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 ドアを振り返ったシャマルの指の間を、はやての髪の毛が擦り抜けた。
「突然すみません。
 昨晩からずっと付いていると聞いたもので。」
 フェイトは頭を下げると、ティアナを伴ってシャマルの方へと歩み寄った。なるべく音
を立てないようにと刻まれる歩みはわずかな風を起こして、アギトの目の前を通り過ぎる
時、その髪を揺らした。
「フェイトちゃん。」
 シャマルが応じて、三人が軽く挨拶を交わす。潜められた声に、アギトは目蓋を押し上
げた。乾ききらない涙の雫が睫の先で震え、乱反射した光が滲んで溢れている。霞んだ景
色の存在感は朧で、アギトはぼうっと開いた眼に皆の姿を映した。壁際ではやてを見つめ
ながら立つシャマルと、ベッド脇の丸椅子に腰掛けたフェイトと、一歩引いた所に控えて
いるティアナと。
 フェイトが毛布の上に横たわるはやての左手を握り締めた。そして、その唇が緩やかに
動く。
「はやて。」
 空気に溶けていくような声だった。
 紡がれた名前は、帯のように差し込む光の中を縫い、波紋のように広がっていく。たっ
た一つきりの音。それを見つめて、真摯な眼差しが眼窩の内で揺れている。
 アギトはまた目頭が熱くなるのを感じて、顔を背けた。足下、リノリウムの床に視線を
落とす。淡いライムグリーンの床にはいくつか白く何かを引きずった痕があるだけで、塵
一つ落ちてはいない。ぼんやりとした物の影が薄く伸びているだけで。
「その。
 少し、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
 ぽつ、とフェイトの声が響いた。輪郭の整った声は、呼びかけられたシャマルだけでな
く、アギトをも振り返らせた。
「どうかした?」
 シャマルの瞳が滑り、フェイトを向いた。
「ええ、その。」
 応じられてしかし、フェイトは言い淀んで唾を飲み込んだ。その音は、はやての呼吸音
しかない室内で妙に響きアギトの耳を撃つ。窓からの逆光に縁取られたフェイトの姿は淡
い影に沈んでいた。
「今、シグナムがどこに居るかご存知ですか?」
 ひゅう、と細いはやての息遣いが間隙をついた。フェイトの真紅の瞳が、シャマルを捉
えている。真摯というにはあまりに食い入るような眼差しに、アギトは自らの服の裾を握
り締めた。硬い生地が、手の中で悲鳴を上げる。
「はやてちゃんの容態が変わった後から見てないわ。
 家には居なかったかしら。」
 フェイトが、それと見て判る程に顔を歪めた。端正な顔に皺を刻み、唇を引き結ぶ。告
げたシャマルははやてへと向き直った。柔らかな仕草で手を伸ばし、はやての髪に触れる。
「ここに来る前に立ち寄りましたが、誰も。
 直接の通信も何度か試みているのですが、一度も通じていなくて。」
 膝の上に置いた自分の手を見つめるフェイトの横顔には窓からの光が掠めているのに、
瞳に差し込んではいなかった。代わりにか、口の端から僅かに歯が覗いて唇を噛む。
「シグナムが、どうかしたのか?」
 アギトの言葉に、ほんの一瞬だけ、フェイトが目を見開いた。それから、穏やかに微笑
み直して、軽く首を傾げてみせる。
「アギトは最近、シグナムに会ったりした?
