遠回りをして廊下を歩いた。
 自分のスニーカーが立てるゴムの音が足の裏から頭に伝わった。長い廊下は暗く、進むごとにセンサーが
反応し一区間ずつ明かりを点していく。暗いトンネルの奥へ、光を引き連れて歩いて行く。
『大丈夫ですか、はやてちゃん。』
 リインフォースの声が耳の奥底に木霊した。その囁きは、皆が寝静まる夜を迎えようとしている宿舎によ
く馴染む。初夏の夜、空気はまだ生ぬるかった。
『なにがー?』
 訓練生は皆、週末以外はこの宿舎に泊まることになっている。基本的には2人で1部屋で、はやても既に
同室の男の子と顔を合わせている。太い眉毛が印象的な木訥そうな男の子だった。年は18歳と言っていた。
ハヤテ・ナカジマより二つ年上だが、八神はやてよりは年若い。
『わかりませんか?』
 はやては元より、男性と同室になることも了解済みでこの訓練に参加している。だが、なのははどうやら
気にしているらしかった。わざわざ念話で問いかけてきたのだからよほどだろう。この訓練中、念話でなの
はが声を掛けてきたのは、それを除けば最初の柔軟運動の時だけだ。
 はやてはデバイスを肩に担ぎ、リインに答えた。
『思ってたよりずっと、高町教導官は優秀やね。
 人望も厚い。』
 訓練生達から、生の声を聞いた。噂よりも厳しい教導官だとか、期待していたほどでもないとか様々だっ
たけれど、誰もその表情は真剣だった。皆、高町教導官の訓練からは何か得る物があると感じている。捜査
が主眼にある自分にはやりにくい相手だが、今日一日訓練を受けただけでも、良い教官だと思う。教わる立
場になって初めて、教導官としての彼女本来の姿を自分は見たのだ。だが、今回はそれら全てが裏目だ。
『それよか、昼間送ったデータはどうやった。
 スキャンだけでいけそうか? 解析にどれくらいかかる?』
 この訓練を受け持つことになっていた元の教導官をはやては知っていた。教導隊の中でも彼にだけは、ハ
ヤテ・ナカジマは捜査の為に参加する人物であるので、訓練内容をやや軽くして貰えるようにと頼んであっ
た。この訓練に八神はやてが紛れ込むという情報を知る者をなるべく少なく保ちたかったためだ。その結果
がこれだ。公式に話を通さなかった為に、突然の担当替えで高町教導官に当たった。しかも彼女は厳しい。
ハヤテ・ナカジマにも、八神はやてにも。
『そうですね。明日のお昼までには全部終わりそうです。
 たぶん、実物を持ち出してもらわなくても大丈夫と思います。』
 訓練用の汎用デバイスを全てスキャンして作ったデータを、リイン達外部の者に解析させている。不正デ
バイスが抜き取る個人情報などについて調べるためだ。情報は汎用デバイスを倉庫から出す時など折に触れ
収集した。
『それはよかった。』
 おそらく、この捜査はデリケートな情報戦になるだろう。外部と接触する機会はなるべく減らしたい。特
に、デバイスを持って出るなどは避けるべきだ。既に、想定外だったなのはが話に噛んできている、これ以
上難しくすることは避けたかった。
『でもはやてちゃん。気をそらすためとはいえ、デバイスを壊したのはやりすぎだったじゃ・・・。』
 新しい電灯が光を点した。照らし出された左右の壁にある掲示物は、長年入れ替えられていないのか色あ
せている。ポスターの中で歯を見せて笑う女性の髪色はおそらく赤だったのだろうが、今は真っ白に落ちて
しまっている。頬の血色も色褪せた。
『あー、これな。』
 はやてはちらりと自分の右肩にあるデバイスを一瞥した。なるべく声を潜めて呟く。
『いや、作戦でもなんでもなくて、本当に壊しちゃっただけなんよねー・・・。』
『マイスター・・・。』
 こんな時ばかり、敬称で呼ばれると傷つく、と思った。
『やー、やっぱリィンがいないとダメやね。全然コントロールが出来へんかった。』
 二三言別れの挨拶を交わすと、はやてはリインフォースとの通信を切った。頭蓋の中にぼうっと広がって
いた音が晴れる。手にぶら下げたデバイスが小さな物音を落とした。
「そうやっていつも迷ってるから・・・ね。
 きっついわぁ。」
 なのはの言う通りかも知れない。
 だが、それでもはやてに退くことは出来ないのだ。
 口を動かし肺から息を吐き出すと、溜息は壁で跳ね返った。もう廊下は終わろうとしている。右に曲がれ
ば階段に続き、突き当たりの壁には一枚の窓ガラスが嵌まっていた。はやては窓に近づくと、埃で濁ったガ
ラス越しに外を覗き込んだ。屋内の明かりのために、自分の姿も廊下の様もその非晶質に写し取られている。
 夜の海が、針葉樹の木立の向こうに広がっていた。弧を描いて湾は続いていて、外洋は細い線だ。月明か
りは落ちているけれど、首を真上に巡らせても淡いその光源は見られなかった。照らし出された黒い雲の切
れ端だけが、屋上の影に切り取られ宙に浮いている。星団の一つ一つは瞬き、星座すら星の海に溺れる深い
夜。その合間の夜は、黒く。
 街の明かりは遠くて、夜空は、けがれないまま