12.豆腐は足が早いんです









 空調の音がする。
 床につけた耳から、くぐもったいろんな音が聞こえる。人が身じろぎする音すら、や
たら大きく響く。でも、一番大きく聞こえるのは、自分の息遣いと、心臓の音。まだ荒
れてて、震えてる息の音が、頭の中に響いている。心臓がずっと、早鐘みたいになって
いて。
 まるで、世の中から切り離されたみたい。時間が、止まっているみたい。
 ただ血だけは固まってきていて、額から出て顔にこびり付いた血で肌が突っ張る。鼻
の下から顎にかけては粘ついてべたべたして、錆びた鉄みたいな臭いと味が口の中から
鼻の奥までを塗らしてて、吐き気がする。
 今、何時なんやろう。あれから、どのくらいの時間が経ったんやろうか。腫れて閉じ
てしまいそうな目蓋を持ち上げる。でも、目がぼやけていて、すりガラスの向こう側を
見ようとしとるみたいやった。だから、何度も瞬きを繰り返して、目を凝らす。
 一番最初に見えたのは、タイルカーペットに染み付いた血の黒やった。首を巡らせれ
ると関節が変な音を立てたけど。フロアの奥には押し込められた様に座っているたくさ
んの人がやっぱりいて、さらにその奥にある、デスクや事務用品の山に埋もれた窓は何
枚かが割れていた。天井についている蛍光灯も半分以上が割れている。多分、夜になっ
たら随分薄暗くなるんやろう。
 ビル全体には、丸ごと吹き飛ばせるくらいの大量の爆薬。外との通信手段はなく、い
つ終わるともなく閉じ込められ続ける。しかも、誰かが助けに来てくれるかどうかもわ
からない。同じ時間が、ずっと続いていくみたいな錯覚。終わりのない今がずっと、続
いていく。
 本当に時間の感覚が曖昧や。今、外がどうなっているかも全く判らない。解決への作
戦が動いているのか、それとも要求を飲む形で動いているのか。政府はどれだけ、自分
たちを助けようとしてくれているのか。犯人たちは、要求が通ったならば、確実に自分
たちを無事に帰してくれるのか。要求がうまく通らないときには、いったい自分たちを
どうするつもりなのか。
 誰の動向も、全く判らないまま。
 勝手に人に命を握られて。
 息を強く吐き出すと、まだ乾ききっていなかった血が少し散った。唇も腫れてる。見
たくもないけど、顔はぼこぼこやろう。服が擦れるだけで痛い。でも、私は体を倒して、
うつ伏せになった。顎が固い床に当たる。バインドで後ろ手に縛られたままじゃ、起き
上がるのだって苦労する。だけど、いつまでも寝転がっているわけには、行かない。重
たいけど、膝を体の下に入れて、
「な、なあ、あんた・・・。」
 不意に、男の人の声がした。首だけで振り仰ぐと、最前列に座らせられてる男の人が
私を見ていた。
「外は、どうなってるんだ。
 さっきの爆発はなんだったんだ?」
 おにいさんは言葉を震えさせながら、引き攣った顔で言う。やつれた頬をしていて、
目の下には隈が見えた。憔悴していて、もう限界が見えてきている表情をしている。
「一体、どうなってるんだ?
 俺たちはこれから、どうなるんだよ!?」
 おにいさんは声をひっくり返らせて、ヒステリックに叫んだ。
 それでも、この人は26時間もの間、ずっと、耐え抜いてきた人だ。この人だけじゃ
ない、他の人たちも、自棄にならずずっとここで耐えてきた。何も分からない状況の中、
必ず助けてもらえるだろうと、みんなのことを信じて。フェイトちゃん達のことを信じ
て。
 私は力を込めて体を起こした。床に這い蹲っていた景色が変わって、視界が開ける。
人質さんみんなの顔が見える。私は、はっきりと通る声を、お腹の底から発した。
「先ほどの爆発は、犯人たちによる政府への威嚇攻撃です。
 60階のフロアを爆破させましたが、もう火は沈静されているので、
 安心してください。」
 さっきの爆発は交渉役で来ていた数名の人間を吹き飛ばした、交渉決裂の合図だった。
でもそれは、この人たちに今、聞かせるべき言葉ではない。
 私は上手く動かない顔で、でも精一杯の笑みを人質さん全員に向けて浮かべてみせる。
「現在、管理局から魔導師や捜査官が派遣されてきています。
 私はへまをやってこんなことになってしまいましたが、皆優秀な人間ばかりです。」
 なあ、フェイトちゃん、今なら分かるよ。
 私は多分、リインの言う通り嫉妬してたんや。
 フェイトちゃんが私のことを見てくれてないような気がしてそれが不満で。
 呼んだらいつでも応えて欲しかった。座るならいつも隣にして欲しかった。話しかけ
るならいつも一番は私にして欲しかった。私のことをもっと考えて、もっと気にして欲
しかった。私は自分で思ってたよりもずっと子供で、それが悔しい。すごく。
 私は、フェイトちゃんの特別が良かった。
 特別じゃないと嫌やった。私のこと一番だって、いつでも判らせてくれなくちゃいや
やった。あの子に、フェイトちゃんを取られたみたいで、嫌でしかたなくって。だから、
どんな形だって、フェイトちゃんにそれをぶつけられたらいいって、ぶつけてやればい
いって、そう思って。
 ほんま、バカやって、思うよ。
「全員が、みなさんを助けようと、全力で行動しています。
 ですから、」
 唇を持ち上げて、私は渾身の力で微笑む。うまく笑えているといい。こんなぼこぼこ
の顔じゃ、表情が変わったのすら分かるのか怪しいかなって思うけど。お兄さんは私を
じっと見つめていた。お兄さんだけやない、周りにいる、他の人たちも私を見てる。言
葉を聞いている。
 フェイトちゃんは、みんなを助けたいんやよね。
 人のことをとても大切にしてるフェイトちゃんは、口では言わないけど、世の中の人
みんなのこと、大切にしてるんやって、分かるよ。人を助けたいから、フェイトちゃん
は執務官やねんから。
 フェイトちゃんは、みんなのことが好きだから、フェイトちゃんなんやから。
「管理局を信じて、待っていてください。」

