第十四話









「なのはさん。」
 自分を呼ぶ声に、なのはは顔を覆っていた手を退けた。
 俯けていた顔を上げると、暗さに馴染んだ目に、昼の日差しが突き刺さった。なのは
は幾度か目を瞬かせる。霞んでいた視界が鮮明になり、草木の生い茂る病院の中庭の様
子が描き出される。
 風が隣に立った人の服を揺らせた。
「リンディさん。」
 リンディは、なのはを見つめて微笑んでいた。その頬を、頭上の木から零れる光が彩
っている。
「隣、いいかしら。」
 リンディはなのはが座るベンチを示して尋ねた。なのはは目を逸らし、無言で顔を俯
ける。すると、リンディも何も言わず、静かになのはの隣に腰を下ろした。
 中庭には石で舗装された小路が続いていた。小路は青々と枝を伸ばす広葉樹の間を、
緩いカーブをなぞっている。ミッドチルダの中央に位置し、管理局の運営下にあるこの
病院は、市井にある一般の病院に比べ、非常に広い敷地を有している。多様な施設を持
つ院内に於いて、ここは中庭でも病棟から最も離れた一角であった。そのためだろう、
二人の他に人影はなく、木々に遮られた庭の中心の方から微かに子供の声が聞えてくる
だけだった。
「さっき病室に、機動六課の新人だった子達が来たのよ。
 スバルさんに手を引かれて入ってきたティアナさんは、
 フェイトの顔を見るなり泣き出しちゃって。」
 リンディが梢を見上げる。
 なのはは黙したまま、膝の上に置いた手を見つめていた。指を組むと、昼の暖かい日
差しの元、影がその中に生まれた。
「ティアナさんって、良い子ね。
 フェイトが信頼するのも分かるわ。」
 朗らかな声音。辺りに満ち溢れる昼の気配。頬を撫で、髪を揺らす陽だまりの暖かさ
に包まれて、なのはは掌に在る薄い影に吸い込まれていく。
「フェイトが、なのはさんに会いたそうにしてたわ。」
 リンディがなのはを振り向いて言った。
 なのははスカートの裾を握り締めた。肩を強張らせる。俯いた顔に影が落ち、陽光に
透ける髪が肩を滑る。
「私、もう、フェイトちゃんの隣になんていられません。」
 風に吹かれ、木の葉が澄んだ雨のような音を降らせた。鳥の上げる歌声がした。空は
青く、雲の切れ端は眩かった。
「どうして?」
 リンディの穏やかな問いかけが、なのはに絡みつく。なのははそれに耐えるよう、裾
を握る手に力を込めた。骨が浮き出て、肌が白く濁る。手が小刻みに震えた。
「私が、フェイトちゃんの腕を、落としたんです。」
 息を呑み、噛み締めるように繰り返す。
「わたしが、腕を。」
 遠くで子供の歓声が上がった。
 リンディが長い息を漏らす。空を一度仰ぎ、なのはを映し、その視線は小路の辿る軌
跡を追った。一羽の小鳥が、跳ねるように歩いている。
「そう、ね。
 知っているわ。
 でも、なのはさんは、フェイトを止めようとしてくれたんでしょう?」
 瞬間、なのはは弾かれたように顔を上げた。鋭い叫びが口を割って放たれる。
「そんなんじゃありません!
 私は、フェイトちゃんのことなんて、本当は考えてなかった!」
 目頭が熱かった。視界が滲んだ。リンディの姿がその中で霞み、曖昧な色の塊になる。
もう何も見えない。
「私、フェイトちゃんを、手放したくなかったんです。」
 見たくない。
「フェイトちゃんがプレシアさんの所に行ってしまうかも知れない。
 そんなこと許せなかった。
 ずっと、私の傍に、居て欲しかった。」
 何も。
 なのはは顔を両手で覆って、背を丸めた。掌の中にだけある暗闇。惜しみなく降り注
ぐ太陽の光は心地よいだけで。ただそれだけで。なのははその僅かな暗闇に縋りつき、
声を上げた。
「フェイトちゃんが居なくなるなんて考えられなかった。
 私のものにしたかった、
 私のものに、なって欲しかった。
 だから、私、」
 零れる震え。
 目蓋の裏で、月明かりを切り裂き血飛沫が弧を描いた。吹き飛ぶ左腕は回転し、雲間
へ吸い込まれて消える。肩口から溢れる血液は際限なくばら撒かれ、服も外套も全てを
赤黒く染めた。
「私あのとき、フェイトちゃんに怪我させても良いって思ってたんです!
 怪我させれば良いって!
 それで、フェイトちゃんが何処へも行けなくなるなら、
 怪我させても構わないって思ってたんです!」
 張り上げられた涙に塗れた叫びは、行く宛ても無く風に浚われた。それは小路の彼方
へ呑まれて消え去り。木漏れ日の差すベンチは静かだった。
「フェイトちゃんは、何処へも行かなかったのに。」
 掌に涙が溢れた。
 あの人の笑顔だけが、遠く浮かぶ。
 誰よりも優しい人。
 惜しみなく、全てを注いでくれる。
 彼女が居れば、世界が変わった。
 何もかもが眩く輝き、肌に触れる音はみな、歌声に聞えた。
 いつも隣に居てくれて、手を取り、共に歩んで来てくれた人。
「何処にも行かないって、言ってくれてたのに。」
 彼女の笑顔だけで、幸せになれた、胸が少し熱くなった。彼女はこんなにも、優しさ
をくれる。幸せをくれる。なのに、
「フェイトちゃんに世界で一番幸せになって欲しいだなんて、
 フェイトちゃんの為なら、何でも出来るだなんて。」
 私は、自分で言った言葉すら偽りにしてしまう。何も出来ない。こんなにも沢山のも
のをくれる彼女に、何も返すことが出来ない。
「フェイトちゃんの幸せがプレシアさんのところにあるなんて、
 そんなの嫌だった。
 だから私は、フェイトちゃんの幸せが何かってことから、
 ずっと目を背けてた。
 フェイトちゃんが傷つくかも知れないって、判っていて、
 それでも勝手に、フェイトちゃんの幸せは、
 みんなと一緒に生きることにあるだなんて、決め付けて。」

