第十三話









 なのはの音を失った世界で、それはやけに緩慢な動作だった。星空が赤い瞳の表面を滑
り、仄白い顎が、なのはへと向けられる。

 優しくて、強くて、可愛くて、世界で一番の人に、

 彼女の血を吸って重くなった外套が大きく翻った。血が弾け、霧のように散る。月明か
りに逆光となった黒い霧。腕を失った左肩から曝け出された体の内側ばかりが、鮮明に目
に焼きつく。強烈な赤が生々しく光を反射させる、濡れた傷口。落ちていった腕は、遥か
雲の下でもう見えない。

 世界で一番、幸せになって欲しかった。

 吹き荒れる風が、金の髪を翻弄した。眩いまでの輝きが、なのはの見開かれた目に映り
込む。瞳の上で、月と彼女が揺らぐ。縁から今にも零れ落ちそうな、涙の中で、

 でも、こんなの、

彼女の頬が緩んだ。細められた赤い瞳は、月明かりなんかより、ずっと煌いていて。彼女
の周りだけ、春が溢れているようで。煌く満面の笑顔で、砂漠の塵を星の輝きに変える、
吹き荒れる嵐すら、満場の喝采に聞える笑顔で、

 こんなの、

透き通った、硝子のように澄んだ声が、なのはの耳を打った。
「なのは。」
 目に溜まった冷たさが、流れてしまいそうで、なのはは手を握り締め、唇を渾身の力で
噛んだ。体が震える。喉に張り付いた舌を引き剥がし、なのはは言葉を振り絞る。
「お願い、フェイトちゃん。
 投降して!」
 張り上げた叫びには、もう隠し様もなく涙が絡んでいた。機動兵器は全て落とされ、飛
び交う魔法の一つもない、静かな夜空に響き渡る涙声。
「お願い、だからっ!」
 泣き叫ぶような懇願がフェイトに縋りつく。夜風に攫われて、止め処もなく。
「ねぇ、」
 何十もの局員に全方位を囲まれ、殺傷設定の魔法を待機させたデバイスを向けられなが
らも、フェイトはなのはだけを見つめる。なのはだけを、ただずっと見つめる。曇りのな
い眼差し。
「なのは。」
 フェイトは穏やかな声音で、紡ぐ。掠れては震え続けるなのはの声とは、対照的で。
「お願い。」
 ほんの少しで良い。あなたの幸せは、こちらにあると。
 ほんの少しでも良いから、言って。

 お願いだから、

 武装局員が身構える。それすら、目に映すことは無く。
 フェイトはなのはに囁いた。
「私は幸せになりたいんだ。」

 そんな遠くで微笑まないで。 

 なのはの目の縁から、溢れ出た涙が頬を伝った。噛み締めた唇が震える。霞んだ空の高
みで、フェイトは月を背にして、なのはに微笑みかける。いくら手を伸ばしたって届かな
いところで。
「だから。」
 ふ、と月が翳った。
 見上げると、フェイトの背後、月の前に、一隻の戦艦が鎮座していた。黒々とした機影
は、白い光に晒されてもなお、一切の光沢を放つことはない。
 それは、アルハザードへ行くことの出来る、唯一の船だった。何故ここにと、考える間
も無く、皆の見つめる中でその船が明かりを灯した。
 主砲が眩い光を放つ。
 こちらにその砲身を向けて。
 皆が驚愕に息を呑んだ。撤退を、と誰かが叫んだ。途端、喧騒が巻き起こり、狼狽が空
気を伝播し埋め尽くす。なのははそれに気付きながらも、指先の一つすら動かせず、フェ
イトの赤い瞳に縫い止められていた。風が涙で濡れた頬を冷やす。
「なのは、私は、」
 フェイトの唇から零された声は、涼やかな音をしてなのはの耳朶を叩いた。
 艦隊からの転移魔法は間に合わない。主砲はもう、チャージを終える。悲鳴染みた声が、
皆の口から上がる。金色の光が、砲身の奥で一際強く輝いた。
 金色の閃光が弾ける、瞬間。