 私は、そんなフェイトちゃんが好きなんやから。
 だからね、フェイトちゃん。

「みなさんのことを、必ず、助けますから。」

 フェイトちゃんが助けたい人を、私も守るよ。



 そのときやった。
 フロアの扉を蹴破り、三人のおっさん達が一斉にフロアに入ってきた。おっさん達は
そのまま無言で私を取り囲むように立ちはだかる。魔導師のおっさんが、私の前に立つ。
見下ろされるとその顔に自然と影が落ちた。
 突然、一体何やっていうんやろう。交渉が新しい段階にでも入ったのを、伝えにでも
来た、っていうわけじゃないんやろうか。人質さん達を無視して、私を取り囲むなんて。
周りに立たれると、まるで崖の下から見上げているみたいや。おっさんの目が細められ
て、私を映した。
 おっさんの目は、強く底光りしていた。手の中にあるデバイスが音を立てて変形し、
そのヘッドが私の顎を上げた。固く冷たい金属の感触が、喉元に突き刺さる。
「八神はやて、」
 おっさんは、私を食い入るように見つめたまま、瞬き一つしなかった。この際、これ
以上殴られようが関係あるか、って開き直れそうな感じやけど。このおっさんの目は、
今までと違う。いやな気がする。
 影の落ちた真っ黒い顔の中、おっさんの唇が動いた。
「二等陸佐。」

