服を乱れさせ、髪を汗で頬に貼り付け、彼女が廊下を走ってきた。走るなという制止の声は彼女の服の裾
すら掴むことができない。私はヴィータの背をさするのをやめた。一層小さくなったヴィータの肩に手を置
いたまま、角で立ち止まった彼女を振り返った。
 その目は瞬きを忘れていた。乾いた眼球を見開いて、荒れた息で肩を大きく上下させて、フェイトちゃん
は立ち尽くしていた。廊下の先に小さく、手術室の明かりが見えているだろう。ここは嗚咽の海だ。桃子さ
んが対面のソファでずっと顔を覆っていて、士郎さんがその肩を抱いていた。
「なのは・・・、は。」
 擦れた細い声が震えて落ちた。
「数年の療養を薦めているわ。」
 シャマルが文章に目を落としたまま答えた。機動六課内医局には3人しか居らず、シャマルの声は壁に跳
ね返って何度も耳に響き渡り、重なった。
「後遺症は大きいわ。
 事件からもう2ヶ月。
 さらに3日間の完全休息をとっても痛みが抜けていないし、最大魔力値も8%ダウンしてる。」
 フェイトちゃんが拳を握り締め、唇を噛んだ。
 私のせいだ。
 何が指揮官だ。何が部隊長だ。隊舎を丸焼きにし負傷者を出し幼い子まで連れ去られた。拡大した戦況を
納めたのはエースとストライカー達の力だ。私は何も出来ていない。私は、
「いらっしゃい、はやてちゃん。」
 おばさんがドアをあけてそう言った。私は車いすにすわったまま、おばさんを見上げた。おばさんの家は
門からドアまで、かいだんが3だんもあった。後ろで車いすをおしてくれていたかいぞえのお姉さんとおば
さんが、私の頭の上でかおを見合わせた。おばさんが家の中に向かってさけぶ。
「お父さん、はやてちゃん来たから、車椅子持ち上げるの手伝って!」
 かいぞえのお姉さんが私のかおをのぞきこんだ。見上げると晴れたまっ青な空とお姉さんがかさなって、
まぶしくて目をあけていられなかった。ちょっと待っててね、お姉さんはそうささやいて、私のに物を持っ
てかいだんを歩いてあがっていく。だんボール3つ分。三回も往ふくするのを、力のぬけた細い私の足がみ
ていた。ごぼうみたいだってこの前男の子に言われた。
「おう、来たのかい。」
 トレーナーをきたおじさんがサンダルをつっかけて出てきた。かいだんと私と車いすを見くらべて、おじ
さんはおばさんに何か言った。そうだ、大変に決まっている。毎日こんな車椅子と私を抱えてこんなところ
を上り下りするなんてやっていられない。帰りたい。家に一人で誰も応える人も居なくっていつも真っ暗で
寒くてもいいから、父さんと母さんと住んでいたあの家に。帰りたい。
「もう帰って来ないのよ!」
 女性の平手が飛んできた。思わず避けてしまった私の鼻先を、その手は掠めた。彼女はつんのめって、隣
に立っていた男性に腕を掴まれた。やめろ、彼は抑揚を押し殺して言った。でも、彼女は止まらない。腕を
振りほどこうと顔を真っ赤にしながら、暴れて絶叫する。
「許せって言うの!?
 あの魔導書のせいであの子は死んだのよ! わかってるの!?
 あんなものさえ無ければ!!」
 私はシュベルトクロイツを握り締めたまま、黙って立っていた。足元のアスファルトに、黒い影が落ちて
いた。
 そうだ、わかっている。そうだ、そうだ。私は、
「はやて。」
 目の前にクロノくんが立っていた。
 覚えのある気がした。いつかの記憶だ。クロノくんが口を動かす。けど、何を言っているかわからない。
何を言っていたか思い出せない。ただ、クロノくんは
『はやてちゃん、起きて下さい。』
 はやては目を開いた。
 飛び込んできたのは灰色の分厚いカーテンだ。起き上がり、肩越しに隣のベッドを確認した。そこには誰
の姿もなく、ベッドは最後に見たまま、荷物が乱雑に広げられている。くたびれたスポーツバッグの中から、
Tシャツが一枚はみ出していた。
『はやてちゃん、起きられますか?』
 部屋は静まり返っていて、頭の中にだけその声が響く。気遣いを感じさせる、穏やかな優しい声音だ。耳
の奥から染み込んで、体にあまねく広がっていく。はやては立てた膝に凭れ掛かり、前髪を掴んだ。
『はやてちゃん。』
 指の先まで広がるような、こんなに優しい声に満たされながら、私は何を求めているのだろう。
 どうして夢の中なのに、思ったのだろう。自分に何かあっても悲しむ人間は、なのはよりよほど少ない、
なんて。頬を膝に押し付けると、何故か、頬を一滴涙が伝っていた。
「兄妹そろって目の前をちらちらしよって。」
 声に出して呟くと、はやては膝で涙を拭った。
『ありがとう、リイン。今は?』
 思念通話に答え、はやては枕元に置いたスポーツタオルを手に取った。首筋に浮かんだいやな寝汗を拭う。
『夜間訓練まであと1時間程度です、マイスター。』
『結果は。』
 スリッパを足に突っかけ、はやてはユニットバスへ歩いた。彼は一ヶ月半同室になるハヤテに気を遣って
