はやての声が良く聞えない。
 肌が粟立つような感触が、全身から湧き上がって来て気持ちが悪い。吐き気がする。
眩暈に揺れてしまいそうで、私はバルディッシュを持つ手に渾身の力を込めようとした。
だけど、悴んだ指は上手く動かない。
「そんなに、暑い、かな?」
 震えそうになる声を抑え込み、私は麻痺した唇を歪めて問いかける。はやては破顔し
て、バリアジャケットの襟首を引っ張った。
「フェイトちゃんは前線にいつもおるから、体力あるんやろうけど。
 私、ここんところデスクワークばっかりやし、
 そもそも後方支援型やから、
 フェイトちゃんと比べて体力ないんやって。
 バリアジャケット着とんのに、軽く汗掻いてしもうた。」
 言いながら、はやては襟から服の中に風を送り込む。その仕草は夏場の中学生みたい
だ。バリアジャケットは熱変化に対応してくれるのに、そんなことまでする暑がりよう
はなんだかちょっと可笑しいから、私は笑う。
「え、じゃあこれからはやて、汗くさくなるの?」
 はやてが眉を吊り上げた。
「汗くさいとか、女の子に向かって言わんといて!
 しばらくお風呂に入れへん現実と、
 どう向き合おうか悩んどるんやから。」
 はやては溜息を吐いて、片手で額を軽く叩いた。空を仰いで肩を落とす。そんなはや
てに向かって、私は真面目な顔をして言った。
「それは、大変だ。」
 思いのほか低い声が響いた。その声音に、はやてが吹き出した。
「フェイトちゃん今の声ごっつい!
 ものっすごく貫禄あったで!」
 笑ったはやてが、繋いだ手に力を込めた。私の手はゴムみたいだった。もう、自分の
手じゃないみたいだ。冷たい塊でしかない。
「管理局にいつ頃助けて貰えるんやろ。
 ロストロギアが転移してなければ、一日二日やろうけど。
 転移してたとすると、
 どれくらい掛かると思う?」
 はやての質問に、私は記憶を引っ張り出す。バルディッシュの中に、ある程度のデー
タは入れて来たんだけれど、核まで割れてしまってるから、参照することは出来ないし。
「転移の周期は、平均で三、四日。
 最短でも二日だったかな。」
 私の回答に、はやては頭を抱えた。
「一日ならなんとか我慢できへんことはないけど、
 三日も四日もこのまんまなん?
 うわぁ、もう、ありえへん。」
 打ちひしがれた声はなんだか悲鳴染みていた。横顔は若干精気に欠けている。はやて
は私の腕に絡んで、頭を肩に凭れ掛からせた。
「まさか、こないなところで、
 どき☆水浴び大会なんてやって、
 服着とらんのにどっか飛ばされたら、しゃれにならへんしなあ。」
 抱きついてくるはやての体は温かかった。ちょっと、寄り掛かり過ぎで重たいけど。
でも、まだそんなに汗くさくないから、大丈夫だと思う。三日後どうなってるかは、分
からないけど。
 はやてが私を見上げた。柔らかい茶色の髪が、私の肩口で跳ねる。
「まあどうせ、フェイトちゃんもそのうち、
 な、残念なことになるんやろうし。
 そうなったらもう、分からへんよね。」
 そこはかとなく投げやりで。でも、その笑顔は声の割りに明るい。琥珀の瞳は、光を
零しているみたいで、吸い込まれそうで。
「それは、困ったな。」
 私が顔をしかめると、


