「そんなことがあったんですか。」
 リインはアギトに背を向けたまま頷いた。
「ああ。
 お前が居ない時で、悪かったな。」
 アギトは床に座り込んだままその背中を見上げる。
 庭に面した大きな窓ガラスを透かして、午後の日差しが二人を暖める。春の中に居るみ
たいだった。服が熱を持って暑く、外の物音がくぐもって僅かに聞こえてくるだけの静か
なリビングに、肩を滑るリインの髪が立てる微かな音が落ちる。
「いえ、いいんです。
 私もそうした筈ですから。」
 軽やかな声は、日差しの中を駆け抜けて行くようだった。アギトは窓ガラスに掛かるレ
ースのカーテンを掴んだ。そうして、レースの隙間にまだ枯れ草色をした庭を見る。短く
刈り揃えた芝生はまだ白く、植木は黒々とした裸の枝を風に晒している。背の低い木だけ
が、濃い色の葉を茂らせる庭は、それでもなお、家の中より光に溢れている。
「お前もそうした、か。」
 呟いた自分の言葉が掌の上に転がるのを、アギトは眺めた。カーテンの模様が朧に映る
掌には、指の影が濃く焦げ付いている。
「簡単に言うんだな。」
 リインはアギトの姿を見下ろす。俯きがちの相貌は凪いでいて、眼差しに流れ込む景色
は微かに揺れている。その背には、長い影が伸びていた。リインの足元にも、自分の影が
ある。
「出来るのなら、それが一番だろうって、思ってましたから。」
 後ろで手を組んで、リインは伸びをするように天井を仰ぐ。目が焼けて、緑とも赤とも
付かない色をした二人の影が視界にこびり付いていた。
「そう、思うのか。」
 問い掛けている様な、独り言の様な調子でアギトは呟く。リインはアギトを一瞥すると、
殊更はっきりと頷いて見せた。
「ええ、だって、はやてちゃんとこれからもずっと一緒に居られるのって、
 それしかないじゃないですか。」
 アギトの瞳がリインを捉えた。アギトはこんなにも真剣な顔をすることがあるんだ、そ
んな風にリインは感心を覚えた。非難の目でもなく、拒絶でもなく、アギトは鏡のように
リインを写し取ろうとしている、そう思えた。
 だからリインは目を逸らさず、明朗に言い切った。
「もちろん、そんな物騒なロストロギアがあるなんて、思ってはなかったです。
 でも、私は、例えどんな選択でも、はやてちゃんと一緒に居られる方を選ぶって、
 最初から決めてました。」
 そうしてリインは微かに唇に笑みを浮かべた。アギトが「そうか。」と小さく口の中で
呟いたのが見えて、リインは窓に寄りかかる。今は他に誰も居ない、何の音も無い家の中
を見つめる、青い瞳の上に、世界が映る。
「はやてちゃんは生きてるかもしれないけど、一緒には居られない方と、
 はやてちゃんにもしもがあるかもしれないけど、一緒に居られる方なら、
 私は迷いません。」
 指先で長い髪を梳いた。銀色の髪が煌めいて零れていく。最後の一房が指の間から落ち
る時、リインは肩越しにアギトを振り返った。
「私からも一つ、聞いてもいいですか?」
 髪の流れを見ていたアギトの視線がリインを向く。
「なんだよ、改まって。」
 口から飛び出たのは険のある声。眉を顰めているアギトはちょっと不良っぽくて、リイ
ンは内心で笑った。軽い足取りで窓から離れ、アギトに向き直る。
「なんで、アギトがこの話をしたですか?
