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「そんな・・・アホな。」
 半笑いになりかけた引き攣れたため息とともに、ひんやりとした汗が背中を下った。
「あ、足の感覚はあるんよね?」
 肩を握り締めると、その細さが掌に伝わった。微かに震えている。便器に溜まった水が
明かりに滲むフェイトとはやての影を揺らめかせていた。
「うん、ある、とは思うけど、その・・・よくわかんない。」
 薄らと肩に置いた手に汗が滲んだ。お風呂に浸かるような、穴に嵌った熊のようなポー
ズで揺れていた足はなく、まるでフェイトの上半身がトイレから生えているみたいだった。
吸い込まれて行くようにも見えて、乾いた笑いをはやては消すことができない。
「もうトイレ取れちゃっても良いから、次元転移しちゃおうよ!」
 ドアに齧り付くなのはの手に骨が浮き上がる程の力が入っている。
 そう、はやてもフェイトもアルフも、これが異常だということは解っている。今すぐ抜
け出すべきであるということも。洋式トイレの排水部分の直径などせいぜい10センチメ
ートルかそこらであり、とてもではないが人間が嵌る大きさではないのだ。
「・・でも、どうしてこうなったかわからないのに、次元転移は・・・。」
 フェイトの双眸がまるで、迷子みたいに潤んでいる。フェイトが口ごもる。そのわけが
はやてにはわかる。フェイトやアルフ、ユーノなど、皆が何の苦もなく普段使ってみせる
から勘違いするだけで、次元転移は魔法の中でも最も高度な部類に入る。何の負荷が掛か
っているかわからない今のような状況でおいそれと使って、五体満足で再び土を踏める保
証は無い。
「フェイト、これは・・・。」
 リンディがトイレの個室の前で立ち尽くした。頬に力が入り緊張に包まれた表情で、リ
ンディは足を踏み入れる。はやてとなのはは自ずと道を譲って、リンディとアルフの背中
を見送った。橙色の光が落とす影が今は妙に黒く見える。
 跳ね上がる心臓の上、シャツの胸倉を掴み、はやては大きく息を吐き出した。一瞥した
なのはは目を見開いたまま、じっとトイレを見つめている。狼狽を感じ取れるその横顔は、
はやての頭を冷静にする。自分こそ今ここで、状況を精査し適切な判断を下さねばならな
い。変身魔法も同様の理由で使うことは出来ず、また使用する価値も認められないのだ。
物理的な大きさを無視してトイレに吸い込まれている以上、小さくなった所で出て来られ
るとは考えられないからだ。
「か・・母さん。」
 もっとも疑うべき可能性は魔法だ。ここは魔法の存在しない世界であるが、翠屋は特異
な場所である。非魔導血統でありながらオーバーSランク魔導師であるなのはの生家であ
り、はやてやフェイトなど、魔導を扱うものが多く出入りする。ならば、疑うだけの価値
はある。
 はやてはふ、と息を吐いて神経を研ぎすます。なのはやフェイト、リンディ達の魔力波
の周波数は解っている。解析コードを走らせれば、それ以外の魔力と区別を付けることは
可能だ。魔法であったなら魔法の詳細解析を、そうでなければ違う可能性の検討を管理局
に依頼すればいい。
「大丈夫よ、フェイト。
 母さんがついてるから。」
 はやては魔法コードを発動させた。
 白い光が灯り、手洗い場からトイレまでを煌々と照らし出す。水道が伸ばす陰さえ溶け
消える程の輝きだ。
「なのはちゃん、ドア締めて、管理局に連絡入れて。
 ヴィヴィオはちょっと、外出て大人しくしててな。」
 丁度、ヴィヴィオは外の扉から足を一歩踏み入れたところだった。色違いの両目が大き
く見開かれ、困ったようになのはを見上げた。白い光にその奥の景色は暗く、桃子の朧な
姿と客席が霞む。
「ヴィヴィオ、言われた通りにしよう。」
 なのはがヴィヴィオの手を取って、さっとトイレの外に出る。繋いだ手をヴィヴィオの
小さく柔らかな手が握り返すと、なのはははやてを振り返った。柳眉に力を込め、一瞬、
はやてを見据える。はやてが声なく頷くと、扉が閉まる。
 音が閉ざされ、起動音だけが旋回した。
 顔をトイレへと巡らせる、はやての前髪を白い光の粒が舞い上げた。
「魔力波の解析コードを走らせました。
 魔法の可能性が一番高いと思ったので。
 起動させてる魔法がもしあるなら終了して、
 アルフさんとフェイトちゃんもちょっと魔力のやりとりを抑えてくれへんかな。」
 片膝をついていたリンディが緩慢な動作で立ち上がった。長い翡翠の髪が肩を滑り、整
った相貌がはやてを向く。その顔を微笑みが剥がれ落ちていく。破片の裏側に現れたのは、
