5.トイレで弁当でも食べたら?










 エンターキーを叩いた。
 途端、目の前に展開される小さなポップウインドウ。
<< ERROR. >>
 この間海と陸の合同で行った任務の報告書制作みたいなことをするために、私は先週
辺りから本局に勤めているわけなんやけども、これがなかなか難儀な代物でどうにもこ
うにも進まない。今日なんかは、いつもの半分も進んでへんような気がする。押収物や
らなんやらについて、今、表計算ソフトに頑張って貰ってるんやけれど、これがまあエ
ラーがたくさん出るんやよね。一度に計算するセルの数も相当やし、エラーの出所を探
すのも一苦労。
 画面をスクロールして、問題になってそうな箇所を探す。計算式は間違ってないと思
うんやけど、出てきたグラフも妙に変な形しとるんやよね。こう、もうちょっとガウス
関数っぽく広がって欲しい、ような。こんな剣山みたいんやなくて、ピクニック出来そ
うな丘になってくれなあかんねん。
 同じような数字が列挙されていて、段々目が疲れてくる。くらくらするっていうか。
とりあえず、もう一回エンターキーを押して見ると、再度、ポップアップウインドウが
開く。うーん、何処が間違ってるのか、もっとよく教えてもらえへんのかなぁ。ERROR
の後、なんか細かい字で警告文があるんやけど、正直この疲れ目には読みにくい。ミッ
ドチルダの文字ってアルファベットっぽいけど、妙にうねうねしてるから、たまにやた
らと厄介に感じられるんやよね。ミッドの人は不便に感じないんやろうか、感じてない
んやろうなあ、長いこと変えておらんのやし。
 警告文をかいつまんで読んで、それっぽいところを探す。すぐに見つかって、私はそ
れを直してやって、グラフを書き直す。エンターキーを叩くと、あら不思議。
<< ERROR. >>
 グラフが消えました。
 いやいや、何で消えるんかな。なんやろ君、反抗期かなんか?
 近頃の若いもんの考えは分かりませんね。というわけで、エラーのウインドウを消そ
うと思って、エンターキーを押す。そうすると、パッと一瞬で消えて。
<< ERROR. >>
 再びのご登場です。
 ふふ、サービス精神旺盛やね。なに、私のこと気に入ったん? でも私、四角くて灰
色くてそっけないポップアップウインドウはタイプやねいんやよね。ごめんなぁ。心の
中で手を合わせながら、もう一度エンターキーを押す。
<< ERROR. >>
 あらあら、もう一回ですか。しつこい男は嫌われるってよう言うで。だけど、それく
らい真剣って言うことなら、考えんでもないけどな。とりあえず今日のところはお引取
りなさってくださいよ。
<< ERROR. >>
 分かったって言うたやんか、もう。なんか間違ってるのはわかったから、それ直した
いねん。ちょおどいてくれへんかなあ。私、遊んでるんちゃうねんで。かまったげたい
けど、また今度に
<< ERROR. >>
して、
<< ERROR. >>
くれへん、
<< ERROR. >>
かな?
<< ERROR. >>

 人差し指を一つ伸ばして、エンターキーの上に垂直に立てた。肘も垂直にしたって、
臨戦態勢ばっちこい。八神はやて二等陸佐、今、伝家の宝刀抜きさってやるわ。息を詰
め、手に力を入れる。
 エンターキーの早押し大会なら、負けへんねんで。気合一閃、私が腕を大きく振り被
った、そのとき。
「はやてちゃん、何いらいらしてるですか?」
 響き渡ったその声が、周囲の熱を一気に奪った。空気が瞬時に凍りつき、窒素も酸素
も二酸化炭素だろうがヘリウムだろうがあらゆる希ガスすら液化して私の背中を伝い落
ちる。首の関節が凍り付いて、上手く動かない。軋みながらいびつに捩れる首を、私は
気力で動かして、声のした方を振り返る。
 いまいち片付かない机の上。積まれた書類の上に、腕を組んで仁王立ちをする影が一
つ。流れる銀色の髪が風も無いのに翻る。絶対零度の青い瞳に映し出されて凍りつくの
は、恐れ戦き引き攣った笑顔を浮かべる私だ。
 リインが凄く怒ってる。
 私は背中に冷や汗が伝うのを感じた。掌にもいらない汗を掻く。心臓がまさに早鐘で。
ここを上手く乗り越えないと、私の明日が来ないという確信が胸部を刺し貫いている。
臓腑を突き抜けるリインの視線に神経をすり減らしながら、私は慎重に息を吸う。
 窮地を突破する第一歩は、現状の正確な理解や。リインがなんでこんな怒っているの
か、正直ようわからへん。やから、偵察をする必要がある。
「いや、いらいらなんて、しとらへんよ。」
 私は穏やかにそう答え、リインの様子を伺った。これで上手いこといつもの調子でご
まかせたら、リインが怒っていることに気づかない振りで、話題を変えてうやむやにし
てしまおう。そう作戦を練る私の前で。
「はあ。」
 リインが大きくため息を吐いた。呆れたため息なんて、生易しいものやない。軽蔑が
溢れ出た音が侮蔑的に私に吐き捨てられた。見開かれ気味な目は、まるで可哀想な生き
物を見下ろしているみたいな、そんな眼差しだ。リインが私に、そんな目を向けること
があるなんて。
「いらいらしてないって、本気で言ってるんですか?」
 低い声が私たちの間に響く。
 居たたまれなくって、私は椅子の背もたれにしがみついた。距離を取ろうとする私に、
リインは机を蹴って飛び上がり、鼻先に立ちはだかった。近さと逆光のせいで、リイン
がえらい大きく感じられる。まるで絶壁みたいに、聳え立つ。
 絶体絶命。そんな文字が頭の中に太い杭で打ち込まれる。私はそれでも、何とか主張
を繰り返す。
「そうやよ。
 いらいらなんて、してへんって。」
 さっきと同じような言葉で、私が弁明をした。
 その瞬間。

