第十四話









 真っ白い光が満ちていた。薄く開いた目蓋から差し込んでくるその光の眩さに、はや
ては睫を震わせた。息をしている。自分の胸が上下しているのが判る。肺に沁み込んで
来る真っ白い部屋の空気は、酷く懐かしい匂いだった。はやては瞬きを一度して、首を
横に傾けた。枕が音を立てる。病室だった。
 頭が重たかった。鈍い痛みが、体中を支配している。はやては細く長い息を吐き出し
て、目蓋が下がっていくのに任せて、再び目を閉じる。
「は・・やて・・・。」
 掠れた声が、はやてに触れた。はやては半ば閉ざしていた目を開き。声のした方を振
り向いた。
 ベッドに身を起こした一人の姿が、窓の前に、白く塗りつぶされた景色を切り取って
佇んでいた。白い肌は、はやての霞んだ視界の中では輪郭すら朧で、彼女は淡く燐光を
放つ珪石のようだった。光に溶ける金髪が、肩口を滑らかに滑っている。彼女の石英の
ように硬質で透き通った瞳の表面に、はやてが映りこんでいた。
「フェイトちゃん。」
 はやての唇が、彼女の名前を紡いだ。
 フェイトは微かに視線を落とした。口の端は僅かに動かされ、しかし何も音を発する
ことはなかった。無為に揺れては閉ざされる。伏せられた眼差しに、淡い影が掛かって
いた。
 静寂がフェイトの喉を嚥下されていく。
「ごめん、はやて。」
 呟くように言ったフェイトの横顔を、はやては見つめた。いつもより血色の悪い顔だ
った。最後に落ち着いて会ったのは随分前のことだったが、目蓋の裏に焼きついている
みたいに、直ぐに思い出せた。
 少し痩せたような気はしたけれど、フェイトの姿はやはり今までの姿と重なって見え
て。
「フェイトちゃん、」
 呼びかけに、フェイトがぎこちなく振り返る。臆病で、怯えたような仕草だった。
 はやてはいつものように、微笑みかける。
「おはよう。」
 時が止まったかのように、フェイトの赤い瞳ははやてを見つめたまま動きを失った。
瞳の縁に滲んだ一掬の涙が日の光に煌いて。フェイトは返事をした。朝の挨拶を。
「おはよう、はやて。」
 胸の奥に染み込むようなその声に、確かに、フェイトは帰ってきたのだと、はやては
思った。
 静かな室内に、硬い音が響いた。ドアを叩く音だった。はやては首を巡らせ、病室の
引き戸を振り返った。白い大きなドア。その向こう側から、ややくぐもったシグナムの
声がした。
「主はやて、失礼します。」
 声とともに、ドアははやての返事を待たずに開かれた。
 入ってきたのは、声の通りシグナムだった。局の制服ではなく、私服に身を包んだシ
グナムは、顔を俯けていた。その視線は床を這い、背にはいつもの覇気がなかった。逞
しい筈の肩にさえ、力はない。ドアを後ろ手に閉めようとしたシグナムを、はやてが呼
んだ。
「シグナム。」
 弾かれたようにシグナムの顔が跳ね上がった。直ぐにはやてを捉え、釘付けになる。
驚愕に見開かれた目には、はやて以外存在しなかった。
「主。」
 唇が呟きを漏らした瞬間、シグナムはここが病室だということを忘れていた。つんの
めり、転びそうになりながらはやての元に駆け寄った。半ば崩れ落ちるようにして、は
やてのベッドに縋りつく。
「主はやて、お目覚めになられたのですね。
 私がふがいないばかりに、このようなことに。」
 シグナムは包帯の巻かれたはやての手を取った。悔恨に揺れる真摯な相貌が、はやて
に向けられた。シグナムははやてに触れる手に力を込めた。
「御赦しください、主。」
 はやての手を祈るよう額につけてシグナムは跪いた。許しを請うシグナムは、紛う事
なく彼女の騎士だった。はやては一瞬、呆気に取られた顔をして。シグナムに与えたの
は、微笑み一つだけだった。ひたすらに幸福なだけの微笑み。
「シグナム。
 家族のことを許さん人が、何処におるって言うん?」
 それだけが、はやての全てだった。騎士である前に、シグナムは家族だった。愛を注
ぐだけの存在だから、共に居るだけで幸福になれる存在だから。許すとか、許さないと
か、そんなことに意味はなかった。はやてはシグナムの手を握り返す。
 シグナムの顔が、泣きそうに綻んだ。
「おい、シグナム。
 何ドア開けっぱなしにしてんだよ。」
 廊下からヴィータの憮然とした言葉が飛び込んできた。足音が2、3歩刻み、赤い髪
