11.忘れ去られたさしすせそ










 後頭部を踏みつけられて、額が床に叩き付けられた。
「管理局なんかが、邪魔しやがって。」
 踵で踏みつけられて、額が床でべろべろに裂けてく。
「・・・ぅ、あ、あっ。」
 喉が痛い。服ももうぼろぼろで、血だらけやった。今垂れてるのが鼻血なのか鼻水な
んかわかれへん。ほっぺたが濡れてるのは、血かな、それとも泣いてるんかな。
 足がどけられると、襟首が後ろから掴み上げられた。上半身が浮いて、首が締まる。
苦しい。シャツの襟と首の間に指を入れたいけど、うまく入らへん。爪が肌を引っ掻く
ばっかりやっていうんに、腰まで浮かされた。もう少し、頑張ってくれないと、私の足。
滑ってる場合とちゃうで、も、首吊りになってまう。ずる、っともっぺん滑ったところ
で、ようやく床に立ち上がれた。
 いつの間にか俯いとった顔を上げる。なんか視界の左側が妙に暗い。すっごい目蓋が
腫れてる重苦しい感じがする。目蓋がそうか、半開きになったままもうこれ以上開かれ
へんねや。口の中はぼろぼろで、ぞうきんみたいやし。歯とか折れてへんと思うけど、
なんかぐらぐらしてる気がする。あ、親指の爪割れとる。
「歩け。」
 おっさんの声が後ろからして、背中が強く押された。つんのめったところで腕を掴ま
れて、おっさんが私の腕を引いて歩き出す。なんなんやろう。何処に行けいうんかな。
もうええやんか、そろそろ気をすませてくれへんの。そんなに強く手を掴んだら痛いや
ん。
 おっさんは薄暗い階段を上がっていく。足がもつれそうなんに、おっさんはどんどん
先に進んで行ってしまう。足が上手く上がらへん、重りがついとるみたいに、鈍くて。
待っておっさん、速いよ、待っ
「っあ。」
 足が階段を滑った。手すりを掴もうと伸ばした手が空を掻いたと思った時には、階段
の上に転んでおっさんの手にぶら下がっておった。おっさんが私の腕を力任せに引く。
掴まれてるところが千切れそうに痛い。膝と脛が拍子に思いっきり階段の縁に当たった。
「い、・・・った・・。」
 ずっと引きずっとった私の手をおっさんが離した。体が階段に落ちる。段の角に額が
当たるのだけは、どうにか腕に力を込めて抑えた。ほんますれすれ、息を吐くだけで、
額が軽く当たる。っていうか、なんや私、すっごい息震えてんの。全力疾走のあとみた
いや。
 おっさんの靴音がした。数段先に行っとったおっさんが、私のところまで降りてくる。
 早く起き上がらんと、また顔面を蹴られる。力を込めると腕が震えた。見なくてもわ
かる腫れあがった顔から、埃塗れの階段に赤い雫がぼたぼたと幾つも落ちた。鼻から下
がべたべたで、鼻の頭には血の雫が垂れそうになって揺れてる。でも、上半身を起こせ
へん。足が立たなくって。上手く立たれへん。階段がよう見えへん、足は、どこにある
ん。
 体が重たい。立ち上がれないよ。おっさんの靴のつま先が、目の前の階段におった。
もうやめて、蹴らんといて。私は体を丸めて、身を固めた。
「―――っ。」
 おっさんの手が私の胸倉を掴んで。
 体が浮いた。
 うわ、腕一本で持ち上げられるなんて、って驚いてる場合やない。襟が喉に食い込ん
で喉が締め付けられて、息が出来ない。おっさんを窺うと気のない顔をしとった。おっ
さん、私ネコとちゃうで。そんなんされたら、息できへんっていうんに、おっさんは平
然と階段をそのまま上がりだす。顔がじんじんする。視界が黒く、狭くなってく。息が、


