6.蜂蜜レモンと鍋










 誰が! 誰が誰が誰が! 図星刺されて怒ってるや! ふざけんのも大概にしいや!
 肩で風を切って通路を突き進む。すれ違う人が振り返るけれど、纏わり付く視線すら
断ち切るように進む。脇目も振らない。前しか見ない。誰のことも見ない。長い通路の
先ばかりを睨む。ひたすらに。
 フェイト・テスタロッサ・ハラオウン。その名前と顔が頭の中で明滅を繰り返す。金
色の長い髪に、澄んだ赤い瞳、白い肌に映える黒い執務官服が似合う、まごうことなき
美人。しかも性格も穏やかで優しくって気配りが利いて人当たりもよくって文句の付け
ようもありません。ええありませんとも。仲の良い友人の私ですら、フェイト女史が怒
っているところ見たことがありませんものね。任務の時とか戦闘中は相当熱くなってる
こともあるみたいやけど。
 そうやよ、私ってただのフェイトちゃんの仲の良い友人やねん。なんの縁かわかれへ
んけどなんとなく10年間たまたま付き合うことになった腐れ縁なだけやねん。それ以
上でもそれ以下でもあれへんねや。そんな人に対して、どうして私がヤキモチなんて焼
くのよ。おかしいやん。フェイト執務官は持ち前の面倒見の良さと周りの人を大切にす
るっていう人格の良さから、新人さんの教育で忙しい合間を縫って、慣れない本局での
仕事に悪戦苦闘する可哀想な仲の良い10年来のお友達にわざわざお昼付き合ってくれ
ただけなんやから。
 私はぜんっぜん、何にもあんな人のこと気にしてなんておらへんねや。それどころか、
今度会ったら頭下げて謝ってやりたいわ。今までいろいろ迷惑掛けてすみませんでした
ねハラオウンさん。私、何かと勘違いしていたみたいで、わがままとか言ってしまって
すみませんでした、これからは同じ管理局に勤めるもの同士、日々切磋琢磨して頑張っ
ていきましょう、それではさようなら! で決まりやんか。
 あんな奴、弁当箱の隅っこに溜まった落ちない頑固な汚れレベルやねん。いっつもぼ
けっとしてて、肝心なところで気い抜けとるし。致命的なまでに鈍感やし。あほって言
葉が服着て歩いてるようなもんやないの。
 エレベーターの前まで来ると、人が並んでいた。表示を見上げると、あのせまっくる
しい箱はどうやら10階以上違うところをうろうろしているらしい。そんな何分も待っ
て、むさくるしい箱に乗りたくは無い。同乗予定の人はおっさん半分、お姉さんたちそ
の半分、おじいさんが残りや。御免被る。
 私はエレベーターを素通りすると、角を曲がって階段へと差し掛かった。あまり使う
人の居ない階段は、清潔だけれど薄暗い。私はわざと踵を踏み鳴らして階段を下りてい
く。
 トイレに行くんや。あんなところ、トイレ呼ばわりで十分やねん。同じ部屋で仕事し
てるシャーリー達には悪いけれど、あんな奴が居るところなんてトイレで十分や。そも
そも、あの人出勤したはいいけど使い物になっとんのか怪しい。今朝の顔、真っ白とい
うか土気色というか。デスクに座って、いいとこ置物の役が演じられるかどうかやない
の。あの状態で出勤するなんてホントあほ。いや、もう馬鹿や馬鹿。大馬鹿やろ。
 4階下まで降りると、フロアの雰囲気が少し変わる。ここからは完全に海の管轄。さ
っきまで居た、他の部署から出向してきた人が集まるせいで何処と無く雑然としていた
様子は消えて、落ち着いた統一感のようなものがフロア全体を支配している。通路を歩
いているのは皆、一様に次元航行部隊のネイビーブルーの制服を着こなし、颯爽とした
立ち居振る舞いをする。海の人は、次元間を航行するという管理局内でも最も広い活動
範囲と、管理局創設の目的、すなわち質量兵器の規制とロストロギアの管理をまさに実
行しているのは自分たちだと、すっごいプライドを持っとる。地上部隊が結構ミッドチ
ルダ出身の人間が集まっているのに対し、次元航行部隊は主に他次元世界から来た力の
ある人が多いっていうのもあるけど。
 やから、私一人、地上部隊の制服で歩き回るのは、正直嫌に緊張する。地上部隊が次
元航行部隊に劣るなんてこれっぽっちも思っておらん。管理局は陸海空あって初めてま
ともに機能する組織や。
 やけど、多勢に無勢。しかもすれ違う人すれ違う人、背の高いこと高いこと。人の頭
のてっぺん見下ろすなや。噛み付いてやりたいところやけれど、そうもいかへん。スト
レスばかりが体の中にぐるぐる溜まって渦を巻く。
 こんな嫌な気分味わわないとあかんのも、全部、フェイトちゃんのせいや。
 私はそのドアの前に立ちはだかると、ネームプレートを睨み付けた。そこには、この
執務官室を使う人の名前が明確に表示されている。
 フェイト・T・ハラオウン。
 このトイレの住人や。
 私は腕を振り上げ、ドアの脇にある開閉用のパネルに手を伸ばす。
「別に、あのドあほのところに来たんとちゃうねん。
 他のトイレが混んでたから、たまたま来ただけやねん。」
 一人、口に出して事実を確認した。誤解されたら困る。私は別に、あんな奴のこと気