「してます!!」

 爆音が私を吹っ飛ばした。激突してきた激昂に、面食らった私は思わず耳を両手で塞
いで、身を竦ませた。怒りに両腕を戦慄かせているリインは私の右手の方に飛んできて、
渾身の力で耳を覆う私の中指を掴んで引き剥がしに掛かった。
「うひゃあ、痛い痛い痛い!
 リイン勘弁して!」
 指がちぎれる、と思って悲鳴を上げる私に、リインは全く聞く耳を持ってくれないど
ころか、さっきよりもますます大きな声を出して怒鳴りつける。怒号が鼓膜を突き破る。
「いいですか、はやてちゃんは今朝会うなり、
 リインにおはようと言うより早くため息を吐いて! 椅子に座って!
 お仕事を始めたかと思えばずううううーと!
 ずうううううーーっとですよ!? 同じエラーばっかり出して!
 いちいちいちいち、エンターキーばっかり何度も何度も叩いてばっかりです!
 これのどこがいらいらしてないですか!?」
 甲高い声が頭に響く。私は涙目になりながら、悲鳴混じりの声を上げた。
「どこってそんな、元からいらいらなんてしてへんって!」
 リインが最大音量で怒鳴った。
「してます!!」
 鼓膜にリインの声が、鋭く突き立った。
 ああああ、み、耳が! 机の上に丸くなって、亀の姿勢で防御をするけど、リインの
追及の手は全く止まない。どうすればええの。えええ、私そんないらいらしてたかな。
頭を捻っては見るけれど、まったく思い出されへん。私、ぼけたんかな。そら、表計算
ソフトさんが動かないから、エンターキーとか押しとったけど。
 悩む私の耳に向かって、リインが思いっきり深く息を吸い込んで、吐き出した。
「そんなに気になるなら、
 さっさとフェイトさんに会いに行って来いなのです!!」

 私は耳を押さえていた手を離して、右手の先にくっついていたリインを振り返った。
リインが私の指を手放して、目の前に浮き上がる。両手を腰に当てて、肩を怒らせて見
下ろしてくるリインは未だにご立腹な様子だったけれど。私は自分の頭に浮かんだ疑問
を口にする。
「なんで今、フェイトちゃんの名前が出てくるん?」
 私はリインに今日、フェイトちゃんの話なんてした覚えはない。今日は朝から一度も
連絡すらしていないし、しようなんても思っていない。
 リインはきょとんとした表情に一度顔を変えた。それから私を見、ひねた笑みに唇を
尖らせた。
「そんなのはやてちゃんの行動を見てれば分かるです。
 昨日お昼のとき、フェイトちゃんとごはん食べてくるからなー、
 なんて言って、
 技術部に行かなくちゃいけなかったリインをほったらかしで行ったのに、
 帰ってきたはやてちゃん、すごい怖い顔でモニター睨んでたですよ。
 しかも、突然フェイトさんの家に泊まってくるって言い出しちゃいますし。
 いつも通りご機嫌で帰ってくるのかな、って思ったら、
 朝っぱらからため息の上に、フェイトさんの話まったくしないです。
 これで気づかないわけないじゃないですか。」
 気づかなかったらどうかしてます、と言い捨てると、リインはそっぽを向いてしまっ
た。
 私は言われたことを頭の中で反芻する。
 まるっきり、それでは私がフェイトちゃんに振り回されてる可哀想な子みたいじゃな
いか。誰がそんなに、好き好んであんな人のことを一日中考えてるわけがある。私はフ
ェイトちゃんの話だってしたくない所か、名前だって聞きたくないのに。
「どうせ、はやてちゃんが新人さんにでもヤキモチ焼いただけなんでしょうけど。」
 私は椅子を蹴倒して立ち上がり、両腕をデスクの上に思いっきり叩き付けた。そして、
驚きに目を丸くするリインに向かって、刻み付けるようにはっきりと言い放つ。
「ヤキモチなんて焼いてません。」
 怒りが全身から滲み出るのを私はまさに感じていた。殺気を放つというのは、きっと
こんな感覚に違いない。顔面を引き攣らせて睨みつけると、リインが一歩退きかけ、そ
れでも一つ言い返す。
「ほら、ヤキモチ焼いてるじゃないですか。」
 小さな呟き。それに私は、思いっきり怒鳴り返した。
「ヤキモチなんて焼いておらへん!!
 あんなドあほの為に、誰がヤキモチなんか焼くかっ!!」
 言い切って、肩で息をする私に、リインの恨みがましい目が向けられる。
「はやてちゃんは、図星指されて怒ってるだけです。」

 堪忍袋の緒が、ぷつっと切れた。

 私はぱっと身を起こすと、椅子を机の下に吹っ飛ばすように入れ、踵を返す。纏わり
付く古びた空調の出す埃くさい空気を腕で引き千切り、ドアへと向かう。
「はやてちゃん、何処行くですか!」
 追いすがってくるリインの声に、私は振り返りもせずに叩き付けた。
「トイレ!!」
 叩き割るよう自動ドアのボタンを押すと、私は通路へと飛び出した。