射抜くような双眸だった。
「まかせたわ、はやてさん。」
 正三角形の魔法陣が足元に展開する。アルフが腕で顔を覆い目を細める。はやては息を
細長く吐くと、両腕を低く掲げた。目を閉じて、体を包む魔力の熱さに身を委ねる。
「はやて。」
 微かな、フェイトの声が心臓を撃った。
 はやての繰る魔法が走り、飛び来る魔力波の検知を始めた。魔法である可能性は十分高
いだろう。だが実際に検知するには、かなりの解析精度が要求される。この異常を起こす
魔法の出力がかなり低く、バックグラウンドに隠れてしまう可能性があるからだ。フェイ
トもバルディッシュも最初にトイレに入った時にその存在に気付かなかっただけでなく、
トイレに吸い込まれるという効果が発動してからでなければ、誰も異常に気付けなかった
という事実がそのことを示している。
 恐らく、魔導師単身で見つけるのは難しいだろう。それはみな承知している。だが、管
理局が来るまでの時間、何もせずに居るわけにはいかない。
 はやては唇の端を噛み、呼吸を整える。自分を取り巻く空気すら撫でて整えるように、
魔法の出力を一定にならしていく。その中に一筋、神経を逆撫でする反応が肌を焦がした。
「フェイトちゃん、魔力もっと抑えて。
 アルフさんとのリンクをもっと弱く。」
 脂汗が額に滲む。はやては目蓋をこじ開けて、床を這う光の先にトイレに嵌るフェイト
を見た。便器の縁を両腕で掴み、フェイトは眉間に皺を寄せている。
「うん、や、やろうとしてるんだけど。」
 妙に頼りない声音だった。便器を掴む右手は拳を結び、唇が戦慄いている。揺らぐ眼差
しがはやてを仰いで、ゆるやかに隣に立つアルフを見上げた。目蓋の縁が薄ら赤い、まる
で、助けを求めるように。
「魔法の制御、うまく出来ないんだ。」
 言い切るかどうかというタイミングだった。
 便器の中に溜まった青い水の奥から、金色の輝きが水面を貫いた。フェイトの頬を焼き、
アルフの目に光が突き刺さる。
「危ない!」
 リンディの悲鳴が、トイレを叩き割る雷光に打ち砕かれた。
「うあっ!」
 暴走する金色の雷光が狭いトイレを貫いた。照明を叩き割りタンクを削り、フェイト自
身をも焼き焦がす。目を灼く雷撃が腕を突き刺した。
「フェイトちゃん!」
「フェイト!」
 飛び出したアルフが両腕をフェイトに回した。それでも終わらない魔力放出がアルフも
フェイトも射抜いて、トイレを壊滅させて行く。壁面のタイルが降り、リノリウムの床が
捲れ上がる。窓ガラスへと光が走った瞬間、はやては異なる魔法を展開した。
「Panzerhindernis!」
 全方位防御をする防護魔法がアルフとフェイトを包み、ガラスの破片が表面で弾けた。
だが吹き荒れる雷光は結界内に充満し、アルフの叫び声が耳を
「Distortion Shield.」
 澄んだ水が空間に広がった。
 その冷たさが加熱し暴れる魔力を押し流し鎮めていく。金の閃光の起こす破裂は威力を
弱め、空気に溶ける。内部で吹き荒れる攻撃にくすんでいた防護魔法がクリアになり、ゆ
っくりとアルフの背中がはやての視界にも現れた。豊かなオレンジの髪が流れる首元に、
二本の腕が強くしがみついていた。
「大丈夫かい、フェイト。」
 囁くようなアルフの声が、はやてにも聞こえた。その髪に埋もれる指が背中を掴み服に
皺が寄る。防護魔法を解くと、はやては首を濡らす汗を掌で拭った。
「ありがとうございます、リンディさん。」
 淡い燐光にリンディは包まれている。個室内の電灯が破壊され、割れた窓から差し込む
自然光と魔力光の二つがリンディに姿に流れ込み、二つの色でその姿を描き出していた。
「えぇ、はやてさんこそ。」
 はやてを一瞥したリンディの左頬に、血が一筋流れていた。個室内には窓ガラスと白熱
灯の破片が散乱し、リンディの身じろぎに合わせて声を上げた。アルフの背にも血が滲ん
でいる。唾を、はやては飲み込んだ。
「はやてちゃん、凄い音が−−−!」
 押し開かれた喧噪が、停止していたトイレの空気に流れ込んだ。扉を開いたなのはが、
トイレの惨状を目にしてその場に縫い止められた。
「これは・・・・。」
 店内は明るく、なのはの姿は逆光に彩られている。目を見開くなのはに、はやては微か
に首を振った。トイレの中は割れた建材の立てる埃が未だ舞い、アルフの後ろ姿が擦れて
いる。はやての足元に蟠っている影にも、埃が落ちる。なのはにしがみついたヴィヴィオ
が中を窺った。
「フェイトまま・・・どうしたの?」
