真っ白だ。
 視界いっぱい、全部が真っ白だ。
 雲に覆われた空が、吐いた息が。
 週明けからの予報通り、今日か明日には雪が降るのだろう。ヴィータはベンチの背もた
れに頭を預け、空を見上げたまま息を漏らした。冷たい風が、それを浚って行く。
 あの日も、雪が降っていた。リインフォースと別れた日。なのはが落ちた日。
「あんま、雪っていいことないな。」
 呟いて目を細める。はやてが小さかった頃は、雪が降るたびに大騒ぎだった。はやては
雪が大好きだった。歩けるようになってからはやては外に出たがりにもなったから、尚更
雪の日は大はしゃぎで、一日中遊び続けることだってあったくらいだった。時々、寂しそ
うに空を見上げていることもあったけど。
 きっと、今日みたいな日だったら、朝起きて外を見て、少しため息を吐いて。でも、す
ぐにリインと一緒になって、雪が降るのを楽しみに外を見つめるんだろう。リビングのソ
ファではザフィーラがいつもみたいに丸くなってて、アギトはリインに子供っぽいと突っ
かかって、その横ではシグナムが雪遊びをしたそうにそわそわしていて、シャマルはそれ
を笑って眺めてる。そして、自分は冬物の箪笥から手袋を探してるんだ。いつ降っても、
雪で遊べるように。積もったら直ぐに飛び出せるように。
 ざり、と背後で砂を踏みしめる音がした。
「主の元に行くのではなかったのか。」
 一面の雲の景色に舞い込んだその影に、ヴィータは少し顔を歪めた。厚手の黒いロング
コートを着たザフィーラの姿が、首に巻いた灰色のマフラーに口元を埋め、ヴィータを見
下ろしている。
「行くよ。
 そのうち。」
 短く言い切り、ヴィータは座りなおす。視線を下ろすと、目の前にはのどかな冬の公園
が広がった。並木道。葉は全て落ちて、枝だけが空に腕を伸ばし続ける、モノトーンの道。
春には淡い色の花を咲かせる木も、今は何もない。秋の黄色く色づいた眩いばかりの並木
道でもない。ずっと、この道の先へ行けば、はやてが入院している病院に着く。ただ、そ
れだけの道だ。
「そうか。」
 ザフィーラはそれだけ言って、近くの木の幹に背を預けた。
 何処かへ行ってしまって欲しい気がした。でも、そこに居て欲しい気もして、ヴィータ
は手を握り締める。今日は一段と寒いせいだろうか、人影はなく、遠くで鳥が鳴いている
声だけがした。高く、よく響き渡る声。
「あれ、なんて鳥なんだろうな。」
 僅かに顔をあげ、ザフィーラは声がした方、家々の屋根が連なる並木の向こうへと目を
やってそれから、知らない、と答えた。
「そっか、あたしも知らないけど。」
 そう言って、ヴィータは目を伏せる。
「今日、高町から顔を見せると連絡があった。
 昼頃には来るらしい。」
 ザフィーラが告げると、そっか、とヴィータは頷いた。落とした視線の先、足元にある
自分の影は薄かった。この曇り空のせいだろう。弱い光ではろくに影も出来ない。ヴィー
タは妙に白く感じる自分の掌を見つめた。
「なんか、不思議だよな。
 いつもはさ、旅行に行きたいから休みを合わせようって言ったって、
 なっかなか全員予定を合わせられないのに、
 こんなときばっかり、簡単に皆揃うんだから、さ。」
 ヴィータは口の端を持ち上げた。自嘲めいた笑みがそこに浮かぶ。
「こんなときばっかり揃ったって、仕方ないよ。
 旅行とか、そういう時に揃ってたら、
 もっとみんなでいろんなこと出来たのに、さ。」
 今日か明日か、初雪が降って。きっとそれでも、この手は手袋を嵌めることはないのだ
ろう。ポケットに突っ込んだまま、それで終わりだ。きっとこれから毎年、そういう風に
雪の日は終わっていく。
