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 白い歯が色の落ちた下唇を噛んでいる。やわらかな肉を、吐き出される息が震わせる。
顔の左半分に押し当てたスポーツタオルの表面、左目の上に血が滲む。絨毛の奥から血液
が膨らんで、タオルを押さえるはやての指がぬるりと滑った。
「フェイトちゃん、垂れてる方を畳んで押さえて。」
 止血は血が滲み出なくなるまで上に布を被せねばならない。フェイトの右目が便器の縁
を滑り、左手がタオルを掴んだ。重力の手伝いを得てタオルは折り畳まれ、目元を押さえ
るはやての上に被る。布越しに手が触れると、はやては左手をそっと引き抜いた。指先に
血液がついた手は、拳を作ると指と掌がくっついた。
「ごめん、ありがとう。」
 繋いだ手の間に汗が溜まる。目の怪我は恐い。だがそれ以上にフェイトが怯えているの
が、掌を通して伝わって来る。手の甲に食い込む指先から、鼓動が聞こえる。はやては手
を握り返し、頬に力を込めて持ち上げた。捻り出した表情が笑顔になってることを願って。
「痛いやろうけど、もうちょっとのしんぼうやからな。」
 トイレに嵌り、下半身が何処ともわからない場所に埋もれているのだ。
 恐くないわけがない。
 はやては左手の甲でフェイトの頬を撫でた。目を細めて唇を和らげて、微笑んでいるよ
うにして。温かい頬に触れる手には、血がこびり付いている。フェイトは頷いて、その頬
になめらかな曲線を生んだ。
「うん、大丈夫。」
 こんなときまで、笑わないでくれればいいのに。足元に散らばったステンドグラスがは
やてに踏みつけられて割れた。青いガラスの飛沫が散ったのは、便器に邪魔されてはやて
の視界にしか嵌らない。薄い自然光でも割れたガラスは乱反射して、荒れる水面みたいだ。
この状況で、しゃれにはならないけれど。
 気付かれないように、はやては肺に溜まり腐敗を始めていた呼気を、ゆっくりと押し出
した。その終端に繋がれた脳に掛かる霞も一緒に放り出すように。右手のうちに納めた自
分より少し大きく強ばった白い手の感触を確かめ、はやては周囲を見渡す。
「ユーノくん?
 ユーノくん、今時間ある?
 今、フェイトちゃんが大変なことになっちゃって!」
 洗面台の方からなのはの声が響いてきて、はやての髪を掠めた。太陽に雲がかかったの
か、個室の中は一層青く染まり陰になっている。ドアの形に差し込む手洗い場の橙色の明
かりばかりが、はやての右肩とフェイトの左半身を照らしていた。
「管理局の人呼んだんだけど、着くまでまだ時間かかるから。
 ねぇ、調べてもらえないかな! 詳しい人とか知らない?」
 はやては僅かに青白いフェイトの額を甲を使って指で触れた。ユーノと話すなのはへと
向いていたフェイトの顔が、はやてを通り、隣に立っているアルフを仰ぐ。雷撃が走った
ため、羽織った白いシャツは左肩から胸に掛けて焼け焦げている。襟首から覗く肌は赤黒
く、染みだす液体が鈍く動いていた。血を拭くようにと渡された近所の工務店の名前がプ
リントされたタオルは、血の染みで重く揺れる。
「アルフ、ごめんね。
 ほんとうに、ごめん。」
 前髪の一筋が焼け落ち、アルフの顔にも雷光が閃いた痕がある。フェイトが滲む血の一
つ一つを、傷口の数を目にして震わせた声に、アルフはタオルを下ろした。重そうに床へ
と先端が落ちる。それをちら、と見下ろすと、ホットパンツの後ろポケットにねじ込んで、
アルフは左肩をあげてみせた。
「大丈夫、かすり傷さ。
 フェイトこそ痛いんだろう、辛かったらそう言っとくれよ。」
 掌をホットパンツのお尻側で強く擦ってから、アルフはフェイトの背に腕を回した。力
強く何度も撫でさすると、フェイトは何も言わず何度も頷く。はやては二人の目交いから
そっと、トイレの個室内へと注意を巡らせた。