 突然感じたのは、浮遊感やった。
 次に、酷い衝撃が全身を打った。急に楽になった喉に、空気が一気に流れ込んでくる。
「げほ、ごほ―――っ。」
 空気が乾いた喉に突き刺さって、咳が溢れる。咳のたびに引き攣る体が軋んで、痛い。
私は横向きに倒れたまま、体を丸める。おっさんが私をぶん投げたんだか、腕を放した
だけなんかしらんけど、すっごい空気が欲しい。なのに、咳が止まらへん。
「げほ、」
 その中で、おっさんが歩いてくる足音が聞こえた。規則的な足音が近づいてくるのが
わかる。一歩ずつ、ゆっくりと近づいてくる。待って、私まだ、今起き上がるから、
「ぅ、ぐ―――。」
無理矢理咳を飲み込もうとしたら、息が変なところに詰まった。どうしようもなくって
咽てしまう。早く、立ち上がらないと。早く――――。
 おっさんの足音が消えた。
 まだ上手く目を開けなくて、真っ黒な中に、私の荒い息遣いだけが木霊する。震える
空気がわかる。おっさんが直ぐ傍に居る気配だけが、薄い空気を灼いて伝わってくる。
息が、震えた。
 そのとき、靴が私の頬に触れた。冷たい感触が、私の頬に食い込む。見るのが、怖い。
でも、見ないほうがもっと、怖くて。私は目を開けた。もう輪郭も曖昧になった視界の
中で色の塊になったおっさんが、私の目の前に立っていた。
 光沢のある黒い靴のつま先が頬をへこまして、軽く踏みつけてくる。靴の裏だけがや
けにはっきり見えて。
「や、・・めて、蹴らんとって・・・。」
 私の声は、哀願に歪んだ。
 笑う音が降って来る。楽しそうな笑い声。私は目を強く瞑って歯を食い縛ると、目蓋
の縁から、涙が押し出されて顔を真横に伝った。
 おっさんの分厚い手が、私の髪を掴んだ。引っ張られて、顔を上げさせられる。引き
ずられてそのまま膝立ちの姿勢にさせられると、血と涙に塗れた顔に、空気と光が当た
った。目蓋を光が突き抜けてきて、寝起きみたいに眩しい。ぐいっと頭を動かされて、
顎が少し上を向けられる。目を開けろっていうことやろうか。私は半開きにしかならな
い左目と、右目を押し開ける。

 そこには、数百人が並んでおった。

 怯えきった顔で、床に座らせられて。憔悴したたくさんの顔が、瞳が私を、おっさん
を見ていた。なに、これ・・・。デスクが全部広い部屋の奥に、乱雑に山にされている。
ひしゃげて、べっこべこになって。床が、抉れてる。私の居るところから放射状に。目
で辿ると、5、6本ある抉れた痕は全部、デスクの山に繋がっておった。
 こん、ていう小さな音がした。目を向けると、一人のお姉さんが私を涙目で見つめて
いるのが見つかった。お姉さんの唇が音もなく動く。
『管理局だ。』
 この人たちは、全員事件の人質や。
「政府の人間があの爆破に対して寄越したのは、
 こんなガキ一人だ!」
 おっさんが人質に向かって怒鳴りつけた。響く声が広い部屋の隅々に染み込んで、失
望と諦めが、全員の顔に漣のように広がっていく。泣き出しそうな顔に、悔しそうな顔
に。助けて欲しかったって目に。
 ここは、80年に3回くらいしかないような大事件の現場や。発生から26時間。未
だ膠着状態を保つ、立てこもり事件の最中。このビルには大量の爆薬が仕掛けられてい
て、数百人に上る人質がいる。
 それがどういうことか、私は分かってなかった。
「だが、今に彼らはこんな対応をしたことを後悔するだろう!
 すぐにでも我々の要求を飲むしかないことに、
 愚鈍な彼らも気づき始めた!」
 手を握り締め、顔を逸らしたかった。視線に耐えることなんて出来なかった。でも、
何処もまともに動かない。自分の体なのに。そんな目で見ないで。私は人質を助けに来
たんじゃなければ、ここに飛び込んでくるとき考えてもおらんかった。それどころか私
は。
 目の前に、光が溢れた。魔力光は一瞬で弾け、バインドで手が後ろに一括りにされた。
おっさんが掴み上げていた私の髪を放し、後頭部をひっぱたく。
「っあ。」
 咄嗟につく手がなくって、床に頭がぶつかる。顔の傍に、血が散った。
「我々が正義だ!」
 脇腹を蹴り上げられて、気持ち悪さが込み上げる。でも、吐こうたってもう、吐くも
んなんてない。おっさんが身を翻して部屋を出て行く。人質さんらと一緒に、私を取り
残して。
 沈黙が落ちた。誰も、なんも言わへん。息遣いだけが淀んだまま満ちる。
 ちょっと顔を上げると、さっきのお姉さんと目が合った。お姉さんは涙目で、でも直
ぐに顔を逸らされた。それは、そうやよね。
 私、なにやってるんやろう。
 涙がこみ上げて来た。目頭が熱くて、視界が滲む。でも、泣くわけにはいかへん。泣
く資格なんてない。私は、ただの足手まといや。無駄に状況を混乱させて、人質を一人
増やして。
 わたしは・・・