ひゅう、と

 空気が隙間から抜けるような音を


 させて


 口を開いて


 顎を上に


 むけて


 繰り返す呼吸音が、



 降り積もる。
 音の無い病室に、切々と。

 その音はすべての物から意味を奪ってしまう。空を覆う雲を透かして降り注ぐ真っ白の
光も、窓枠に縁取られた朧な日溜まりも、みな、薄い色水の作る朧な姿しか持っていない。
座って、ただはやてを見つめていることしか出来ない自分も、何も意味が無い。
 あるのはただ、はやてが繰り返す苦しげな息遣いだけ。
 はやてはこうやって死んでいくんだ、っていう実感だけ。でもそれももう、体に馴染み
きってしまって、麻痺してよくわからない。もう何も痛まない。時折、空虚な涙が頬を伝
うだけで。
 はやてと、もっとずっと一緒に居られるんだと思ってた。家族になろうって言われたか
ら。唐揚げ食べて火傷して、あほ面で笑ってたから。甘やかされて、甘ったれた顔をして
いたから。一緒に生きてくのがいいんだ、って、言ってたから。
 だから、もっとずっと一緒に居られるんだと思ってた。
「なのに、こんなに早いなんて、な。」
 ぽつりと溢れた呟きが、アギトの唇から落ちた。
 本当に、信じられなかった。だって、ほんのちょっと前はあんなににこにこ笑っていた
のに、今だって眠ったままでだけど、ちゃんと目の前にいて息をしているのに。それなの
に、いずれ死んでいなくなるという。しかも、長い間苦しんで。
 もう、恨まずにはいられなかった。
 憎まずにはいられない。
 今もどこかでのうのうと生きている、はやてを刺したあの男を。そんなのを生かしたま
まにしている他の人間だって。
 憎い。
 だって、奪うのはいつも人間だけだ。傷つけるのは人間だけだ。ゼストを死なせたのも、
ルーテシアの母があんな風に扱われていたのも、自分が実験にばかり使われていたのも、
記憶を失ったのも、はやてが、死のうとしているのも。
「許せないよ。」
 いつの間にか握りしめた拳の中、爪が掌に深々と刺さっていた。もし、自分の拳を自分
で握り潰せたとして、この感情を握り潰すことは出来ない。拳には、振り下ろす先が必要
だ。振り下ろした先で、何かを叩き壊さねば止まらない。破片で自分の手を血塗れにした
って。
 だって、もう信じられない。ゼストが守ろうとしてきたから、はやてが守ろうとしてい
るから、そんなことだけじゃもう、こんな人間を殺さないでいた先に幸福があるなんて信
じられない。
 人は、共に生きる中に幸せがあるなんて、信じられない。
「信じられないよ、シグナム・・・っ。」
 溢れてきた涙が視界を覆って顔が濡れて、アギトは拳を握ったまま顔を擦った。目を硬
く瞑れば景色は夜に閉ざされて、夜空の中浮かんだ人は穏やかに笑っていた。もう、手の
届かないところで。
「守りたいものなんて守れないよ、・・・旦那ぁ。」
 アギトは声を噛み殺して泣いた。
 本当に守りたいものは、信じた人が残した意志と、あのあほ面がある家だったのに。
 もっと、家族で居たかったのに。

 啜り泣く声が病室に満ちていて、シャマルは足を止めた。台の上、機材の合間に座り込
む背中を見つけると、黙ってベッドへと歩み寄った。目の前を通ってもアギトは顔を上げ
ることもなく泣いていて、だから声も掛けずにシャマルははやての頬へと手を伸ばした。
 朝の白い光に輪郭を縁取られた顔は蒼白だった。痩せた頬に落ちた影ばかり色が濃い。
だが、それでも昨日の夕方よりは幾分血色はよかった。シャマルはそれだけ見て取ると、
はやての頭を撫でる。細めた瞳に、一筋の光が差し込んでいた。
 あれから、二回夜が明けた。二回、落ちる星々は黄色の雨を降らせ、朝焼けは地平線を
灼いた。それすら遠く感じるほどに、病室は静かで、はやての顔は白かった。
 シャマルは言葉も無くはやての髪に触れ、やがてアギトの涙も静寂に飲まれた頃。
 ドアが二回、ノックされた。返事もせず、振り向きもせずにいれば、ドアは音を立てず
に開いて、二人の人間の姿をそこに描き出した。
「すみません、失礼します。」
 潜めた声音でそう言って入って来たのは、フェイトとティアナだった。