 大人三人が周りに立ち、一人がトイレに嵌っていてもしゃがむくらいの身動きは取れる
くらいに余裕を持って作られた、飲食店のトイレは清潔かつ綺麗でなければならないとい
う桃子の意向が存分に現れたこの女性用トイレは今、半壊している。ステンドグラスは粉
砕され、電灯も割れた。石膏ボードの壁には大きな亀裂が三本も入り、リンディが背を寄
せる左の壁面は床から天井に掛けて真っ暗な穴が空いている。構造材の間に溜まった古い
空気が吹き出して来るのか、半ば剥がれた壁紙が小刻みに動く。
 便器もまた、大きく破損していた。リンディが開いているパンフレットと施工時の伝票
にこの便器の名称が大きく印字されている。スタイリッシュなリビングの脇に据え付けら
れた一台の便器の写真、そこに示された白抜きの文字は新ピュアレストQR。便座は4.8L
便器専用ウォシュレットGREEN MAX 4.8だ。
 手洗いもついたトイレのタンクは、今や蓋の左隅が欠け穴が空いている。樹脂製のその
表面にはクモの巣状に罅が入るが、水は漏れだしていなかった。右側面の水洗バーは銀色
をしてトイレ内を帯状に歪ませていた。あげられた便座は半ばで溶け、頭の奥に響く嫌な
匂いがする。
 新洗浄方式ツイントルネード洗浄で洗浄水量4.8Lを実現した、セフィオンテクト便器を
持つタンク式トイレ新ピュアレストQR、便座の専用アプリコットにはGREEN MAX 4.8が
選択されており、カラーはどちらもホワイト#NW1。このツイントルネード方式によって洗
浄水量は4.8Lに抑えられ、それまでの節水便座と比べても約68%の節水を可能にした便器
だ。便器の縁、フェイトの右肘の下には四角く吐水口があけられており、ここからリム洗
浄水が従来の約1.3倍の水量で以て水平トルネードとして流れ出ることになっている。排
水溝に嵌るフェイトの体に隠れて見えないが、その側面にも吐水口があり垂直トルネード
が吐き出される仕様だ。このツイントルネードにより低排水高洗浄力を実現させたことが、
この便器の最大の売りである。陶器表面の凹凸を100万分の1ナノレベルまで平滑化され、
汚れやカビが付着し難く、少ない水量でも効率よく汚れを落とすことができ、洗剤使用量
の低減も可能にされている。
 TOTOの技術の粋を集めた便器。その純白の素肌には今、鮮血が散っている。フェイトと
アルフの落とした血だ。便器の縁に円を幾つも作り、便器の内へとその曲面に沿って幾筋
もの流れが垂れている。終着はブルーレットの入った青い液体だ。透き通った筈の人工の
青は、生命の赤で濁っている。そうして、それら全てに栓をするのはフェイトの胴体だ。
黒いカットソーに包まれたその腹部に、便器が食い込んでいる。
 まるで、トイレに食われているようだ、その感慨を打ち払い、はやては便器を下から触
った。お椀状に膨らんだ冷たい便器の縁をべたべたと掌で確かめる。
「なのはさん、あなたはリフォームしてからこのトイレ、使ったことあるのよね。」
 リンディが個室から出て行く。
「はい、何度か。
 掃除も、はやてちゃんが来る十分前とかにして、
 その後誰も入ってないと思います。」
 なのはが一度、息を切った。
「もちろん、ヴィヴィオも使ったことがあります。」
 いくつかの可能性がなのはの言葉で幕を引かれた。誰かが直前に何かを仕掛けたという
可能性と、施工時から細工が施されていた可能性だ。時限式ならまだ可能性はあるかも知
れないが妄想以上の説得力を持つ原因の推量は難しい。
『突然、人を一人だけ吸い込むような穴が次元空間に空くなんて事例も、
 特に記録は無いし。』
 ユーノのため息が電子音に紛れて響く。なのはの周囲に開いた空間モニタは三つ。ユー
ノとシャリオ、そしてはやてが知らない男性が映っている。
「せめて局の人が来るまで、この穴をもっと広げる方法とかないのかい?