がドアから覗く。遅れて不機嫌そうな顔のヴィータが姿を現した。ヴィータは部屋の中
を見ると、不機嫌な顔のまま、入り口に立ち尽くした。
 その驚き方が、なんだかおかしくて、はやては自然と頬を緩めた。
「ヴィータ、おはようさん。」
 ヴィータは状況が飲み込めない様子で、固まったままはやてを見つめていた。微動だ
にしないヴィータに、はやては見かねて軽く手招きをする。
「はやて!」
 途端、ヴィータは声を上げて、一目散にはやてに飛びついた。はやての首に腕を回し
て、抱き締める。横たわったままのはやては困ったように眉を歪めた。抱きついてくる
腕の力が強く、少し苦しかった。ヴィータの髪が頬をくすぐってこそばゆかった。
「もう、みんな大げさやなあ。」
 涙ぐんでいるヴィータの頭を撫でてやりたがったが、腕を上げるのもだるくて、はや
てはただされるがまま、もたらされる温もりに浸った。未だに傷は痛み、苦しいはずな
のに、呼吸をするのが凄く楽になった気がした。
「もうしんどいことなんて、何もあらへんのに。
 フェイトちゃんが帰ってきて、
 みんな元通りなったのにな。」
 その言葉に、シグナムはゆっくりと首を振った。
 シグナムははやての手を放し立ち上がる。低く響く声が、流れる。
「お言葉ですが、主。
 全てが元通りになどなってはいません。」
 精悍な顔が、窓の方に向けられた。その視線は真っ直ぐに、ベッドに身を起こしてい
る一人の人物を射抜いた。未だ青白い顔が、シグナムを見上げた。
「目が覚めたようだな、テスタロッサ。」
 感情を押し殺し放たれる威圧には、隠しようもなく怒りが滲んでいた。双眸は断罪を
迫る刃を宿し、フェイトを蔑んでいる。歩むシグナムの靴音は、やけに澄んでいた。シ
グナムはフェイトの前に立ちはだかった。
 シグナム、とフェイトが口にしかけるのを捻り潰し、シグナムは言い放つ。
「強奪犯共の内部に潜り込み、
 拠点と人員、取引先まで全て押さえ、
 尚且つロストロギアの流出先まで洗い出すとは、
 中々に優秀だな、フェイト・テスタロッサ・ハラオウン執務官殿は。」
 嘲笑すら内含し放たれる言葉は、室内に重く垂れ込めた。息をするのも阻害される程
に剣呑な憤りを纏い、シグナムは猶も言い募る。
「その上、魔導式を独自解析し、
 戦艦の動力部に、主砲チャージと同時に自壊するよう、
 プログラムを組み込み落とすとは。」
 フェイトは何を言い返すでもなく、表情には漣一つ立たない。全てを受け止めている
様は、シグナムの言葉への肯定だった。シグナムは微笑を漏らした。鼻で笑い飛ばす類
の、皮肉な笑みを。
「リンディ提督のお力添えがあったとはいえ、
 よくもやってのけたものだ。」
 フェイトの表情が、初めて変わった。
 驚愕に歪んだ顔のまま、呟きを漏らす。
「母さん、が・・・?」
 その顔を見て、シグナムは満足そうに口角を吊り上げた。瞳の奥の暗闇が、生温かい
光を宿し、フェイトを捉える。それは嗜虐的な嗤いだった。
「やはりそうか。
 リンディ提督が、ご自分の娘に進んで違法捜査などさせるわけがないからな。」
 シグナムが一人ごちるよう口の中で発した言葉に、フェイトは思わず身を乗り出した。
「どういう―――っ!」
 声を上げるフェイトを無視し、シグナムは胸倉を掴みあげた。気管が狭まり、フェイ
トの口から無駄な呼気が零れる。シグナムはフェイトに怒号を叩き付けた。
「このたわけが!!」
 鈍い音が甲高く響いた。
 渾身の力で頬を殴り飛ばされ、フェイトはなすすべなくベッドに突っ伏す。呻き声が
零れ聞えた。唇を切ったらしく、僅かに口の端に血が滲んでいた。意識が判然としてい
ないのだろう、視線が不安定に揺らめいていた。
 シグナムは襟首を掴み、フェイトを無理矢理起き上がらせた。
「貴様が犯罪者共を許せんのは理解できよう。
 盗難に遭い、不正に流通するロストロギアが起こす事件は後を断たん。
 だが、こんなことが許されると思っているのか?」
 問いかけるような口調は、フェイトを責めていた。碧眼がフェイトを見つめていた。
フェイトは歯を食いしばり、閉じかける目蓋の下で、必死にシグナムへと視線を返す。
シグナムは目を逸らさなかった。
「皆を傷つけ、信頼を裏切り、貴様は何をやった?