 ねぇ、はやて。
 私ね、


「フェイトちゃん、汗くさー。」
とはやては笑った。


 もう手も足も、感覚がないんだ。









				はやて







 ビルの群れの間を、訥々と歩いて行く。両側二車線ぐらいありそうな広い道は、緩や
かにカーブしながらずっと先まで続いている。誰もいないこんな広い道を歩いていると、
本当に何処かに迷い込んだんだ、って言う気持ちが今更、改めて強くなってくる。
 時折、はやてがデバイスを起動させて、簡単に周りの様子を探ってみる。これまで何
度も繰り返した探索行動だけれど、はやてが首を縦に振ることは無かった。
「なんもなし、や。」
 今度もそうみたいで、はやては呟くとシュベルトクロイツを待機状態に戻した。私た
ちは静かに、道を進んでいく。元より、何か得られる可能性はほとんどないと知って始
めた探索だけど。
 私たちは黙って歩く。手を繋いだまま、長い一本の道を歩いて行く。
 景色は青に飲まれだしていた。どの建物も、暮れの色に染まって、通りには朧な影が
微かな光と溶け合いながら、長く伸びている。空はもう縁の方が淡い紫から濃い青に変
わり始め、それを彩るように、薄く雲が広がっていた。
 答えは、一つきりだった。
 手足が冷えていく感触。これは、魔力が抜けていく時に感じる冷たさだ。ただの熱変
化なら、バリアジャケットが緩和してくれるはずだからだ。
 でもまさか、バリアジャケットを何時間着用していようと、それだけで手足に冷たさ
を覚えるほど、魔力を消費するなんてことはありえない。身を守るもので、自分の力を
削っては本末転倒だ。
 ここはAMFで満たされているけど、それで過剰に魔力を消費させられている訳でも
ない。AMFは魔法結合の解除を早める効果があるけど、主に効果を発揮するのはやは
り、射撃や砲撃魔法といった、手から離れるような魔法に対してで、バリアジャケット
みたいなフィールド系魔法は魔法の結合が強固で揺らぎが少ないから、あまり影響を受
けない。
 なのに、なんで、私は手足の感覚が無くなるほど、魔力を消費しているのか。
「お、なんか見えて来たんやない?
 広場かな?」
 はやてが上げた声に、私は前を見た。緩いカーブはいつの間にか、終わりを迎えよう
としていた。見上げるようなビルが途切れ、視界が開けていく。
 広場、という以外に私にもそこをなんと言って良いのかわからない。踏み出した先は、
高いビルに囲まれた、大きな円形の広場だった。広場には、他にも10本ほどの道が繋
がっていて、丁度広場を中心に、放射状に道が伸びる形になっている。
 円は大きくて、その遠さの為に、反対側の道は薄闇に隠れていまいちはっきりと見え
ない。
「なんか、どっかで見た事ある景色に似とる気がするんやけど、
 なんやったっけな。」
 はやてが広場を見渡しながら、首を捻った。
 私は無言で、左手の方にある道を睥睨する。何処に繋がっているかなんて、どれも分
からない。ただその左手の道は、日の落ちた方向との関係だろう、ビルの影が道に流れ
込んで、塗りつぶされたみたいに真っ黒に染まっている。
 多分、もう、今しかないと、そう思う。
 答えは一つしかない。
 そして、私の取るべき行動も、一つだけだ。
 捕獲型のロストロギアである、これは正しかった。そして、高エネルギー結晶体であ
るということ、これも正しい。ただ一つ私たちが間違ったのは、ここに満たされている
のが、高濃度のAMFだと思い込んだことだ。
 魔法が消えるのを見た。ただそれだけで、AMFと判断したことが間違いだったんだ。
「うーん、思い出されへん。
 まあ、ええか。」
 顎に手を当てて、呻り声を上げていたはやては、そう結論付けると、他にある道の本
数を数える。
 高濃度のAMFで満たされているとしたら、こんなにも私が魔力を消費している理由
が説明できない。全てを説明する方法は、一つしかない。それが答えだ。
「うしろの入れて、12本。
 こんな多いと、どう選んだらええのか、わからへんな。」
 魔力がロストロギアに吸収されているんだ。
