『私は、』
 彼女が立っていた。
 柔らかい頬をした子供の顔をして、真新しく少し丈の余った執務官服に身を包んだ彼女が、記憶の底から
ふっと目の前に蘇る。高くて幼い声が言う。
『私は、この制服を着ている限り、たとえ犯人がナイフを持っていようと、
 何をしようとしていても、逃げることは出来ないんだ。
 だから、少し怖いよ。』
 背はまだ同じくらいで、顔は同じ高さに合って、だから、金色の睫に隠されることもなく、その朱色の双
眸を見つめた。混じりのない色が見つめ返していた。
『私は立ち向かわなくちゃいけない。
 それが執務官である私の責任なんだ。』
 なのはがはやての顔をじっと見つめていた。はやては返す言葉もないまま、ただその視線を受けていた。
扁平な蛍光灯の明かりに照らされているのに、なのはの白い制服が網膜に焼き付くようで堪らない。なのは
の形の良い唇が動く。
「ところで、それって変身魔法なの?
 結構男の子っぽく出来てるよね。」
 上機嫌になのはが笑った。
「あ。いや、ただの変装やで。」
 慌ててはやても笑うと、頬が口の端に引っかかって一瞬不格好になった。なのはは身を乗り出して、まじ
まじとはやての顔を覗き込む。
「変装なんだ! へぇ、おもしろいね。
 なんか、変装して捜査なんてドラマみたい。」
「ふ、ざっとこんなもんよ。」
 顎に手を当て、偉そうに足を組むと、「おおー。」となのはが頷いた。それを聞いたら何故だか急に恥ず
かしくなって、はやては一つ咳払いをする。
「きつい訓練しながらずっと変身魔法使いっぱなし、ていうんは自信ないからな。
 そんなら変装した方がマシやろ?」
 前髪を人差し指と親指で挟んだ。シャワーの水はもう乾いて、短い前髪は重力に反目して前を向いている。
「じゃあその髪はどうしてるの?」
 なのはが聞く。はやては一声で答える。 
「切ったよ。」
 切ったばかりだから枝毛もない。
「え、本当に!?」
 素っ頓狂な声と共に、はやての上に陰が降った。身を乗り出したなのはの左手が、はやての頭のてっぺん
を掴むように触った。
「本当だ、本物だ・・・!」
 なのはの手のひらが、無遠慮にはやての頭を撫で回す。まるでザフィーラの頭でも撫でているみたいに、
はやての髪がぼさぼさになってもかまわないという手つきだ。しかし、頭の輪郭がはっきり分かるほどに切
り込んだ髪は、手で撫でられたくらいでは絡まらない。
『うちの庭で切ったですよ。
 みんなでばっさばっさと。』
 リインが揚々と追加情報をくれると、なのはは小さく吹き出した。
「なにそれ、お相撲さんの断髪式みたい。」
「失礼なこと言うなや!」
 きっ、と振り返りなのはを睨み付ける。すると、なのはの柔和な表情に出会った。目を細め、なのははは
やての頭をやんわりと撫でながら告げる。
「はやてちゃんがここまで髪短くしたのは、初めて見たよ。」
 頭を触られるのも、悪くないなと急に思った。髪の毛の先から伝わる手のひらの形が、妙に心地いい。
「ここまで切るの初めてやないんよ。
 前にも男装したことあるから。」
 得意げにはやては笑って見せる。するとなのはは驚いて手を引っ込めて、改めてはやての全身を見下ろし
た。身を引くとき、なのはの指先が机の中央に置かれたままの、壊れたデバイスに当たった。
「え、そうなんだ!
 だから、変装にそんなに自信あるんだね。
 体は、やっぱりサラシでも巻いてるの?」
 割れた装甲の間、覗く基盤の底まで光は差し込まない。その直径僅か5センチメートルにも満たない杖の
中からさえも、陰を掃き出すことは敵わない。
「腰と肩周りはサポーターでボリュームを出しとる。
 胸は逆にサラシ的な奴で抑えとるよ。」
 はやては平らに見える自分の胸を、ジャージの上から叩いて見せた。いつもは膨らみのあるところも、今
はなだらかな丘だ。
「ふーん、よく出来てるね。
 みんな気づいてないもんね。」
 席を立ちなのははしきりに頷きながら、机を回りぐるっと歩く。ホワイトボードの前を過ぎるその背を、
リインの目が右から左へ追いかける。「ふーん。」と難しげに唸りながら、なのはははやての目の前に立つ
と、その肩やら胸に両手を押しつけた。
「ちょっ、こそばいからやめてや。」
 遠慮無く体中を触る手に、はやては堪らず身を引いた。足を上げて腕を胸の前に合わせて肩もすぼめると、
椅子に付いたローラーでカラカラカラっとなのはから1メートルは後退する。
「あ、ごめん、ついうっかり。
 でもそういうのずっと着けてるのって、どうなの?