 フェイトが笑った。

「アルハザードへは行かないよ。」


 目を灼く光が世界に満ち溢れた。
















































 月明かりに白々と、爆煙を上げる戦艦が水平を崩し、重力に引き摺られて地面へと落ち
ていく。小規模の爆発を繰り返しながら、破片がアルトセイムの山並みへと降り注ぐ。構
造が破壊されていく音が、低く聞えてくるだけの静寂。
「0152時、駆動炉の暴走により、敵戦艦の撃沈を確認。
 全艦へ当該強奪犯の密輸ルート、並びに主な取引先、拠点のリストを送ります。
 至急、検挙をお願いします。」
 訥々とした声が、その静寂に響いた。なのははその声の方を振り仰ぐ。月の袂、落ちる
戦艦を見つめる背中は半分以上が血で真っ黒に染まっている。金色の髪が、星空に煌く。
「現在までに盗まれたロストロギアの流通先は全て特定されています。
 本件に関わる犯人グループは全て次元航行艦を所有しているので、
 直ちに出動してください。」
 フェイトはアサルトモードに戻ったバルディッシュを提げ、巡航艦に通信をしていた。
フェイトが紡ぐ言葉が、なのはの頭を無為に擦り抜けて行く。理解できなかった。フェイ
トが何を言っているのか、フェイトがなんと言ったのか。
 何も頭に入ってこない。熱を持って霞んだ頭では、何も理解できない。
「はい、ですから、今すぐに。
 それは判っています。
 けれど。」
 どうして戦艦が落ちていっているのか。あの戦艦がなければ、アルハザードにはいけな
いはずなのに、どうしてそれを、フェイトは見ているだけなのか。
 何故、その船を、敵戦艦なんて、言ったのか。
 判らない。
「長官、今すぐ出なければ、
 間に合わないんです。
 今、すぐ―――っ。」
 フェイトの呼吸が乱れた。飛行が不安定になり、その足が少し沈んだ。なのはの心臓が
跳ね、反射的にフェイトに手を伸ばしかける。
「長官っ!」
 しかしそれも、フェイトが声を振り絞り上げた叫びの前に、途絶えてしまう。なのはは、
立ち竦んだまま動くことが出来なかった。目の前で繰り広げられる光景を、ただ見過ごし
ていく。
『お取り込み中のところ失礼します。』
 夜空に空間モニタが展開され、二人の女性が映し出された。女性がフェイトを振り向い
て微笑んだ。
『フェイト、話は聞いたわ。
 潜入捜査ご苦労様。』
 フェイトの驚愕に歪んだ声が、二人の女性の名を呼ぶ。
「母さん、レティ提督。」
 二人は小さく肯いた。レティが淡々とした事務口調で告げる。
『今、あなたがリストに載せた区域のほとんどに巡航艦が居るわ。
 直ぐに捜査に向かってもらうから、大丈夫よ。
 他の場所も、30分掛からずに緊急対策班を送れるから。』
 レティはそう言い切って、少し口元を緩める。すると、モニタの中にウィンドウが開き、
合同捜査本部長官が映し出された。彼は厳しい目付きで、リンディを睥睨する。
『我が子かわいさかね、リンディ提督。
 残念ながら、彼女の執務官権限は剥奪されている。
 潜入捜査などではなく、ただの犯罪者の身売りではないのかね?
 それが提督のすることか。』
 嘲りを多分に含んだ物言い。リンディは長官の視線を撥ねつけ、射るような視線を返す。
『お言葉ですが、提督。
 フェイト・T・ハラオウンの執務官権限剥奪は本日0147時を以って、
 取り消されています。
 理由は剥奪の最大の要因であるフェイトによる情報漏洩行為について、
 証拠が偽造であると判明したこと、
 並びに、逮捕者の証言が一部改竄されているとの調査結果に因ります。』
 リンディは唇を歪めて、最後の言葉を口にする。
『話をお聞かせ願えますね、長官。』



 なのはを、脳を掻き混ぜられているような、酷い眩暈が襲った。呼吸が不自然に乱れて
いる。まっすぐに立っている自信がなくて、なのはは肺の中から細く空気を押し出すと、
足元を見下ろした。薄っすらと雲の破片が流れ、その下には暗い夜の森が広がっているの
が見える。その中を川が流れ、彼方には海があった。
 なのはは、レイジングハートが手から滑り落ちそうになるのに気付いて握り直す。掌が
汗で濡れていた。
「フェイト、さん。
 今の本当ですか?」
 ティアナの乾いた声に、なのはは顔をあげた。ティアナの顔はもう完全に色を失って、
フェイトへと向けられていた。フェイトは申し訳なさそうに眉を垂らす。
「うん。
 黙ってて、ごめんね。
 はやて達にも悪いことしちゃった。」
 後で謝らないとね、と呟くその横顔に、なのはは体を震わせた。
「そ、んな。」
 漏れた呻き声に、フェイトがなのはを振り返った。困り顔は、なのはを見ると、優しく
綻んだ。
「なのはもごめんね。
 怒ってる、よね。」
 少し首を傾げて窺う仕草。それは、いつものフェイトだった。10年間を共にしたフェ
イトそのままで。先ほど、フェイトが言った言葉が、なのはの頭にもう一度響き渡る。鐘
の様に、大きな響きを以って耳を撃ち抜く。
 なのははフェイトの腕のない左肩を見た。血を吐き出し続ける剥き出しの断面が染み付
いて、目を逸らすことができなかった。
 でも、見つめることもできなくて、
「わ、・・わた、・・・私・・・、フェイトちゃんの腕を・・。」
なのははただ唇を震わせ続ける。景色が歪む。滲んで何も見えなくなる。目頭が熱い。嗚
咽が苦しい。
「だって、フェイトちゃん・・・アルハザードに・・・っ。
 お母さんを助けるって、・・・っ。」
 フェイトがゆっくりと、なのはの所へと舞い降りた。蒼白な顔が触れ合えるほど傍に来
て、なのはを見つめた。途端、むせ返る様な血の匂いが喉の奥を通る。なのはは思わず、
フェイトから顔を背けた。フェイトは俯いたなのはの額に、自分の額を触れ合わせた。
「迫真の演技過ぎちゃったかな。
 驚かせちゃったね。」
 閉ざそうとする口を割って、嗚咽が漏れる。なのはの硬く瞑った目蓋から涙が溢れては
頬を伝い、顎から落ちていく。その真っ暗な視界の中で、フェイトの声だけが鮮やかに描
き出された。
 穏やかな、優しい声。
「ごめんね、なのは。
 私、もう、涙も拭ってあげられないね。」