 このロストロギアは、人から吸い取った魔力を結晶体中に取り込むことで、高いエネ
ルギーを得ている。発動した魔法がすぐに消えて行ったのは、魔法自体がロストロギア
に取り込まれたからだ。そう考えれば、手足の冷たさも、魔法が消えたのも、捕獲型で
あることの理由も、矛盾無く説明できる。
「フェイトちゃんはどの道行きたい?」
 このロストロギアは、人間で出来てる。
 はやてが私を振り仰いだ気配がした。視界の端に、私を見つめるはやてが映る。でも、
私ははやてに目を向けることはしなかった。
「フェイトちゃん?」
 リンカーコアの状態と人の精神の安定性には相互関係がある。リンカーコアに酷い損
傷を受けた際に、意識を失うのはその一例だ。リンカーコアを失うということは、生命
活動の維持が著しく阻害されるということだ。軽度の場合でも、意識を保つことすら難
しい。
 それでも、過剰な魔力ダメージで深刻な被害を受ける人間が居ないのは、リンカーコ
アの再生能力による。一般の臓器などと違って、リンカーコアは休息を開始した時点で
即座に回復を始めるからだ。だから、たとえリンカーコアを蒐集されたとしても、時間
が経てば意識は戻る。
 でもそれも、回復すればの話だ。
「フェイトちゃん、どないしたん。
 なんや、顔色悪いんとちゃう?」
 はやての気遣わしげな声が、私を窺う。マントを軽く引っ張られ、私はゆっくりと首
を巡らせて行く。暗くなった空、大きな円形の広場、それを囲む見上げるほどに高いビ
ルの群れ、誰も居ない道、それらが順繰りに私の視界を滑る。
 魔法は発動と同時に吸収される。吸収された魔力は、ロストロギアの内部エネルギー
として蓄積される。その間にも、魔力は否応なしにロストロギアに飲み込まれていく。
そして最後には、リンカーコアさえ奪われるのだろう。
 目蓋の裏に、先ほど見た景色が蘇る。
 星空だった。海を透かしたその向こう、暗い夜の奥に広がる、星空。
 リンカーコアを失い、そして回復しようともそれすら根こそぎ奪われたら、どうなる
のか。本当に、簡単だ。
「フェイトちゃん、顔、真っ白やん。」
 死ぬしかない。
 体の中にある魔力も、魔法として吐き出した魔力も、全て吸収されてしまう中で、こ
の高エネルギー結晶体の外に出られる方法なんてない。外部から救助があれば出られる
けど、あと3日ももつわけない。
 だって私の魔力は、もう。
「ほんと真っ白やで。
 熱とかあるんちゃうの、大丈夫?」
 言いながら、はやては私の額に手を伸ばしてきた。細い指の、小さな手だ。
 温かい掌。
 はやての手が、私の前髪を掻き揚げる。
「気分悪いん?」
 私はその指先を、目で追った。
 はやては寒がってなんかいない。魔力を奪われてはいない。私とはやての、決定的な
違い。
 収集蓄積型ストレージデバイス夜天の魔導書。
 私は戸惑いを浮かべるはやてを見つめた。青い色の影が、頬に落ちている。不安げな
瞳の中に私が映りこんでいる。小さな肩。柔らかい髪が揺れた。私の額に触れようとし
ていた手が、少し動きを止める。
 答えが一つだけなら、私がすることも一つだけだ。
「はやて。」
 この距離ですら念話は届かないってことは分かってるけど、私はそれでも思念通話の
回線にプロテクトをかける。いつかみたいに、思考を漏らしたりは絶対にしない。少し
だって。
 はやての指先が、私の額に触れる。
「なに、フェイトちゃん。」
 はやては外からの救援を待てば助かる。だけど私は、それまでは待てないんだ。
 私ねはやてにそんなところ、見せたくないんだよ。どうしようもないのに、何も出来
ないのに、目の前でただ人が冷たくなっていくところなんて、見せたくない。だって、
はやては気にしちゃうよね、ずっと。はやてのせいじゃないのに、そうだってずっと思
って、きっと苦しいよね。
 そんなのは私、嫌なんだ。

 君との未来は得られなくても、君の未来は欲しいんだ。
 だから、

 はやて、ごめんね。

 握り締めた、小さくて温かい手を私は振り払い、
 額に伸ばされたその手を、音を立てて叩き落とした。

「私は、はやてとは違う道に行く。」


 君に、嫌われようと、思うよ。