 今、連絡とれたりとかするかな。」
 優しげな笑みに隠した真剣さが、その双眸に透けていた。隠れきれていないそれは、ア
ギトの胸の中心を射抜く。どん、と鼓動が打つ。
「いや、ここんところ、見てねぇけど。
 連絡も、別に。」
 フェイトの顔が、笑みを湛えたまま泣きそうに歪んだ。それでも涙を滲ませず、殊更笑
みのように口角をつり上げて、一言呟く。
「そ、っか。」
 アギトは手を自分の胸に押し付けて、硬く拳を作った。手の裏で拍動が続く。
「なにか、あったのか?」
 訊くと同時に、アギトは自然と喉を鳴らしていた。フェイトは即座に答えない。顔を俯
けて、膝の上に揃えて置いた手を握り締めているだけで。
「なんとか、言えよ。」
 促した自分の声が、何故だか震えていた。言い知れぬ気持ち悪さが込み上げて来て、ア
ギトは眉間に力を込め、控えているティアナを一瞥する。黙ったままのティアナは、フェ
イトの背中を見下ろしていた。
 ふ、とフェイトの口から長い息が漏れる。
「少し、話したいことがあります。お時間よろしいですか?」
 顔を少し上げ、フェイトがシャマルを見上げた。金髪の間から覗く双眸、その表面で光
が揺らいだ。それは、窓の外、空を切り取って薄暗い横顔とは対照的に僅か輝いて。
「アギトも、いいかな。」
 囁くようにフェイトは言い添えた。それにアギトは、「ああ。」と短く答える。いつの
間にか勝手に口から漏れたその返事は、空気が抜けたみたいな音がした。
「ええ、そろそろ回診の時間だし、構わないわ。」
 唇だけでそう答え、シャマルがはやての頬に触れる。光に面して立つその姿は明るく彩
られていて、はやてを見つめる眼差しには、先程と変わらぬ一条の光が差し込んでいた。





 病院の中庭は、ほとんどの木々が葉を落とし、焦げた色をした枝を空に向かって伸ばし
ている。新たに落ちる枯れ葉もなく、煉瓦敷の舗装の上を砂埃だけが転がっていく。その
冷たい風は今にも降り出しそうな雪を待ち侘びて、辛うじて葉を残す低木を揺らし、フェ
イトの黒いコートの裾を翻らせた。
 雲の作る真っ白いキャンパスに、皆の姿は色濃く描かれた絵みたいだった。冬の景色に
馴染み切れず、浮き上がっているのは自分だけで。
 フェイトは吐き出した息が白く濁り、空中に広がっていく様を見ながらそんなことを思
った。鳥の鳴き声すら響いては来ないあまりに静かな中庭では、病院の外を走る車の排気
音は遠く、耳鳴りのように鼓膜を震わせる。
「件の質量兵器密輸犯の潜伏先が、先日特定されたんです。」
 フェイトはそう告げると、アギトとシャマルの方を振り返った。始まりの合図だった。
それまで沈んだ顔をしていたアギトが目を丸くしてフェイトの顔をまじまじと見つめ、一
方でシャマルはなんら顔色を変えずに立っていた。フェイトはそんな二人の様子を注視し
て言葉を続ける。恐らく、二人にとって非情な事実を伝えるために。
「ですがそこは内情の不安定な管理外世界であり、
 密輸犯は政府内部に深く関わっていることが判ったため、
 管理局は直接の捜査に入ることを断念しました。」
 瞬きを忘れた目が、フェイトを映していた。映しているだけで、見てはいない瞳。アギ
トは間接が乾いているかのようなぎこちない動きで、唇を動かした。
「捜査を断念したって、どういう、ことだ?」
 震える右手が髪の毛に突っ込まれ頭皮に爪を立てた。
 フェイトが微かに言い淀む。その足下で、影は曖昧な黒ずみにしかならない。雲に覆わ
れた空には太陽は見えず、影すら作ってはくれなかった。じり、と靴の裏で小石がすれて
不快な感触を残す。
「管理局は犯罪者を捕まえるだけじゃなく、
 魔法を持っていない世界を守ることも大切にしているんだ。
 そしてそれは必ずしも、武力突入すれば果たされる物じゃない。
 これまでの歴史から非魔法社会にとって最も憂慮すべき事柄は、
 時空管理局の存在の認知だって判ってるから。」
 自分の頭に爪を立てるアギトの眼差しが、だんだん黒く塗り潰されていく。薄く開いた
唇の端が引き攣っている。まるで笑い出す寸前みたいに。フェイトは小石を踏み潰し、言
い続ける。
「だから、管理局はその管理外世界を」
 瞬間、アギトが激昂した。
「捜査を断念したってどういうことだって言ってるんだよ!!」
 絶叫はフェイトの言葉を引き千切り弾ける。吹き付けた怒りに、フェイトは顔を歪めた。
「はやてを刺した奴が隠れてんだろ? 逃げてんだろ?
 なのに、どうして捕まえようとしないんだよ!