 ただでさえはやてちゃん、あんまり成長してないのに。」
 眉を顰め、気遣わしげに言いながら、なのはの視線は顔の前に寄せられたはやての両手から下がり、胸の
あたりを捉えた。
「こら、目が雄弁に語っとるで!」
 びしっと非難がましく人差し指を突き出すと、なのははころころ笑った。長い亜麻色の髪が肩口で揺れる。
艶やかな光沢が音もなく流れていた。はやては大仰にため息を吐くと、会議室の壁に掛けられた時計に目を
くれた。
「明日も早いし、初日からあんまり抜けるのもなんやから、そろそろ行くな。
 もう話も終わったことやし。」
 なのはが肩越しに時計を振り仰いだ。時計の長針はここに来てから一周を終えようとしている。もうこん
な時間なんだ、となのはがはやてに背を向けたまま呟いた。蒼穹を背負った後ろ姿は、だが、別れの言葉を
告げなかった。
「最近、だんだん分かってきたことなんだけど。
 人の性格って、どんな行動にも出るんだね。」
 腰を浮かせかけたはやては、中途半端な姿勢で動きを止めた。お尻と椅子がまだ別れを惜しんでいる距離
だった。
「そら・・・そうなんちゃうん、かな?」
 意識の上澄みの方に浮かんだ言葉をそのまま吐き出した。なのははこちらに向き直ると、壊れたデバイス
を持ち上げる。魔法を使う時のように強く握りしめると、金属片がいくつか床に落ちた。
「例えばね。はやてちゃんは、ここから」
 なのはは言いながら、まず自分の胸の中心を押さえた。胸の中心から軌跡を描くよう、その指先は肩へ、
腕へ、そしてデバイスを握る手のひらにまで伝っていく。
「ここまで。
 ずっと悩んでるんだよ。」
 なのはの指先は、デバイスと手のひらの間を指さした。なのはがはやての目を見た。
「はやてちゃんは魔力をリンカーコアで発生させる前から放出する腕の先までずっと、
 『これでいいのかな、大丈夫かな』って迷って、
 デバイスに流れ込む時にもまだ、『あ、駄目だ。』とか『大丈夫かな。』とか決めかねてる。
 だから、デバイスに流れ込む魔力量に大きな高低が出来て、デバイスが壊れるんだよ。
 わかってる?」
 はやては思わず自分が目を見開いたことに気づいた。昼間、なのはが駄目だと制止を掛けたのは、はやて
がデバイスを壊すより一瞬早かった。
「そうやっていつも迷ってるから、周りも見えてこない。
 だから、撃たれるんだよ。」
 彼女の仕草は確信に満ちている、彼女の胸にも頭にも揺るぎのない確信が既にあるのだ。なのはは何処ま
でか既に事を察したのだ。どういう顔をすればいいのだろう。そんな相手に、自分はどんな顔を今、してみ
せればいいのか分からない。ごまかす為の術を知らない。きっと繕って流そうとしても、彼女には通じない
だろう。
「どう、あってるでしょ?
 最近結構、経験が出来てきたのか、わかるようになってきたんだよねぇ。」
 なのははデバイスを手の中で回すと、軽く自分の肩を叩いて首を傾けた。白い歯がその笑みから覗く。
「ほほー、他の人はどうなん?」
 彼女は何処まで察しただろうか。己の職責を述べたとき、22名の訓練生と言ったのは、そこまで察し尽
くしていたからこそ口走ったのだろうか。それとも、ただ口が滑っただけだろうか。はやての狙いを、何処
まで彼女は見透かした?
「ん、そうだね。
 フェイトちゃんはね、いつもここで迷っちゃうの。」
 なのはの指がデバイスを叩いて、はやての胸元まで伸びた。その手ははやての目前の空気を掻いて、空中
で止まる。
「人に当たる直前で躊躇っちゃうんだよ。
 意思は硬いのに、人に届くところで止まっちゃう。
 だから、いつも一番にはならない。」
 立ち上がる途中の半端な姿勢で止まっていた筈が、いつの間にかはやてはまっすぐに起立していた。泥で
汚れたスニーカーには芝生の切れ端が数片付いている。乾いた泥をつま先で蹴り、はやては応える。
「こらまたずいぶん辛辣やないの。
 フェイトちゃんへこむんちゃう?」
 自分が危険な橋を渡っているかもしれない、その自覚がある。しかし、だからこそなのはに全てを話し難
い。彼女は既に、自らの訓練生に危機が及ぶことは許さないと反対の意を表明している。だが何より、なの
はを捜査に巻き込むことは出来ない。なのはは本来なら、療養しているべき時期なのだ。JS事件で負った傷
の後遺症は未だ治りきっていないことはシャマルから聞き及んでいるし、現在までの経過も知っている。機
動六課でさせた以上の無理を、彼女に課すわけにはいかない。元より、なのはがこの訓練の教導官をしてい
ることさえ、はやてには疑問を感じるのを禁じ得ない。この訓練は教導官にも強い負担となるものだ。
「んー、たぶん、そうだろうね。
 よほどじゃないと言えないよね。」
 下の階から笑い声が足下に響いた。なのはがリノリウム張りの床を一瞥して、目元を緩めた。居住まいを
正し、なのはははやてに向き直る。
「魔力を発生させるより早く、行動を起こすその前からちゃんと、
 どうするのか決めておけるようになったら、もっと制御もよくなるよ。
 それで周りも見えるようになったら、大丈夫。」
 狭い会議室の中で、なのはははやてを見通していた。
「きっと、良い魔導師になれるよ。
 人も自分も守れる、良い魔導師にね。」
 彼女の額を見上げながら、はやてはただ曖昧な音を漏らした。
 なのははやわらかく眉尻を垂らして、壊れたデバイスをはやての手元に突きだした。
「あと、このデバイスの始末書、書いたら私に持ってきてね。
 ナカジマくん。」