 失うことばかり怖くって、

「他の幸せを、消してしまおうって。
 私、」

 優しい彼女から、何もかも奪っていく。

「もう、フェイトちゃんの隣になんて。」

 言葉は涙に呑まれて、失われた。なのはは唇を閉ざし、声を噛み殺す。それでも突き
上げてくる嗚咽に背中を引き攣らせた。冷たい雫が腕を伝う。その透明な雫は、陽光に
輝き流れる。枝が揺れ、木の葉が音を鳴らした。
 暖かい手が、なのはの肩に触れた。
「ねえ、なのはさん。
 そうやって、自分のことばかり懺悔して、フェイトを一人にしないであげて。
 傍に居るだけで、フェイトはすごくうれしいと思うから。」
 リンディがなのはを見つめていた。
 なのはは顔を覆っていた手を離す。濡れた掌を頬を、風が冷やしていく。睫に付いた
雫が、真っ白い光を反射させ、景色が輝いて見えた。そこかしこに満ちる光がなのはを
包み込んでいる。
「私なんか、居ない方がいいんです。
 フェイトちゃんには、心配してくれるみんながいて、それで。」
 この光は、病室にいる彼女も包み込んでいる筈だ。そして彼女は、心配してくれる、
信じてくれる人達に囲まれて、微笑んでいる筈だ。そこに幸せがある。自分の傍にでは
ない。わがままを押付けただけの自分のところにはない。絶対に。
「なのはさん。」
 リンディが強くなのはを呼んだ。手がなのはの肩を掴む。なのははリンディを見上げ
た。
「それでもフェイトは、あなたのところに帰って来たのよ。
 プレシアを助ける方法を捨てて。」
 一際強い風に、木々がざわめいた。鳥が声を上げて空に飛び立つ。葉の影が煩く形を
変え、リンディの相貌を色づけた。その表情に、なのはは息を呑む。胸を貫くように、
真摯で強い眼差しは、真っ直ぐになのはに向けられていた。
「あなたが、本当にフェイトのことを好きなら、
 どんなに辛くても、フェイトの傍に居てくれないかしら。」

 彼女が居れば、どんな世界の、どんな景色だって煌いていた。
 砂漠の塵だって、星の輝きに変わり、吹き荒れる嵐だって、満場の喝采に聞えた。

「私は、」
 なのはの唇が動く。

 中庭は日差しの中で煌いている。
 もう掌に、暗闇など無かった。