 ばれた。
 どうして、こんな急にばれたんや。管理局の情報が漏れるなんてそんなこと、あるわ
け。いや違う、だめや。バカ正直に言葉を詰まらせるなこのあほ。笑い飛ばせ、全力で、
うそだって笑い飛ばすんや!
「な、なに言っとるんですか・・・?
 こんな、私まだガキですよ、それが、二等陸佐やなんて、
 そんなんあるわけないやないですか。」
 笑顔を形作ろうとした唇の端が痙攣する。そんなわかるわけないんや、階級証なんて
つけてないし、IDカードとか机の上に忘れてきた。完璧やもん、わかるわけないよ、
絶対おっさん達は当てずっぽうかそれか、変な妄想に駆り立てられてるだけや絶対そう
や。ごまかしきればいい、ここで笑い飛ばしてなかったことにしてやるんや。そうすれ
ば、絶対、大丈夫――――
 おっさんが無言のまま手を空に翳した。おっさんの脇に空間モニタが展開され、その
中に画が灯りだす。結像の遅さと、ノイズがたまに混じる不安定な画面は多分、通信規
制の妨害を潜り抜けて受信しているからなんやろう。ぼやけた画面は時間が経つにつれ、
次第にはっきりとこのビルを外から見た画を映し出す。
 アナウンサーらしい女の人が、ビルを背景にしゃべる。
『先程の爆発に巻き込まれたと見られる、
 犯人達との交渉に向かった政府関係者と数名の管理局員は未だ戻ってきていません。
 犯人達とのこう着状態が依然続いています。』
 画面が切り替わり、どっかのスタジオになる。席に並んだおっさん達やお姉さん達が、
深刻そうな顔をしながら、現場にいるアナウンサーに言葉を掛ける。
『爆発の際に、ビルに突入した局員の方も戻ってきていないのでしょうか。』
 アナウンサーは音が遠いのか、イヤホンを片手で抑えながら、ちょっと遅れて返事を
する。
『はい、まだ出てきていないようです。』
 そうですか、とスタジオのおっさんが頷いた。
 画面がまた切り替わる。それは、中継映像やなくって、前に撮った映像やった。
 まだ爆発の起こっていないビル。それを見上げて警備の人たちと押し問答する人たち。
画面中央には、太り気味な兄ちゃんと下がるように声を掛けるこの世界の警察さんみた
いな人。
 その兄ちゃんの脇をすり抜けて、一人の背の低い女の人が規制線から飛び出した。
 茶色が基調の時空管理局地上部隊の制服に身を包んだその人は、飛び出すと早々、警
察さんに腕を掴まれた。
『君!
 ここから先は一般の人は入っちゃ駄目だ!』
 女の人は腕を掴まれてつんのめり、弾かれたように警察さんを振り返る。そして、自
分の制服の胸に手を当て、厳しい眼差しで怒鳴り声を張り上げる。
『私は、時空管理局地上部隊二等陸佐八神はやてです!
 本局辞令により出動してきました、手を離してください!』

 おっさんの蹴りが腹部に叩き込まれた。
「ぐ、っ!」
 爪先が鳩尾にめり込み、胃が縮み上がる。喉の奥から液体が競りあがってきて、食い
しばった歯の隙間から零れた。それがぼたぼた音を立てて制服に落ちる。
「どういうことか、説明してもらおうか。」
 息が顔に掛かる。目を開けると、淀んだ瞳が私を捉えていた。
「・・・あ、わ、私は・・・。」
 涙で滲んだ視界。おっさんは顔を歪めると、足を振り上げた。
「―――ぅ、あ・・ぁぁ・・。」
 お腹を力いっぱい踏み抜かれる。息が詰まる、痛い、い、っ・・苦しっ・・。
「一等陸士だとか適当なこと言いやがって!
 陸佐殿がなんのつもりがあって中に入り込みやがった!!」
 ふっとお腹にかかっていた圧力が消えたかと思ったら、乱暴に髪の毛を掴み上げられ
た。顔が引っ張られて、変に引き攣る。
「わ、たしは、そんな、なんのつもりも――――。」
 おっさんが手を離した。

