空間モニタに投影されていた通信画面が一斉に途絶えた。
 砂嵐の画面を、沈黙が流れていく。
「流すって、どういうつもりですか。」
 乾いた口を開くと、張り付いていた上唇と下唇が引きつった。割れた窓から流れ込んで
くる秋の風が鼻を突く。肺に落ちるその冷たさが、激しい鼓動に触れて息を震わせる。
「原因はわからないけれど、その水洗レバーとフェイトの束縛は連動しているのでしょう。
 だから流して、フェイトを解放するのよ。」
 リンディははやてを見据えた。顎を引き、その視線はなのはへ、アルフへ移り、息を呑
むフェイトを捉えた。胸まで洋式便器に飲み込まれたフェイトは見開いた目にリンディを
映していた。白い顔面にこびりついた血液は固まりきらず、粘ついた赤黒い光沢を湛えて
いた。
「リンディさん、まだそれは。
 何処行くか分からないんですよ。そもそも、何処かに着けるかも・・・。」
 トイレのドアを掴むなのはの手に、筋が浮いていた。リンディはその双眸でフェイトを
見つめたまま、小さく頷いた。
「そうね。でも、時間が無いわ。
 通信も切れてしまった。」
 割れたステンドグラスが七色の陰を床に落としている。アルフはなのはが展開したまま
にした空間モニタを振り仰いだ。通信者を表示する筈の画面はいまや黒一色に染まり、中
央には白い文字で通信途絶の旨と、回復方法が手短に記載されている。
 はやては両手で包んだフェイトの手を強く握りしめた。彼女の手を、今は小さく感じる。
「言いたいことはわかります。
 けど、どちらを取るべきか、私の意見はあなたとは逆です。」
 フェイトはリンディをずっと見つめていた。白い横顔を日差しが縁取り陰が彫る。この
温かい手を離すことはできない。
「この次元の穴を安定させる方法を模索するべきです。」
 リンディの眼球が眼窩を滑った。リンディとはやての視線が真っ向からぶつかる。
 フェイトがトイレに呑み込まれている原因はわからない。しかし、それが人為的なもの
であれ、自然のものであれ、時空に作用していることは間違いないだろう。次元転移を起
こそうとしている、その可能性は高いと言っても差し支えがない。ならば、フェイトの体
は今、二つの世界に跨がって存在していることとなる。
 次元世界間の相対運動は常に一定ではない。次元を超越した通信などは、時々刻々と変
わる次元世界間の物理量の変化を予測し、補正をし続けることで継続的な情報交換を可能
としている。次元世界間の状態の相違が拡大し、補正が不能になると通信途絶は避けられ
ない。もう、ミッドチルダとの通信は切れた。ならば、トイレに空いている次元の穴もい
つ閉じてもおかしくない。すなわちそれは、翠屋のトイレに残っている上半身と、何処か
別次元に消えている下半身の繋がりが途絶えることを意味する。それがすなわち、何を意
味するのか。
「今すぐ出来るなら、私もそうします。
 でも、何故、このような次元の穴が空いたかも判らない以上、不可能です。
 なら流してしまう方が安全だわ。
 もう今にでもこの次元の穴が閉じてもおかしくないのだから。」
 二人ともはっきりとは口に出せない。
「飛ばされた先の世界が安全だという可能性は少しもありません。
 むしろ安全な可能性の方が低いでしょう、人が生存可能な場所がどれだけありますか?
 この世界内だって、バリオン比はわずか4%です。」
 明確に口にしなくとも、なのはにもフェイトにも、リンディとはやてがそれぞれ予期し
ていることは判っている。ただ、二人は確率を問題にしているに過ぎない。フェイトが生
きていられる可能性だ。
 はやてが言う。
「フェイトちゃんは今、魔法を使えないんですよ。
 なのに、何処とも知れない場所に放り出すなんて無謀です。
 幸運にも人間が居られる星に転移したとして、それが陸地だと限りますか?」
「それでは、はやてさんはこのままにしておけって言うの?
 トイレから出す事も、この次元の穴を固定する事も敵わないのに?