 フェイトが可哀想じゃないか!」
 アルフの手がぎゅっとフェイトの肩を掴んだ。しまっていた筈の耳が立ち上がり、尻尾
が大きく触れる。アルフは警鐘だ。フェイトが口にしない、顔に出さない不安を大声で叫
んでくれる。顔の左半分にタオルを当てたままフェイトがアルフを見上げる。はやては便
器の外側を一通り触ると、立ち上がってタンクの蓋へと手を伸ばした。水道もついた蓋は、
左手一本では重く持ち上がらない。右手をフェイトから離そうと指の力を
「っあ。」
 熱い呼気がフェイトの口から漏れた。はやては親指から小指まで、力を込めて握り締め
た。唾液を飲み込み、はやてはフェイトを見下ろす。俯けた金色の頭が小刻みに震えてい
る。華奢な肩が揺れた。
「フェイトちゃん。」
 呼びかけると、フェイトが静止した。アルフの視線もフェイトを凝然と捉えている。リ
ンディが肩で風を切り、トイレへと戻って来る。毛先の濡れた金髪が身じろぎをして、フ
ェイトが顔を上げた。
「大丈夫、ちょっと窮屈なだけだから。」
 微笑む顔の鼻筋を、脂汗が伝った。
 はやての腹の底に怒りが噴き上げた。はやてはフェイトの右手を両手で強く握り込み、
口を割って息を吸い込んだ。下顎が沈黙を割って音声を迸らせる。細い手がはやての掌の
間で小さくなる、そのとき。
 フェイトの体がずるっと、トイレの中に落ち込んだ。
「フェイトちゃん!」
「フェイト!」
 胸の下まで引きずり込まれ、そこで突っかかったようにがくんと体が痙攣する。フェイ
トの顔に苦悶が浮かんだ。喉を反らせ、歯を食いしばる首筋には筋が浮き上がる。深く刻
まれた眉間の皺に汗が溜まる。剥き出しの歯の隙間から、震える息が絞り出される。
「局員はまだ着かないの!?」
 なのはが怒鳴った。
「くっそ、なんか出来ないんか!!」
 祈るようにフェイトの手を握り締め、はやては叫ぶ。フェイトの手が痛いくらいに握り
返して来る。今、この両手に感じる熱さが息遣いが、もし目の前から失われたら、これが
一瞬後には過去のものになるなんて、信じられない。そんなことには絶対にさせない。さ
せたくない。
 なのに、出来ることがわからない、なにをすればいいのか、何も出来ない。
「っ、う。」
 噛み締めた奥歯の隙間から、フェイトが言葉にならない呻きを漏らす。畳んで押し付け
られていたタオルが崩れ、最後の一端だけが乾いた血で目蓋に貼り付き、血餅を剥がして
落ちた。
「フェイトちゃ」
 フェイトの左手がはやての手を掴んだ。額を押し付けて、体を丸めてはやての両腕に縋
り付く。震えるくらいに力を込められて、手の甲の骨が折れそうなくらいに軋んだ。熱よ
りも、膨れる汗が冷たい。両目を硬く瞑る、その顔を長い髪が陰に晒す。
 リンディが便器に腕を突っ込んだ。
「リンディさん。」
 両腕を便器の縁に這わせると、洗浄水と血液が手に絡んだ。外側を検分する手は、ゆっ
くりとその中心、フェイトの体へと近づく。フェイトが吸い込まれる排水溝の中心へと。
はやてもアルフもなのはも、息を顰めてその指先がフェイトの体に触れるのを待った。
 まるで騙し絵でも見ているようだった。便器の表面をなぞる手は、フェイトの体をホロ
グラムのように擦り抜けて、便器の排水溝の形を辿る。十センチ程の楕円形の表面を。そ
の脇に着いている水の噴出口も辿る。そこにフェイトの体が詰まっているのを無視して。
ブルーレットの溜まった水に手は濡れるのに、フェイトの存在をその手は無視する。
「はぁ?」
 アルフの顔面がびくっと跳ねた。
「どういうことだよそれ!
 フェイトはここにいるだろう!」
 激昂し、アルフはフェイトの体に無遠慮に手を這わせた。脇から腹を伝い、その腕は力
強く便器の表面へと叩き付けられる。フェイトの体に触れて、先程のように貫通すること
はない。フェイトと便器の境界面は確かに存在している。
「なに、どういうことなの?」
 ふらふらとした足取りで、なのはがトイレのドアに手をついた。リンディは汚れた手を
タオルで拭くと、フェイトの体に先に触った。同様に体に手を沿わせれば、アルフの手と
同じ場所にその掌は辿り着く。もう一方の手は、フェイトの存在を無視してその内部に入
り込み、便器の排水溝を触れたままだというのに。手首まで、体の中に埋まったように見
えるその見た目は、あまりに非現実的で、はやては目眩を起こしている暇もなかった。
「一体、何が・・・。」
 口から転がり出たはやての言葉に答えず、リンディは両腕を引き抜いて手を拭った。
 意味も無く、はやての口から大量の息が漏れる。どうすればいいんだ、途方に暮れた声
だけは喉の奥で叩き潰した。恐いのも辛いのもフェイトの筈なのに、自分がそんな言葉を
口にする訳にはいかなかった。俯いたままのフェイトの肩が大きく上下している。震える
呼気はその形さえ見えてしまいそうなくらいに。
 手を握り締めてあげるしか出来ないなんて嫌だ。こんな時に、目の前でこんなにもフェ
イトが苦しんでいる時に、何もしてあげられないなんて嫌だ、助けることが出来ないなん
て嫌だ。それなのに、魔法なのかどうかもはっきりと判らない。フェイトの下半身が何処
に消えようとしているのかもわからない、せめて、せめてこの体を包んであげられたらい
いのに、どうして、それすら出来ないなんて嫌だ。震える体をどうして、包み込んであげ
るだけのことすら出来ないなんて、そんなの。
「ねぇ、魔法とかロストロギアとかなんでも未知の技術でもなんでも、
 穴をもっと固めるとか、固定する魔法って無いの?
