シグナムは渾身の力で壁を殴りつけた。
 鈍い音が響いて、皮が剥ける。しかし、痛みは思考をクリアにはしてくれず、焼ける様
な鋭い痛みだけを手に突き刺した。
 何も出来ない半年だった。
 はやては昏睡状態から目を覚まさず、状態はずっと横這いを続けている。この状態を保
っているのですら、自分達が何か出来た証ではない。あの時得たロストロギアの流用で維
持しているだけだ。ここまで半年、はやてはよく持ちこたえていると人は言う。だが、い
つまでかは誰も言わない。いつまで時間が残されているかなんて、誰にも判らない。いつ
までもある訳ではないとだけは判っているのに。
「くそっ。」
 吐き捨てて、シグナムは歩き出した。面会は終えたというのに、いつまでも病院の中庭
でくすぶっているわけにはいかない。一瞬でも早く、結果を掴まなければならないのに。
「あれ、もう帰るのか、シグナム。」
 不意に声が掛けられてシグナムは顔を上げた。行く手、中庭の入り口の所に浮かぶ小さ
な人影があった。腰から生やした翼で温い風を打って飛ぶ、見知った人影。
「アギト。
 お前も、主をお見舞いしに来たのか。」
 問われてアギトは、「まあな。」と短く返した。ここ数日は別行動をしていたから、会
ったのは偶然。アギトは肩を竦めると、軽く笑った。
「これからどっか行く、っていうんなら、一緒に行くよ。
 メンテも終わったしな。」
 シグナムの歩みがアギトに並ぶと、アギトは言葉通りついてきた。
「お見舞いはしていかないのか?
 せっかく来たんじゃないか。」
 肩越しに見上げてシグナムが問う。するとアギトは、いいんだよ、と返した。
「はやてに会う方が、お前捕まえるより簡単なんだから。」
 腑に落ちない様子だったけれど、シグナムはそれもそうか、と頷いて病院を出た。街を
歩けば、街路樹は新緑を通り越し濃く色づき、緑の葉を茂らせている。冬の間にはいなく
なっていた虫も姿を現して、にわかに街は騒々しい。
「手、怪我してるけど。」
 アギトはシグナムが体側に垂らした右手を認めて、そっけなく尋ねた。バツが悪そうに
シグナムは顔を顰めて、くぐもった返事をする。
「病院の外壁に八つ当たりをしただけだ。」
 すると、アギトはあからさまに溜め息を吐いた。
「バカだな、お前。」
 その言葉に、シグナムは半眼になってアギトを睨んだけれど、アギトは知らないフリを
した。
「局に行くのか。」
 通りの左右を見渡しながらアギトは尋ねた。車通りも人通りも少ないこの道は公共交通
機関の駅までの裏通りであり、最も管理局地上部隊に行く早い経路でもあった。
「ああ。」
 結局、管理局を辞める等の行動はとっていない。何故なら、管理外世界を始め、他の次
元世界で行動したり、ロストロギアを扱おう等と思った時、最も自由に行動出来る立場が
管理局員だからだ。時間の制約をより負っても、地位を捨てるより価値はある。ここまで
何も、手掛かり一つ手に入れられていなくとも。
「無限書庫でも、使えそうな記述のある奴とか、まだ出て来てないんだっけ。」
 アギトが確認すると、シグナムは微かに首肯した。
「そうだよな、シャマル、あれから全然・・・。
 笑わないもんな。」
 俯いたアギトの呟きは足元に転がり落ちた。これから暑くなっていこうという季節。青
い空に浮かぶ雲は街に近く、柔らかな輪郭をして浮かんでいる。風には花や木々、生き物
の匂いが流れていた。
「私は時々、半年前にシャマルが言ったことを思い出すんだ。
 あのロストロギアの機能を流用すると、シャマルが言い出した時のことを。」
 シグナムは言いながら、目線を足元に落とした。腹部を見て、それから手へと目を落と
す。いつ見ても代わり映えしない前肢。
「何処の世界の、何処の場所に行っても、人間は根本的には変わらない。
 それなのに、何処に私は探しにいくつもりなんだ、って。」
 アギトは口を閉ざし、シグナムの横顔を一瞥した。淡い色の髪が落とす影に、その面差
しは僅かに隠れている。
 遥か長い時を経て来た彼女達の目が、一体今まで何を映して来たか、アギトにはその全
てを知る由など無い。だが、幾世紀もの間ただずっと、闇の書であり続けることしか出来
なかった、その事実が全てを表しているのだろう。人間の一生の何十倍と在り続けてなお、
彼女達に力以外を求める者に出会うことが無かったのだ。はやてに出会うまでずっと。
「あの時は、何処でも探してみると答えたんだ。
 見つけるまで絶対、ずっと・・・、必ず見つけてみせるって。」
 二人の足が交差点に差し掛かって止まる。駅まで続く裏道で唯一、信号機のある場所。
直進の信号機が青に変わるのを待っている人は他に居ない。目の前の交差道路を車が何台
か通り抜けていく。尾に長く、低い音を残して。
「本当に辛いのは何か、判ってなかったんだ。」
 一台の乗用車が駆け抜けて、信号機が青色の光を灯す。
 シグナムは通りの先を見た。看板や建物のおうとつ、街路樹の陰に隠れて、道の先に在
る筈の駅は見えない。
「人を殺して何かを手に入れることの方が正しかったとは思わない。
 けど、本当にこれでよかったのか、って、思うんだ。」
 歩道を踏み越えて、交差点を渡り出す。交差点の真ん中は音が吹き抜けて、視界が広が
る。道幅の広い交差道路は左右に店が軒を連ねていて、人通りもあった。
「もっと、なにかあったんじゃないか、って。」
 渡り終えた所で、信号が色を変えた。アギトは肩越しに振り返って、元来た道を見る。
「それでお前は、どうしたいんだ。
 ここで、投げ出すって言うのか?