 シグナムでもおかしくないですよね。」
 リインは柔らかな表情を浮かべながら、でもじっと、アギトの双眸を見つめた。アギト
に目を逸らして欲しくなかった。はっきりとその口から聞きたかった。はやてを助けるこ
とが出来るであろうロストロギアを排して、不確かな自分達の手でその術を見つけようと
決めたことを、何故、アギトがリインに話したのか。
 二人の間で空気が僅かに止まる。アギトは唇を引き結び、握った拳を見つめた。そして、
リインを真っ直ぐに見つめ返す。
「お前がなんていうのか、あたしが自分で聞きたかったんだ。」
 真摯な言葉だった。リインの青い瞳が微かに見開かれ、アギトを真中に映す。アギトは
そんなリインの様子に気付きながらも、丁寧に紡いだ。
「はやてと長いこと一緒に居て、でもヴォルケンリッターじゃないお前がなんて言うのか。
 はやてが刺された夜に、一緒に生きたいから、って言う時だけ、
 涙を止めてみせたお前がなんていうのか、
 聞きたかったんだ。」
 偽る所も誇張も無い本心だった。闇の書の騎士ではない、でもただのプログラムに過ぎ
ないことには変わりないリインが何を思い、何を感じているのか。一緒に生きたいと告げ
たリインが今、何を思っているのか知りたかった。
「悪いかよ。」
 リインが目を丸くしているのが気に入らなくて、アギトは軽く睨んだ。リインはいま気
がついたと言わんばかりに頬を掻くと、目線を明後日の方向に飛ばして首を振った。
「いや、悪いってことはないですけど。
 ちょっと、意外でした。」
 その反応がいまいちアギトは気に入らなかったけれど、「そうかよ。」と呟いてそれで
終わりにした。リインには全て話して聞かせた。アギトがあの場に居て聞いたこと、フェ
イトとシャマルが言い合っていたこと、ヴィータが叫んだ言葉、シグナムが見せた答え。
はやての今と、この先も。
「それでお前の答えは、
 一緒に生きたいから、この上手くいくかも判らない方で良いっていうんだな。」
 アギトはリインにもう一度問い掛ける。リインは自信に満ちた笑みを頬に刻んだ。
「ええ、構いません。」
 死ぬかも知れないのにか、と、口に出してアギトが聞くことはなかった。リインが庭の
方を振り返って見つめる、外の景色を追いかける。小さな鳥が数羽、庭木にとまって鳴き
交わしていた。



 部屋の中に音はなかった。日光の一片もなかった。窓もなく、閉め切られた室内には蛍
光灯の落とす影が淀んで、肌に触れる空気すら濁る。吸う息も吐く息も同じぐらいに汚れ
ている、そう錯覚させられる空間。
「馬鹿馬鹿しいわ。」
 シャマルは言葉を吐き捨てた。床を無惨に転がった呟きには、文面以上の感情は籠らな
い。開いたモニタを凝視する目は平素と変わらず瞬きをし、頬にも表情は無い。数式をタ
イプする音のリズムも変わらない。何もかもが澱んで凝る部屋の中で、その音だけが滑ら
かだった。
 それは恐らく、ただ漏らしてしまっただけの独り言以上の何ものでもないのだろう。思
わず口から零してしまう溜め息にも似ている。ザフィーラは振り返らないシャマルの細い
背にそう思う。部屋の隅、壁に背をもたれさせたザフィーラは黙って顔を俯けた。影の中
に沈み込むと、彫りの深い顔立ちにはなお一層濃く刻まれる。
 言葉もなく、沈黙だけが耳を、肌を突き刺す。凝っている。空気も、自らの感覚も。何
もかも遠く、霧の向こう側にしか感じられない。
 あれから二日。
 もう二日なのか、まだ二日なのか、ザフィーラには判らない。リノリウムの床を踏む自
分の足が二本ある。壁に寄りかかったままで、石のように固まってずっと動かない両足を
ザフィーラは眺めた。
 その時、呼び出し音が部屋を切り裂いた。
 耳障りな電子音は来訪者を告げる。それにシャマルは応答しなかった。微動だにせず、
作業をし続ける。3度、呼び出し音は繰り返された。静寂を際立たせるだけの甲高い音は
3回目で切れた。
 代わりに訪れたのは、部屋の空気の解放だった。自動ドアが空気の圧搾音を響かせて開
く。明るい廊下から差し込む光を切り取って、一人の女性がそこには立っていた。金色の
髪が縁取られて輝く。
「すみません、勝手に。
 でも、どうしても話しておきたいことがあったので。」
 フェイトがそこには立っていた。脇にブリーフケースを抱えたフェイトは、シャマルの
返事を部屋の前で待つ。シャマルはモニタから目を逸らさなかった。フェイトはだから、
小さく頭を下げてから部屋へと足を踏み入れた。その背後で、ドアが自動で閉じる。
「ザフィーラも居たんですね。」