 なのはは黙ってヴィヴィオの頭を撫でる。そうすると、ヴィヴィオは丸い目でなのはを
振り仰いだ。
「フェイトままは私がなんとかするから、ヴィヴィオはお母さんの所に行ってて。」
 腰を下ろし視線を揃えて、なのははヴィヴィオに微笑みかけた。ヴィヴィオの両手を掌
で包み込んで、熱で解すようにやさしく。
「大丈夫だから。」
 なのははヴィヴィオを強く抱きしめると、目を細めて笑った。不安そうなヴィヴィオの
頬を指先で撫で、店内へと目配せする。おそらく、そちらに桃子が居るのだろう。はやて
は視線を引き剥がすと、トイレのフェイトへと向き直った。
 背後でぱたんと、扉が閉まる。
「ごめん、怪我・・・させて。」
 照明が減り、トイレの中は薄暗い。
「なのはちゃん、管理局に連絡してくれたんよね。」
 掌にべったりと張り付いた汗を、はやてはデニムのスカートで拭った。下に穿いたレギ
ンスが妙に暑苦しい。
「うん、でも、こっちの時間で一時間は掛かると思う。」
 はやては頷くと、トイレの個室へと向かった。フェイトがトイレに飲み込まれる原因は
未だ判らない。今、この場で解明する手だても失った。ならば、後は事態を悪化させず、
管理局の到着を待つ以外には無いだろう。
 埃が光の梯子の中で身を回し踊っている。くるくると華麗に身を回すその姿を肩で切り、
はやては割れたガラスを踏んだ。丸く血が数滴落ちている。
「アルフさん、手当を受けてきて下さい。
 電灯で切ったんなら、病院に行った方がいい。」
 フェイトと両腕を絡めるアルフの肩と背が裂けている。滴る血液の量は多くないが、破
片が体内に残るのはいくら使い魔と言えど避けるに越したことは無い。額や腕は焼け爛れ
ていて、暴発した魔力の大きさを物語っていた。
「フェイトを放ってなんか行けないよ。
 こんなのすぐに治るんだ、それよりフェイトを!」
 アルフの腕を握るまっ白な手に、真紅の血液が散っていた。血管が浮く程に縋り付く細
い腕を辿る。黒く染まった手首を、切り傷の走る肘を、濡れそぼった肩を追って、乱れた
金髪へと視界が流れ着く。真っ青の唇が音を紡いだ。
「アルフ、私は大丈夫だから。」
 真っ赤な目がアルフを見つめていた。左の目蓋が切れて、目の縁に血が溜まっている。
それを微かに震わせながら、フェイトはアルフの腕を掴んでいた自分の指を解く。
「でも!」
 食い下がるアルフを横目に、はやては空いたフェイトの右手を握り締めた。フェイトが
はやてを振り仰ぐ。その動作を視界の隅に置き、はやてはリンディに問い掛ける。
「ディストーションシールドはもう解いたんですね。」
 リンディは黙したまま、はっきりと頷いた。
 ディストーションシールドはフェイトの魔力暴走が止まったのならばいち早く解くべき
との認識は、リンディと共通していた。範囲内の空間干渉および攻撃魔法を低減させるこ
とに重きを置いたその魔法は、フェイトがトイレに挟まった現状すなわち、空間に作用す
る魔法が発動している可能性が高い状況で行使し続けるのは危険性の方が高い。完全に魔
法が閉じてしまうことになれば、フェイトの上半身と下半身が最悪の場合分離することも
考えられるからだ。
「アルフさん、とりあえず血だけでも拭きましょう。
 リンディさんとフェイトちゃんも。」
 なのはが先程ヴィヴィオが持ってきてくれていたタオルをそれぞれに差し出した。アル
フは不承不承受け取りに個室から出る。フェイトの代わりに、はやてがクリーム色のタオ
ルを受け取った。
「フェイトちゃん、もうちょっとだけ、しんぼうしてな。」
 握り締めたフェイトの右手が、痛いくらいにはやての右手を握り返した。顔にはいつも
みたいな、眉が弧を引く柔和な笑みが浮かんでいて、自然光になめらかな曲線で描写され
ているのに。手の熱だけは本当だった。
「フェイト、さっきと変わった所とか、他に痛い所はない?」
 囁くようにリンディが問う。
 目蓋の傷にタオルを当てると、毛の一つ一つに赤黒い塊が染み込んでいく。はやては痛
まないようにそっと、血が垂れただけの頬をタオル越しになぞった。
「えっと、その、ちょっと・・・。」
 濁した言葉の端に、カチカチという小さな音が混じった。はやての手の甲に、フェイト
の指が食い込む。それでもフェイトはにっこり笑って、冷静に告げた。
「お腹の所が、締め付けられてるみたいで、すごく痛いです。」
 仄かな微笑みを零すフェイトを、はやては凝視した。
 ちょっとって今言ったばっかりのくせに。
 そう笑って小突いてやりたかったのに、喉に舌が貼り付いて声にならなかった。最悪だ、
と誰かが耳の裏で呟いた。