 お前ら絶対捕まえてみせるって言ってたじゃないか!!」
 燃え上がる眼差しはフェイトを焼き滅ぼそうと炎を上げ、強ばった体からは熱が巻き起
こる。それに耐えるよう、フェイトは硬く唇を噛み締めた。顔が内心を示し表情を作り変
えようとするのを堪える為に、掌に爪を突き刺して。
「私だって、見ているだけなんて悔しい。
 だけど、直接手を出さない方が良いという管理局の判断は、間違っていないと思う。
 今あの世界に魔法社会の存在を焼き付けることは、
 大きな影響を及ぼす可能性が高いから。」
 過去、時空管理局はその歴史に於いて、非魔法社会に自身と次元世界の存在を広く認知
させたことが旧暦時代から数えて数度ある。その結果、対象世界が戦時下にあった場合に
事態が好転したという事例は存在しない。全て、正視出来ないような結果を与えて来た。
それは管理局に勤める者なら皆知っていることだ。
 だが、アギトの怒号はフェイトに突き立った。
「だからって野放しにするのかよ?」
 地を這う程に低い声が響く。彼女の中で熾る業火が、瞳の奥で爆ぜる。
「お前ら、はやてが刺されて死にそうだっていうのに、
 あんな奴らがのんきに生きてて、それで良いって言うのかよ?
 はやての仇よりも、そっちの方が大切だって言うのかよ!?」
 噴き上がる怒りが止まらない。憤りが体を突き抜けて世界が真っ赤に染まる。アギトは
目の前に閃光が走るのを見た。腕に力が入り、爪が頭を強く引っ掻き鈍い音が頭蓋を引き
裂く。
「そんなことを言ってるんじゃないよ。
 ただ彼らを捕まえる為に、他の物を壊す訳にはいかないって―――。」
 フェイトの返答にアギトは吼える。
「同じことだ!
 どうしてそんな奴ら放っておくんだよ!
 お前どうかしてるんじゃないのか!?」
 その時、それまで黙っていたティアナが一歩踏み出した。
「それは言い過ぎです!」
 弾かれたようにアギトが振り返ると、ティアナは厳しい面差しをアギトに向けた。
「時空管理法は元から、
 次元犯罪の犯罪者確保よりも、非魔法社会の法益保護を優先しているんです。
 なのに、どうかしてるなんて言わないでください。」
 ティアナが確固たる口調で以て言い放つ。背筋を伸ばして立つ姿に迷いは無く、アギト
の発言を断罪する。
「それに、はやてさんがこんなことになって、
 その上犯人まで捕まえられないっていうのに、悔しくない訳ないじゃないですか!
 手の届く所に居たって言うのに。」
 言いかけて、ティアナは口を閉ざす。アギトもまた言葉を飲み込んだ。悔しくない訳が
無い。それが本当だと判っていたから。ティアナは怒りを込めた拳を、復讐も破壊もせず
握り締め続けた人だと、もう知っていたから。
 フェイトは黙り込んだ二人を見渡した。そうして、二人が話すことも顔を上げることも
しないのを見て取ると、改めてシャマルに向き直る。
「管理局はそれから、他の次元世界での犯行の取り締まりと、
 質量兵器の密造が行われている管理世界の摘発へと捜査方針を転換させています。
 私達はその中で、本部の動向から離れ、
 第121管理外世界と周辺区域の監視を行っていました。」
 流れていく話を耳にしながら、アギトは静かに、空中からすぐ傍のベンチへと降り立っ
た。病院の中庭に一つだけ置かれた、古ぼけたベンチ。手摺にも足にも、落としようもな
い錆がこびり付いたベンチに立ち、アギトは皆に背を向ける。自分の姿が朧げに背もたれ
に浮いていた。
「そうした所、ミッドチルダの時間で二日前の深夜、
 丁度はやての容態が急変した日の夜、121世界内で異常な魔力波を感知しました。
 魔力の発生源は質量兵器の密輸犯達が拠点にしている施設を覆う結界でした。」