 私達に今出来る魔法は!? 管理局の人はまだ?!」
 なのはが空間モニタを振り返る。薄く灯るモニタの中で、シャリオが拳を握り締めた。
『十分前に出動しました! けど、そんなにすぐには着きません!
 それに、なのはさんたちにそんな急に、使える魔法とか技術なんて・・・っ。』
 両手で前髪を握り潰し、なのはは壁に背中を預けた。足が砕け、ずるずると壁を伝って
しゃがみ込む。トイレを壊せば出て来る、そんな問題じゃない。引きずり出すことが出来
ないのはもう証明された。閉じようとする空間を広げる手だては無い。吸い込まれるのを
留め置くことも出来ない。何処に行くかも予測出来ない。保護する魔法だって、張ること
が出来ない。
 心拍が、胸を押さえる左手の下で声を潜めた。
 ふ、と耳障りな音が鼓膜を叩いた。カチカチと微かな物音が不規則に鳴っている。なの
ははオレンジの電灯を見上げ、すぐ脇にある陶器の洒落た洗面台と鏡をつぶさに観察した。
木製のドアも閉じられたまま、誰も叩いてはいない。オレンジのリノリウムの上には細か
な埃が落ちているだけだ。空間モニタに映る三人はそれぞれ何かしてくれているようだが、
音声は無い。
 雲が流れたのだろう、トイレの中に白い光と風が舞い込んだ。何もなくなったガラスの
枠からは裏の植木が見えた。梯子を下ろす陽光は床の割れたステンドグラスに灯り、幾つ
もの粒をなのはの目に焼き付けた。リンディの翡翠の髪が、アルフのオレンジの髪が、は
やての茶髪が透き通る。ゆったりと舞う埃が緩慢な渦を描く。その画の外れ。陰に半ば沈
んだトイレのタンクの右側面。
 水洗バーがひとりでに、カチカチと震えていた。
「えっ。」
 思わず漏らした声に、アルフが振り返った。何事かと問い掛けて来る面差しに、なのは
は指で水洗バーを差した。タンクの上の水道をなぞり、アルフの目が静かにトイレの水洗
バーを見つけた。
「なんだ、これ。」
 アルフが中指で水洗バーにそっと触れた。通常、真下を向いている筈の水洗バーは僅か
に水量大で流す方へと持ち上がり、小刻みに振動している。銀色の表面が光で濡れている。
戻す方に親指でそっと押す。だがまるで錆び付いたかのように動かない。指の腹で思いっ
きり押そうとも、一秒角も動かなかった。
「流す方向には、もしかして・・・。」
 なのはは立ち上がった。リンディとはやての視線もアルフの手元、水洗バーへと向かう。
額をはやてと繋いだ両腕に押し付けたままのフェイトの顔も、微かにそちらへと傾いた。
粘つくような呼気が垂れる。
「は・・、冗談だろ・・・?」
 微かに頬を引き攣らせ、アルフが砂糖細工に触れるようにほんの少しだけ、水洗バーを
持ち上げた。
「はっ、うぁっ!」
「フェイトちゃん!」
 フェイトの体がトイレの中に沈んだ。助けを求めるように掴む手指の爪がはやての手の
甲をひっかく。見開かれた赤い二つの瞳がはやてをいっぱいに映す。縁を赤く染めて、目
蓋が切れた左目は涙が溜まっていた。
 穴は塞がろうとしている。開くことは出来ない。手だてを講じようにも、どうしてこん
なことが起こっているかわからない。はやては自らも目にいっぱいフェイトを湛えて、で
も立ち尽くすしか無かった。手は触れているのに、あまりに距離が遠い。トイレの中と外、
ただそれだけなのに。

 今、この手の中にあるぬくもりも、眼差しも、息遣いにも、どうして、喪失が滲むの。
 唇を結んで、はやてはでももう笑みを捻り出せない。

 リンディが緩やかな動作でフェイトを見つめた。水量大の方にだけ動いた水洗バーと、
それに伴ってトイレから排出されるよう、下へと沈んだフェイト。止まらない空間干渉の
減少。リンディは硬い唾を飲み込んだ。喉を削り、胸の裏を引き裂いて、胃を貫く硬さを。
 そうして整った唇が動かす。リンディは声を押し殺し、一つの決断を下した。
「フェイトを、流しましょう。」