 あなたの意見は、このままフェイトを見殺しにするのと変わらないわ。」
 リンディは譲らない。
 なのはにはどちらの意見に賛同する事も出来なかった。はやての言ったバリオン比4%
というのは、換言すればこの体を作る原子などが、137億光年の広さを持つ宇宙空間に
僅か4%しか存在しないということだ。しかも、人間が存在出来ない恒星や中性子星など
を含めてだ。その中で人間が存在出来る惑星は何%か、さらに生存出来る場所は惑星地表
面の何%か。考えれば、例えどの世界に飛ぼうと、生きていられる可能性が低いことはわ
かる。
 だが、このままでは、確実にフェイトの肉体は分断される。それは避け得ない。
「こんなこと言っている間にも、このトイレの穴は閉じてしまうかも知れないのよ。
 いつまでもこのままにしておけないわ。
 局員の到着も、その解析も解決手段の提案も待っていられません。」
 掌に汗が滲むのを感じた。両手でしっかりと握り締めたフェイトの手から溢れたものか、
それともはやて自身の汗か判らない。ただ、フェイトの手の力が強くて、そして震えてい
ることだけが判る。
 はやてには、この手を離すことは出来ない。
「そんな僅かな幸運に懸けるんですか?
 私にはそれが懸命な判断とは思えません。」
 喉に痰が絡まったような、鈍い咳をフェイトが零した。
「フェイト!」
 アルフが便器の縁に齧り付く。フェイトは口を肩に押し付けて、黒いカットソーで拭っ
ていた。唾液に僅かな色が混じっている。
「大丈夫だよ、アルフ。」
「嘘吐くな!」
 思わず、はやては怒鳴っていた。額に脂汗を滲ませて、フェイトがはやてを振り仰ぐ。
眼をまん丸く見開いて、肩で荒い息を吐いて。はやては唇を噛み締めて、フェイトの顔を
見返した。
「リンディさん、もし何かあったとき、見つけ出す公算はあるんですか。
 その時には、アルフさんも居ないんですよ。」
 狼の耳がぴっと立ち上がった。便器に挟まったフェイトが顔を伏せる。アルフはフェイ
トの使い魔だ。フェイトとの間に、弱いものだが精神リンクもある。アルフが居ればフェ
イトを探す一助となろう。しかし、もしフェイトになにかあれば、アルフはこの場で消え
る。二人も、同時に失う事になる。
「例え何があっても、探し出します。
 何年掛かっても、必ず。」
 フェイトをトイレに流そうと、流すまいと。この次元の穴は限界だ。きっともう、閉じ
てしまうだろう。いつも顔色を変えないフェイトは、今や唇が真っ青だった。リンディは、
フェイトを見つめて答えた。
「私はこの子の母親です。」
 握っていた手に、力が籠った。
 フェイトがトイレの中に沈む。
「っあ!」
 食いしばっていた歯が開き、苦悶の声が喉から絞り出される。
「フェイトちゃん!」
 なのはの叫びが重なる。
「そんな、本当に流すのかい、リンディ!?」
 アルフが立ち上がって叫ぶ。リンディは頷いた。
「流しなさい!」
 唇を噛み締め、喉を反らせ、息を詰め、フェイトがアルフを見上げた。睫にこびり付い
た血が乾き、薄片となって震えていた。アルフは頷く。
「いつだって、あたしは一緒だから。」
 泣きそうな顔で、フェイトは笑った。
 これ以外しようがない。原因も判らず対策も判らず、閉じようとする次元の穴を留める
事も彼女を出すことも出来ないなら、肉体が分断されるよりは流してしまう方がマシだと、
納得させるより他ない。もう、
 フェイトがリンディを見て、なのはを見て、それから。
「フェイトちゃん。」
 それから、はやてを見た。
 もう、会えないかも、知れなくとも。
 アルフの手が、トイレの水洗レバーに伸びる。その銀色のレバーが大の方へ、90度傾
けられた。そうして、
 ジャアアアアアアアアアアアアアア!
 濁流が、フェイトをトイレの配管に押し流した。