 風が吹く。地の底から吹き上げるような風が、アギトのことも、他の皆のことも叩いて
熱を奪っていく。風が裂ける音が何処で鳴っていた。
「観測精度が低さの為、結界内部の様子を探ることは出来ませんでした。
 ですがそのまま監視を続けたところ、複数の次元転移を観測。」
 関係がない。フェイトがこれ以上何を言おうが、管理局がこれ以上何をしようが。犯人
を捕まえることが出来ないならば。
 はやてを助けることができないのならば。
 関係ない。
「追跡の結果、転移者を件の質量兵器密輸犯らであると確認し、」
 もう何も、守れはしないのだから。
 一際冷たい風が、アギトの耳を切る。その時、
「ただちに彼らを逮捕しました。」
フェイトの声が耳朶を叩いた。

「え・・・。」
 逮捕。
 胸中でその言葉が谺する。反響を繰り返しながら、いくつも重なりその言葉は鳴り響い
た。
「逮捕、されたのか?」
 アギトはいつの間にかフェイトを見上げていた。真円に見開いた目に、佇むフェイトが
入り込んでくる。フェイトはゆっくりとアギトへと振り向くと、無言のまま頷いた。
「それで、はやてを刺した奴は捕まったのか!?」
 アギトは思わず身を乗り出していた。ベンチを蹴り上がり、フェイトの眼前で手を振り
声を荒げる。今までと違う汗が掌に浮かぶのをアギトは感じた。期待が胸中で弾けそうに
膨らんでいく。だが、フェイトは眉を垂らすと、ごめんね、と小さく呟いた。
「まだ手配犯との照合が済んだ訳じゃないから、
 その人が捕まえられているかどうか、はっきりしたことはまだわからないんだ。
 全員捕まえられてるわけでもないし。」
「そう、か。」
 呆然と息を吐き出して、アギトはゆっくりと高度を落とす。だがその双眸は爛々と輝い
ていた。フェイトはアギトの瞳に宿る光に気付くと、深く息を吐いた。
「それで私達は、その襲撃者を捜索しているんです。
 管理外世界に於ける無断での魔法行使は禁止されていますから。」
 吐き気がした。妙に寒くて、手足の先がかじかんで。手袋に包まれていても指先に感覚
はなく、ゴムのような手はいくら握り締めても暖かくはならない。冷えきった空気を吸い
込む鼻が痛い。そう感じながら、フェイトは言った。
「例え管理局員であっても、今回は不干渉の決定が下っているので、
 犯罪とされる可能性があります。
 なので私達は、その人物を逮捕しなければなりません。」
 フェイトは顔を伏せた。しかし、アギトの声がその身を撃つ。
「なんだよ、それ。」
 押し殺した言葉尻が震えていた。寒さによる震えよりももっと明確に、彼女の心の内を
描き出すように。アギトは声を荒げた。
「あいつら悪党だったんだろ?
 お前らじゃ手出し出来なかったものを、捕まえられるようにしたんだろ?
 それの何がいけないっていうんだよ。」
「アギト、だからそれは、」
 途端、ティアナが口を挟んだ。アギトはティアナを睨みつける。
「そりゃあ、やっちゃ駄目だって決まってたにしても、
 そいつら追い立てて捕まえさせて、何がいけないんだよ!」
 アギトが叫ぶ。
 言い募る二人の口から溢れる息が白く濁るのを眺めて、フェイトは目を閉ざした。自ら
の吐く息は細い。そのせいだろうか、妙に息苦しかった。心臓が煩くって、空気が薄いみ
たいに。それでもフェイトは目蓋を開き、アギトを見据えた。
「立件するかどうか、実際に責任を負うかどうかは、
 事件の詳細がはっきりとしてから決めることだ。
 それが良いか悪いかは、今は別の問題だよ、アギト。」
 管理局法が最も優先するのは、非魔法社会のあらゆる法益の保護であり、結果無価値論
の立場が有力である現状に在っては、第121管理外世界への影響の度合いによっては、
対応も変わってくることもあるだろう。