 意識が真っ白に弾けた。


 頭から、なまあたたかいのが顔まで流れてくる。いつの間に倒れやろう、私、こんな
また、床に寝っころがって。
 おっさんのデバイスのヘッドに血が付いてる。
 ああわたし、あれで殴られたんかな。
「さっさと言わないか!」
 おっさんが私を怒鳴りつける。私は絡みそうになる声を解いて、言葉を。
「だ、だからわたしは―――っ。」
 おっさんが私を蹴り付けた。そんでもって、デバイスで殴りつける。顔面から血が飛
んで、体中からいびつな音がべきべき響く。なんども、なんども。
 わたし、ほんまになんのつもりもなかったんやよ、ただフェイトちゃんに何かあった
かもって思ってそれで飛び込んできただけで、階級とか関係ないのに、なんも作戦とか
なかったのに、どうして信じてくれないの!?
「ああああっ!!」
 痛い、痛い痛い痛い、こんなのいやだよ、怖いよ! もういやや! もういややよ!

 フェイトちゃん、何処に居るの。
 どうして今すぐここに来てくれないの。
 どうして傍にずっと居てくれないの。

 どうして、
 どうして―――――!

 おっさんが腕を振り上げる、他の二人は一歩引いて眺めてて、もっと外では人質さん
が顔を背けたりこっち向いたりしてて私は目をぎゅっと硬く瞑って、目蓋の裏に、金色
の光が見えればいいのに、今すぐ飛び込んできてくれればいいのに、どうして!
「早く助けてよ、フェイトちゃん!!」

 デバイスが私の顔面を殴り飛ばした。









『はい、大丈夫です。』

 つけっ放しのモニタから、音声が漏れていた。
『交渉に向かった政府の人も、管理局員も皆無事です。
 爆発は犯人たちが氷結魔法で自ら鎮火したようですが、
 ビル自体がもろくなってしまい、より早い解決が必要となりました。』
 澄んだ声が響いた。
 柔らかくて、やさしくて、それでもすっと芯の通った声。私が、ずっと聞きたかった。
 声。
 フェイトちゃんの声や。
 モニタは、どっちやったっけ。妙に暗くて、よう見えへんけど、勘で頭を動かす。音
のする方を向けば、ええんやろ、たぶん。
『人質はみな無事なんですか?』
『爆発現場に突入された、八神二佐はどうされたんですか?』
 たくさんの記者さんとカメラとに囲まれて、モニタの中、バリアジャケットに身を包
んでフェイトちゃんが立っていた。怪我した様子もなくって、朝見た真っ青な顔色でも
ない。仕事に向かっている時にだけ見せる、精悍な面立ちをして、記者に向かってしゃ
べってる。
 そら、そうやよね。
 みんなのことを助けたいって、そう思って執務官の仕事に就いた人が、とんでもなく
体調悪いままで、そんな重大事件引き受けるわけ、ないよね。元気になってから、行く
に決まっとるよね。
 ほんま、そんなん当たり前やよね。ほんま、に。
 フェイトちゃんが穏やかな声音で、安心させるように言葉を紡ぐ。
『人質が傷つけられたということは現状在りません。
 もちろん、死者も現在確認されていません。』

 私、なにやってるんやろう。

「話せるうちに、話しておけば良かったんだ。」
 おっさんのデバイスが起動を始め、動き出した魔力が独特の金属音にも似た緊張音を
奏でる。青い光が環状魔方陣を描き、展開する。魔力の波長は殺傷設定。砲撃がチャー
ジされていく。
 フェイトちゃんが画面の中で微笑む。 
『八神陸佐は優秀な指揮官であり同時に魔導師です。
 だから何も、心配することはありません。』

 ねえ、どうして、好きっていうそれだけで、おられへんかったんやろうね。
 フェイトちゃんは私のことを抱きしめて、居てくれるだけでうれしいって、言ってく
れたのにね。私はそれだけじゃ満足できなかった。もっと、もっと、って。

 砲撃魔法のチャージが終わる。

 フェイトちゃんが自信に満ちた笑顔を、カメラに向けた。 
『それに、』
 私の、大好きな笑顔。


 砲撃魔法のトリガーが引かれた。



 ぶつん、という音が聞こえた気がした。