いるようで、ベッドの上以外には荷物を散らかしてはいない。はやてはタオルを肩に掛け、薄い扉を開いて
一段上がった。
『やっぱりありました。
 今回訓練用に出されているもの25本のうち5本から、情報収集回路を発見しました。
 使用者の魔力とリンカーコアから、魔法適性、魔力量などを解析し保存するものです。』
 狭いユニットバスはルームメイトがシャワーを浴びてから40分を過ぎようというのに、湿気がまだ残っ
ていた。洗面台に設けられた鏡は水滴に曇っている。鏡に映るはやての姿には顔が無い。
『そか、5本か。』
 蛇口を捻った。陶器の洗面台で水は渦を巻き、排水溝へと呑み込まれて行く。頭上では換気扇が回ってい
た。混合率20%を低いと見るべきか、高いと見るべきか。管理局所有の汎用デバイスには複数種類あるが、
最も高い頻度で利用されるのが今回問題にしている汎用デバイスだ。特に同型の汎用デバイスの中でも、は
やてが訓練用に先ず手をつけたのは、疑似デバイスが紛れ込んでいる確率が最も高いと考えたからだ。それ
は、訓練用は最も多くの人が手にするため、犯人達が人を探しているなら訓練用を狙うだろうという推測に
基づいている。だがそれでも、数多いる管理局員の中から、レアスキル所持者を探すに充分な数と言えるだ
ろうか。推測が正しいならば、高くて20%ということだ。充分でないならば、人を探しているというはや
ての仮定は崩れるかも知れない。それとも、探している相手が汎用デバイスを使っている者に限られるなら
ば、充分と言えるだろうか。これには議論が必要だった。
『以前に見つかった物とほぼ同じですね。
 ただ、周囲の音声を保存するための装置が入ってます。』
 はやては冷たい水に手を浸した。
『盗聴器か。』
 腰を屈め、蛇口に額を近づけて顔を洗う。水の飛沫がやわらかく皮膚を覆い流れていく。
『そんなところです。
 使用者を特定するためでしょう。』
 三度、水に顔を浸すと、はやては目を瞑ったまま蛇口を閉じた。鼻の頭から水が滴り落ちる。肩にかけた
タオルを取ると、顔面を埋めた。
『データはどうやって盗聴主に送っとる?』
 昼間も汗を拭くのに使ったタオルは湿っていて、少し気持ちが悪かった。だが、すっかり水も拭き取って
しまうと、随分涼しい。前髪が顔に垂れない分、顔を洗ってもタオルで拭くだけで充分なのは、この髪型の
良いところだ。
『そのスキームは今までのものと同じです。普段は送信しません。
 一定範囲内に入ったデータ受信機からの信号によりデバイス内の送信機が作動して、
 それまでに蓄積したデータを送信します。』
 洗面台に落ちた数本の短い髪を拾いゴミ箱に捨てると、跳ねた水をタオルで拭いた。明日にも洗濯をしな
ければ、着るものに困りそうだ。はやてはタオルを丸め、バスルームを出る。
『なら、今すぐに受信者を探す事は無理か。』
 ドアノブを引いて、バスルームと居室を隔てる。
『ええ、そうですね。』
 リインフォースの返事は心無しか鈍かった。この訓練に潜入する前、強硬に反対したリインフォースを思
い出す。はやては唇だけで笑って、窓際に置いたスポーツバッグにタオルを投げる。水を吸ったタオルは重
たい手応えでバッグにぶつかった。
『せやけど、リアルタイムで相手が情報を得られんのは、ある意味チャンスかもしれへんよ。』
 このチャンスを逃す手は無い。管理局内で最も使用頻度の高い汎用デバイスのうち、訓練用として登録さ
れている物を犯人達が狙って5本の疑似デバイスを仕掛けたのだとすれば、犯人達は管理局の内情を良く知
っているということになる。あるいは、教導隊に話を通さなかったのは正解だったのかも知れない。
『そうですけど・・・。この作戦にするんですか。』
 明らかに躊躇いを含んだリインの声が木霊する。はやては歯を見せると、ベッドの端に腰を下ろした。
『他に良い方法が無いやろ。レアスキル所持者は私しかおらんし。な?』
 はやては当初、教導隊を疑ってはいなかった。教導隊隊員ならば、もっと手っ取り早く、詳しくレアスキ
ル所持者を知る方法があると考えたからだ。しかし、レアスキル所持者に対する情報規制は厳しく、管理局
がこの事件を重く見ているのも、その秘匿性の高い情報が漏洩していることを危険視しているためだ。本当
に、レアスキル所持者を容易に教導隊の皆が知る事が出来るならば、秘匿性が高いとは言い難い。自分の認
識が誤っていた可能性がある。教導隊隊員を疑わないのは妥当だろうか。教導隊隊員ならば、選択的に混入
させた疑似デバイスを訓練に採用する事も可能だ。ならば、混合率20%でも充分と言えるのではなかろう
か。
 そこまで考えが及んだとき、リインフォースの返事が聞こえた。
『はい。』
 それから、次回の連絡時刻を告げ、通信を切った。
 体に響いていた声は消えてしまった。残っているのは疲れから来る倦怠感と、空調などの機械の作動音だ。
灰色の分厚いカーテンは窓を覆ったまま沈黙している。