 フェイトが言いたいことはそんなことではない。聞かなければならないことも、そんな
話ではない。フェイトはそのままの勢いでシャマルへと矛を向ける。牙を剥くアギトの表
情なんて知らない振りをして。
「襲撃者は高度な魔導師であったようで、逮捕者の中にしかと見た者は少ないらしく、
 供述はあまり信憑性が高くありません。
 なので大きな手掛かりにしているのは現場の状況です。」
 シャマルが初めて、口元を歪めた。そして流れるように言い放つ。
「それで、シグナムが今どうしているか、ということになるのね。」
 沈黙がフェイトの返答だった。
 それは肯定を示し、シャマルは優しげに頬を緩める。体側に垂れるフェイトの拳がコー
トの裾を巻き込み握られた。
「どういうことだ?」
 話についていけなくて、アギトは皆の顔を見回した。だが誰も、アギトの方を向かなか
った。ティアナすら硬い表情で、フェイトの背を見つめていた。
「現地時間の明け方、魔導師数名を伴い内部調査を実施したんです。
 最大の被害区画は武器格納庫でした。
 ほとんどの物は焼き切られていて、原型を留めている物は僅かしか在りませんでした。」
 金髪が揺れた。フェイトの前髪が風に煽られて、白い額が覗く。唇からは白い呼気が靡
いて消える。
「その状況から、襲撃者の魔力資質は炎熱変換。
 デバイスの形状は剣等の刃物、というのが捜査班の一致した見解です。」
 閃光が、目の前を過った。
 シグナムのことは確かにこの二日間見ていなかった。任務だと言って、数日間家を空け
ることは数度あった。だが、今、何処で何をしているかもわからない。しかもあのシグナ
ムがはやてが大変な時に、何の理由もなしに二日間も居なくなるだろうか。一切の連絡も
せずに。
「それで、シグナムがやったんじゃないか、っていうのか。」
 やるわけがない、と思う。しかし、やったかも知れない、とも思った。
 シグナムは事件の行方をフェイト達に預け、自分達は手を引くことを許容した。本当に
守りたいものを守る、その為に復讐はしないと言った。だが、はやてが死んでしまうとあ
って、そして管理局が第121管理外世界への不干渉を決めたとあって、どうやって志を
持ち続けられると言うのだろう。
 アギト自身にも、管理局の決定の方が正しいとは思えないというのに。いや、むしろ、
犯人を逮捕するという結果を得たのだ。それをシグナムがやったというのなら、そちらの
方が正しいとさえ感じるというのに。
「それで、どうしようって言うんだ。
 言っとくけど、あたしは見てるだけで何にもしない管理局なんかよりもずっと、」
 フェイトが告げた。
「現場に、夥しい血痕があったんだ。」
 感情も温度もない押し殺した音で、日の煌めきの宿らない赤い瞳で虚空を見つめ、簡潔
な口調で。
 一言。
「人が殺されてるんだ。」
 息が溢れた。自分の体が固まる音を、アギトは聞いた。
 人が、死んだ。
 人が死んでいく瞬間に零す、あの最期の息。アギトの体に、ゼストの落とした最期の一
息が蘇る。何もかも失う瞬間の、絶対的な感触が。もう二度と永遠に戻らない時間と、命
が。
「え、なん・・・で・・・。」
 憎い人間だ。
 はやてを奪う、はやてを殺す、いくら憎んでも足りない程に憤ろしい人間だ。だが、そ
れを殺したというのか。
 人を殺すということがどういうことかを知りながら、シグナムが人を殺したというのか。
 怒りと憎しみに任せて。
 衝動で以て人間を、斬り殺したというのか。
「死体はなかった。
 けど、あの血液量を流して生きていられる人間は居ない、から。」

 あの、シグナムが。

「馬鹿なこと言うな!」
 アギトは激昂した。喉が焼ける程に強く叫んだ。
「あいつが、シグナムが人を殺しまでするわけないだろ!