 今日も、明日も、その先も、来年も、再来年も、ずっと先も、もうきっと雪では遊ばな
い。もう二度と、雪は楽しい日にならない。
「おかしいよな。
 ほんと、おかしいよ。」
 この先、毎日がそんな日になるんだろう。雪の降らない日も、晴れた日も、夏も、秋も、
春も。
「あたし、知んなかったんだ。」
 ヴィータが両手で頭を抱えた。俯いて、背を丸めて。ザフィーラは黙って、ヴィータを
見つめていた。表情も変えずに、ひたすらに無表情で、ヴィータを見ていた。
「こんなに死ぬのが悲しいだなんて、知らなかったんだ。」
 言葉を吐き出して、ヴィータは乾いた笑い声を漏らした。見開いた目の縁、視界の隅が
僅かに歪んで、ヴィータは頭蓋に爪を立てる。鈍い痛みに、少し目を細めて笑って、息を
飲み込んだ。そうして、呟いた。
「夢を、見たんだ。」
 ザフィーラが顔を上げた。体を丸める小さなヴィータの背を見る。ヴィータは下を向い
たまま、続けた。
「なんでもない朝なんだ。
 カーテンの隙間から、白い雲と青空が見えてさ、涼しい朝の匂いがするんだ。
 それで、まだ頭がぼーっとしてるんだけど、
 あたしはリビングにそのまま歩いてくんだ。」
 泣いているような、笑っているような、どっちともつかない声だった。初めて聞く声だ
った。ザフィーラは何も言わず、少しも動かず、ただ僅かに険しい瞳をして、ヴィータの
話に耳を傾け続ける。なんでもない夢の話。なんでもない朝の話を。
「リビングに行くと、お前はやっぱりいつものところで丸くなっててさ。
 シグナムはテーブルに座って新聞を見てるんだ。
 そのテーブルの上では、リインとアギトが最後のリンゴ一切れを取り合いしてて、
 シャマルは朝ごはんの支度をしてるんだ。」
 ヴィータは小さく笑い声を上げた。
「あれ、はやては? ってあたし、シャマルに聞いたんだ。
 このときにはもうあたし、半分くらい起きててさ。
 そしたらシャマル、こういうんだよ。
 困ったような、呆れたような顔をして、
 何寝ぼけてるの、って。」
 笑いながら、話し続ける。頭を抱えたまま、足元の薄い影を見つめて、なんとか唇を動
かして。
「あたしはそれで、ああ、そうだっけ、って返事をするんだ。
 そんで、席について牛乳を飲んで、それで終わり。」
 ヴィータは呆れたように言って顔を上げ、空を仰いだ。前髪が吹く風に散らされて跳ね
る。
「ほんと、それだけなんだ。
 それで終わりなんだよ、もう他には誰も起きてこない。
 みんな、それが普通でさ。」
 明るく言い放った口の端を、涙の粒が零れ落ちた。
「はやてが居ないのが当たり前になって、それでも、今までみたいに毎日が続いてて。
 みんな、普通の顔してて・・、それで・・・っ。」
 嗚咽の衝動が込み上げて、ヴィータは唇を引き結んだ。息も声もひっくり返して泣いて
しまいそうで、肩を跳ねさせながらも、手で服を握り締めた。
「そんなん嫌だ。
 はやてが居なくなるのなんて、嫌だよぉ・・・っ。」
 歯を食いしばって俯くと、閉ざした目蓋の間から、涙が溢れた。
「死ぬのがこんなに悲しいって、知らなかったんだ。
 知らな・・・かったんだ。」
 両手で顔を覆って、ヴィータはしゃくりを上げて泣きだした。
 たぶん、勘違いをしていたんだ。死ぬことも出来ないまま生き続ける、その長い過程の
中で、何度も破壊と再起動を繰り返すその中で。死とはこんなものなのだ、と。
 ザフィーラの髪を風が揺らした。自分は知っている筈だった。昔は、遥か昔は野を駆け
る狼だったから。食うこともし、仲間が息絶えるところも見てきたから。それなのに、今
はもう、よく思い出せない。
「遠くへ、来たんだな。」
 呟いて、ザフィーラは空を仰いだ。
 空は雲に覆われて、真っ白だった。