になんてしていない。まったく、これっぽっちも、それこそ小指の爪の垢程も気にして
いない。あんなあほ面を一日に二回も見るなんてこっちから願い下げや。
 ただ私は、シャーリーがあのあほの人の為に、無駄な苦労を強いられていないかどう
か、元上司として気になるだけやねん。同じ部屋に毎日突っ込まれてんねんで、ストレ
ス溜まるやろ。人のポテトの塩気まで気にしてくる人やねんで。まあ、私みたいな置物
には別みたいやけどね。
「これは、たまたま。
 たまたま通り掛かっただけや。」
 別に、フェイトちゃんが朝調子悪かったから、気にしてとかやない。ただの食べすぎ
やって昨日言ってたんを、別に気にしてやる必要なんてないやん。食べ過ぎなんて、ほ
っとけばすぐに元気になるもん。夜中から朝までずっと、フローリングに寒い中一人で
蹲ってたとか、笑顔もろくに浮かべられへんくらいに調子悪かったのとか、唇が真っ青
で、熱出して吐く時と同じ表情してたのとか、そんなん、別に。私のせいじゃない。食
べ過ぎちゃうフェイトちゃんがあかんのや。
 お腹壊したのなんて、不味いなら不味いって言わないフェイトちゃんが悪い。食べら
れないなら食べられないってはっきり言わないフェイトちゃんがいけないんや。私のせ
いじゃない。私のせいじゃ、ない。
 フェイトちゃんは、私が食べてって言うたから、食べてくれたんやけど。
 開閉パネルに向かって振り上げられていた手が壁を伝ってずり落ちて来る。冷たい壁
を引っ掻いて、私のところに。フェイトちゃんはあほでドあほでとんでもない鈍感で、
どうしようもない過保護やけど、口にした言葉は裏切らない。いつも。
 フェイトちゃん、今朝、本当に調子が悪そうやった。あんなに苦しそうなフェイトち
ゃんを私、今まで見たことない。
「よし。」
 いつの間にか俯けられて、床へと向いていた顔を上げると、私は開閉パネルに手を伸
ばした。フェイトちゃんはどんなにお腹が痛くって苦しそうでも、新人さんの為に仕事
を休んだりせず頑張って出勤したんや。へこたれてるフェイトちゃんに、私が一発気合
入れたるわ。
 ・・・新人さん。
 フェイトちゃんが私のことなんかほったらかしで構っている、よう出来た気の利くら
しい新人さん、か。いつも次にやることにまで気を回しているような、しっかりした子
やったら、朝から調子悪そうでそれでもなんとか仕事をするフェイトちゃんに、何して
あげんねやろうなあ。早退したとか言う話も聞かへんし、今もちゃんと仕事してるんや
ろ。
 朝っぱらから真っ青な顔して出勤してきた憧れの執務官であるフェイトさんに、当然
どうにか元気になってもらいたいとか思うやろうなあ。なんか気分よくなるようなあっ
たかい飲み物出してあげたりとかして? フェイトちゃん蜂蜜レモンみたいな奴好きや
し。マグカップ両手で掴んでほっとした表情浮かべて、ありがとうおいしいよ、とか、
ね。
 それでそのあと、お腹の薬とお水持ってきてくれたりとかして、そこでまた嬉しそう
にありがとうって言うんやろうなあ。ああ、ありそう。すっごくありそう。
 なんや、私、別に要らへんやん。
 それで元気になってるのかどうかは知らへんけど、そんな仲よさそうなハラオウン執
務官さんらの間に水を差すのも悪いし? どうせ私たまたまトイレで通り掛かっただけ
やし。そもそも私が原因やしねぇ、フェイトちゃんもしかしたら私の顔見たほうがお腹
痛くなったりして。
 やってられへん。私は伸ばしていた手を引っ込め、ドアに背を向けた。お邪魔虫は消
えますよ。ええ、ええ。ただの置物やって、無駄に場所を取ったらただの粗大ゴミです
もの。私、そこらへんは弁えているつもりですよ。
 そう思う私の脳裏に、朝のフェイトちゃんの様子がちらつく。フェイトちゃんが熱を
出してあのふにゃふにゃな笑顔になる時、後で必ず吐くってみんな知っとるんやろうか。
熱は出して無かったけれど、あの表情はフェイトちゃんのやばいって言う時のサインや
ねん。笑ってるからって、間違って安心とかしたりしてないやろうか。丈夫そうに見え
るけれど、崩す時は思いっきり体調を崩しちゃうタイプなの、ちゃんと分かってくれて
るんやろうか。朝まで床で這い蹲ってただなんて、そもそもシャーリー達は知らない筈
だし、フェイトちゃんもそういうことをわざわざ人に言ったりはしない。限界とかはち
ゃんと弁えている人やけれど。
「く、うぅぅ・・・。」
 私は両手の拳を握り固めた。あのドあほの人が、すっごいむかつく。むかつくけれど、
知らん振りできない自分がもっと腹立つ。私は息を思いっきり吸い込んで、ドアに体ご
と振り向いた。
 そして、勢いをそのままに、拳を開閉パネルへと叩き付けた。


 パス、と軽い圧搾音が響いて、ドアが開く。
 その中の光景を見て、私の口から零れたのは、呆気に取られたため息やった。
「・・・あれ?」
 フェイト・テスタロッサ・ハラオウン執務官の執務室は、もぬけの空だった。