 だってあいつは――――!」
 信じろって言ったんだ。
 そう放とうとして、アギトは息を呑んだ。はやてがこんな風に死のうとしているのに、
信じられると言うのだろうか。自分は信じられなかった、人間もシグナムの言葉もはやて
の想いも。
 信じるには足りない、なにもかも。こんなに大切な人が死のうとしているのに、こんな
世界も人間も信じられる訳が無かった。それなのに、自分よりも遥かに多くはやてとの思
い出を持っていて、はやてとずっと長い時間を過ごして来たシグナムが、こんなにも大切
な人を失おうとしているのに、何を信じるというのか、判らなかった。
 例え何をどれだけ信じたって、本当に守りたいものなんて、守れないのに。
「で、でもさ、あたしたちは、あいつらが何処に居るかなんて知らなかった。
 知らないのに、そんなことできねぇよ!」
 それでもアギトは、上擦った声で反証を述べる。フェイトは軽く頷いて答える。
「ええ、私たちもシグナムに場所は教えていません。
 けど、シグナムはもとより知っていたんです。
 はやてが刺された時、傍に居たのはシグナムですから。」
 アギトには合点がいかなかった。しかしその後ろで、シャマルは小さく頷いた。伏せら
れた睫で影と光が絡む。
「そういえば、そうだったわね。」
 説明を求めるようにアギトが目をやると、ティアナが説明をくれた。
 彼らが用いている転移装置の最も優れている点は、転移先の追跡困難性にある。一度発
動してしまえば、計器から消えてしまう。それは以前から指摘されていた高いジャミング
能力と、転移に際し発生する魔力波の減衰が著しく早いことによる。
 だが、裏を返せば装置の近傍であれば、解析が可能になる。管理局がその元データを得
たのは過日のミッドチルダでの逮捕劇の時である。そしてその時、装置近傍に居たのは、
そう。
「それならなおさら、なにかの、間違いだろ。
 今までずっと、耐えて来たんだ。
 それなのに、殺すなんて。」
 口の中も、喉も乾いていて、話すとひりひりと痛んだ。耳鳴りすらするようで、アギト
は片手で顔を覆う。手は汗に濡れて、冷たかった。
「ええ、私もそう思います。
 シグナムさんはそんなことしません。」
 ティアナはアギトの呟きを、明瞭に肯定した。真っ直ぐに立つティアナはフェイトを見
据えた。けれど、フェイトはティアナに一瞥をもくれようとはしなかった。逸らされた視
線は、庭木の根元でも見ているかのようで。
「そう。」
 その時、ふ、とシャマルがフェイトへ目を向けた。
「それでフェイトちゃんはシグナムのことを心配して来てくれたのね。
 現場が熱で焼きちぎられた痕があったから。
 でも、本当にそれだけ?」
 シャマルが褪めた音色の声を紡ぐ。酷薄に口元に笑みを浮かべると、フェイトの肩が小
さく跳ねた。
「どういう意味ですか?」
 ティアナが厳しい口調で問い質す。だが、シャマルはフェイト以外の誰も見はしなかっ
た。
「逮捕者の供述の中に、次のような物がありました。
 曰く、近頃ロストロギアを手に入れた者が居る、とのことでした。」
 腕が震える程に拳を握り、フェイトが口を開く。顔を下に向け、振り絞るように応じる
様は苦しげで、ティアナは眉根を寄せた。フェイトが話している内容は、ティアナも知っ
ていることだった。
「剣の形態を取るというそのロストロギアは現場から発見されず、
 また、逮捕者のいずれも持っていませんでした。」
 現場から消え失せたロストロギアの話。だが、それを口にするのを、どうしてフェイト
がここまで躊躇うのかが解らない。その剣について供述を聞いた後から、フェイトは憂い
た顔をし続けている。ロストロギアを持って逃げる等、よくある話なのに。
 フェイトが唾を飲み込む音が、ティアナの耳にもはっきりと聞こえた。
「そのロストロギアは、リンカーコア蒐集蓄積型ストレージデバイスだそうです。」
 そう、とシャマルが微かに目を大きくして囁いた。得心がいったという類いの表情に、
ティアナは妙な不快感が湧き起こるのを感じた。
「それがどうしたっていうんですか。
 シグナムさんがそんなもの欲しがる訳がありません。」
 シグナムを疑う人は居る。だが、ティアナはシグナムがそんなことをするとは到底思え
なかった。それはフェイトも同じだと言っていたし、家人であるシャマルは尚更そうであ
る筈だ。
 それにも関わらず、シャマルは微笑みに顔を歪めたまま、フェイトを見つめ続けた。そ
の笑みは慈愛すら感じさせる程やさしく、穏やかな音色を紡ぐ。
「あなたは気付いてるのよね。」
 泣きそうな顔で、フェイトがシャマルを振り仰いだ。
「それさえあればはやてちゃんは助けられるって、気付いているんでしょう?」