 部屋の奥、黙して佇んでいるザフィーラの姿を見つけ、フェイトが微かに破顔した。ザ
フィーラはほんのわずか俯くようにして応える。
「それで、何の用かしら。」
 半ば被せるように飛んで来たシャマルの声は冷めていた。タイプを続ける音の方が余程
鮮明に聞こえそうなまでに抑揚の無い響きだった。こちらに向ける関心すら存在しない声
音に、フェイトは微かに顔を曇らせた。整った柳眉が歪み、額に皺が刻まれる。無関心な
装いが何を隠しているのか、フェイトには判る。拒絶だ。フェイトはブリーフケースを抱
え直すと、一拍息を呑んだ。
「預けて頂いたあのロストロギアを、
 魔力の貯蔵部と蒐集部を切り離せるかどうかだけでも、
 優先的に解析して貰えるよう頼みました。
 早ければ一週間くらいで解答をくれるそうです。」
 ザフィーラの耳が一瞬、ぴんと揺れた。それでもフェイトが見据えた先、シャマルの表
情は変わらない。開かれてモニタを映すだけの瞳はただの感覚器であり、それ以外のいか
なる役割も示さなかった。聞いているのかどうかも判断がつかない程に。フェイトは体側
に垂らした右手を握り締める。
「蒐集部との分離が可能であった場合、
 貯蔵されている魔力を利用出来るよう申請もしました。
 たぶん、通すことは出来ると思います。」
 シャマルが僅かに目を細めた。微かに伏せられた目に、睫の淡い影が掛かる。ずっとタ
イプしていた指が止まった、一度。返って来たのは、溜め息の様な答えだけが一言。
「そう。」
 諦観さえ滲んでいる。
 フェイトは唇を引き結び、険しく眉間に力を込めた。ザフィーラもまた、フェイトを見
ているだけで何も言わなかった。そこには非難も拒絶も無いけれど、同意も存在しない。
フェイトは握り拳を作ると、息を吸い込んだ。それと判る程にはっきり、胸の淵を落ち着
けるように深く。黒い制服に包まれた背が膨れた。
「違う道を探す、って言っても、すぐ見つかる訳じゃないですよね。
 簡単に手に届くところにあるなら、はやては今頃、目を覚ましてる。
 だから、少しでも可能性が開けるなら、そう思って申請を出しました。」
 誰もなにも応えなかった。部屋の静けさが凍り付いて耳に突き刺さる。降り積もる沈黙
の中で、シャマルが使っていたモニタが黒ずんで消えた。もはや自己主張をする物は部屋
から消え去り、空間に大きな穴が空いたかのようだった。一組のシェルフとデスクといく
らかの機材しか無い部屋の間隙を際立たせるように。
 私的利用の申請を通すことが出来る、そのことが何を意味するのか、皆が判っていた。
ロストロギアの利用申請に許可など、通常下りるものではない。多次元世界に渡ってロス
トロギアという遥か現代では及ばない技術を集め、管理することを目的とした公的組織で
ある時空管理局にあっては当然のことだ。それにも関わらず申請が通るのは、それがはや
ての為だからだ。希少スキルを持つSSランクの魔導師であり上級士官だから。
 矛盾している。そのことを、フェイトも理解していた。あの時、命の重さに違いなど無
いと答えた自分が、その存在を証明し使おうとしている。ましてやその力は、人の命を奪
って得た物だというのに。
 シャマルとザフィーラがどう思ったか、フェイトには判らない。明日、奇跡を起こせる
か知れないのに、まだ綺麗なままの理想を汚そうとしている、それを否定することは出来
ない。そして否定出来ない以上、いくら言葉を重ねてもきっとあまり意味が無いだろうと
いうことも。
 けれど、どうしても伝えなければならないことがあった。伝えたいことがあった。感触
を確かめるように、フェイトはゆっくりと右手を握り締める。そうして、決然と顔を上げ
た。
「でも、人の命の重さは違うから、誰かを使っていいって、
 そう思っているわけじゃありません。」
 届くだろうか、こんな言葉で。稚拙で、取りこぼしが多くて、自分の胸の縁でさえ綺麗
な言葉に纏め上げることの出来ない想いを、どうしたら上手く人に伝えられるだろう。全
く理解もされないで、怒らせるだけかも知れないと思う。
 それでも、伝えようとし続けることは無意味ではないと、フェイトは信じている。だか
ら、振り向かないシャマルに向かって、まっすぐに言葉を紡いだ。
「私は、はやてのことも、みんなのことも同じように大切ですから。
 一緒に生きている、みんなのことが。」
 自分が持っている、一番大切な想いをまっすぐに言葉に乗せる。
「シャマル、あなたのことも。」
 シャマルの瞳が微かに揺れる。その目は眼窩を滑り、フェイトを見つめた。