 リンディ提督は本来貴様が問われるべきであった違法捜査の責を負う為、
 あの一件は全てご自分の指示であったなどと仰っているのだぞ!?
 貴様の為に、全て責を負うと言っているんだ!!」
 揺れるフェイトの焦点が、シグナムを映して結ばれた。唇は引き結ばれ、シグナムの
続く言葉を待つ。
「貴様が一人で何でも出来ると勘違いして、
 こんなことをしたせいで、
 一体どれだけの人間が、貴様の為に苦労をしたと思っているんだ!!
 どれだけの心配をかけたか、貴様は理解しているのか!?
 貴様一人で何が出来る!?
 何も出来はしないだろう!」
 シグナムの視線が、フェイトの左肩に滑り落ちた。無個性な服。左の袖の中には、何
も無かった。用のない袖が、垂れ下がっているばかりだった。
「貴様は、」
 シグナムの声が震えた。震えているのは声だけだった。瞳は怒りに陽炎を立ち上らせ
ていて、襟首を掴む腕は筋が浮かぶほどに力が込められているというのに、声だけが、
微かに震えていた。
「そんなに、私達を信用できないか?
 こんなことをしなければならないほどに、
 私達は頼りないとでもいうのか?」
 シグナムが、一拍言葉を切った。その一瞬に、怒りも震えも消えた。冷徹で真摯な眼
差しが、フェイトを見据えた。

「答えろ、テスタロッサ。」
 
 荘厳な声が、耳朶を打った。
 フェイトは喉を小さく鳴らし、唾液を嚥下した。そして、ゆっくりと口を開く。
「シグナム、私は―――。」

 子供の大声が部屋を貫いた。
「フェイトまま!」
 振り返ると、そこには肩で息をついている一人の少女の姿があった。互い違いの色を
した、大きな瞳が、フェイトを映している。シグナムが手を放すと、フェイトは少女の
名前を描いた。
「ヴィヴィオ。」
 名前を呼ばれ、ヴィヴィオの目に涙が溢れた。口が変な形に歪み、体が震える。
「フェイトままぁっ!!」
 泣き声を上げて、ヴィヴィオはフェイトの元へと走った。溢れる涙が邪魔をしている
のだろう、足取りは覚束ない。けれど、真っ直ぐにフェイトへと駆け寄ると、思いっき
りフェイトに抱きついた。
「フェイトまま。」
 ヴィヴィオはフェイトの首にしがみ付いた。止め処なく零れる涙が、フェイトの服を
濡らした。嗚咽を上げながら、ヴィヴィオはさらにきつくフェイトを抱き寄せる。
「ヴィヴィオ、ごめんね。」
 背の低いヴィヴィオに抱きつかれて、フェイトは前屈みの姿勢で、右手で体を支えな
ければならなかった。泣きじゃくるヴィヴィオの背を撫でてやる事も、抱き上げること
も出来ず、フェイトはただ、頬を寄せる。
「し、んぱい、したんだよっ。
 いっぱい、・・・っぱい、たんだ、よっ。」
 嗚咽の中、必死で紡がれるヴィヴィオの言葉を聞きながら、フェイトは目を閉じた。
まるで、何一つ取り零さないように、するみたいに。フェイトは何度も、肯いて。
 開け放たれたドアに、もう一つ足音が近づいた。シグナムが振り返り、はやては目線
だけをそちらへと配った。彼女は入り口に立ち止まり、フェイトを見つめて笑みを浮か
べた。
 リンディ・ハラオウンだった。
「リンディさん。」
 はやてが声を掛けると、リンディは口に人差し指をつけて、軽く首を振った。愛しむ
よう細められた目は、フェイトとヴィヴィオに向けられていた。
 シグナムは、ふっと笑みを漏らすと、静かにフェイトの元から離れた。はやてに目礼
をして、部屋を辞去する。
「ありがとうございます、シグナムさん。」
 廊下へ出たシグナムにリンディが振り返って言った。
「フェイトのことを、大切にしてくれて。」
 シグナムは困ったような、照れたような顔になって、首を横に振った。
「聞えていたんですか。
 すみません、出すぎた真似を。」
 リンディは嬉しそうに眉を垂らした。その笑い方は、何処となくフェイトに似ていた。
リンディが尋ねる。
「でも、いいんですか?
 質問の答えを聞かなくって。」
 シグナムは僅かの逡巡もなく答えた。
「ええ、構いません。
 私とて、本当はテスタロッサが戻ってきただけで、充分なんですから。」