 守れそうも無くて、辛いから、って。」
 目を細めて遠く、過去の人を見る。シグナムは静かにアギトの言葉に耳を傾けた。
「レジアスだって結局そうだったんだ。
 守りたいものがあったのに、どうしても上手くいかなかったから、力ばっかり求めて。
 そんで、守りたいものを守れなくなったんだ。
 元は旦那と、同じ想いを持ってたのに。」
 かつて言葉少なにゼストが語ったこと。アギトはその少ない言の葉の先に、彼らの生き
方を見る。足掻いて、それでも埋もれていった二人の姿を。
「守りたいものを守りきれない、そのことに負けたんだよ、きっと。」
 二人の歩みは街路樹の脇を通る。木漏れ日が頬を過り、葉擦れの音が降る。
 彼らの姿は、いつか辿るかもしれない自分達の行く先の一つであり得るとアギトは思う。
あの時は剣を振らないことを選んだけれど、いつか、はやてを失うという事実に耐えきれ
なくなって、誰かを斬った時に辿る道。最も大切だった筈のものを捨てて、似ているけれ
ど全く違うものを選んでしまう道。何処か精神は救われるようで、でも誤摩化しているだ
けの在り方。
「あたしは、はやてが生きていてくれるだけでいいなんて思ってない。
 最後の最後まで、一緒に生きられる方法を探し続ける。」
 アギトは明朗に、シグナムに告げた。
「はやてが死ぬ、その時まで。」
 シグナムがアギトを振り仰いで立ち止まった。
 真摯な顔をして、凝然とアギトをその紺碧の瞳に映す。アギトはそのシグナムを見下ろ
して言葉を紡いだ。
「人は死ぬ。
 ゼストは二度も命を絶ったんだ。
 そして、二回目に斬ったのはお前だ。」
 貫く様にアギトの声は放たれた。上空では青の中を真っ白の雲が流れていて、街路樹は
淡い緑の光を零して揺れ、肌には風が触れて、鼻先には春の香りが掠めるのに、シグナム
は直立したままアギトを凝視し続ける。
「あたしはやっぱり、世の中の人間全部に同じく生きる価値があるとは思わない。
 でも、だからといって人を傷つけたら、何も守れないと思う。
 あたしが本当に守りたいものは、はやてやお前らと一緒に生きることだ。」
 アギトは右手で硬く握り拳を作った。掌の中に、半年前から変わらない想いがある。リ
インがあのとき零した涙の一欠け、星の一筋は、いつの間にか自分の掌にもあった。
「どんな結果になっても、挑み続けることが大事だなんて言わない。
 絶対に、はやてを助けたいと思っている。
 けど、心さえあれば、一緒に生きていけると思っているんだ。」
 アギトはシグナムに向かって言い放つ。
「だから自分達の意志で行動している今も、
 はやてと一緒に生きてるってことだと思ってる。
 だからあたしは、自分の意志を捨てたりしない。
 一秒でも長く、はやてやお前達と生きている為に。」
 シグナムは静かに顔を伏せた。指の影が落ちるだけの、何も無い掌をシグナムは眺めて
いた。頬に掛かる髪が風に遊ぶ。
「私は、・・私は、主はやてがもし、亡くなってしまった時、
 自分がどうするか、自信が無いんだ。」
 半年の間に、知ってしまったことがある。それは、はやてを刺した男が裁判でどれだけ
醜い言い訳を重ねているかであり、どれだけ理解しがたい、救いがたい人間であるかでも
あった。どれだけ同じ様な犯罪が起こっているかでもあったし、どれだけ傷ついている人
が居るかでもあった。
 そして、自分達がはやてを助ける為に、どれだけ力が足りないかでもあった。
「その時に剣を振るわないか、後悔しないか・・・判らないんだ。」
 体の中に鋭く、胸を内から抉るものがある。それは、いつか爆発してしまいそうで、抑
えておける自信も無くて、泣きたくなるくらいで、吐きたくなるくらいで。
「情けないよな。
 あんな風に啖呵を切っておきながら、いつも不安なんだ。
 もし明日目が覚めて、その時、って・・・。」
 言葉尻は切れたまま続いては行かなかった。シグナムは顔の半分を左手で覆うと、微か
に首を振った。皮肉げに唇を引き上げて。
「今になって、やっと思ったんだ。
 私達が昔、なんの感慨も無く斬って来た人に、巻き込んで死なせてしまった人に、
 謝りたいって。」
 涙の滲みそうな、そんな表情で、シグナムは呻くように言った。
「やっと、判ったんだ。
 誰かが死ぬっていうことが、どれだけ・・怖いことか。」
 シグナムの足が地面を踏みしめる。靴の裏で小石が削れる音が鳴った。
「生きるっていうのが、どれだけ辛いことか判ったんだ。」
 今ならはやてが11年前に、どうして人に迷惑をかけるからと、頁蒐集を否定したのか
が判る。どうして、ずっと一緒に仲良く暮らすことの方を望んだのか判る。そして、
「本当に大切なものが何か、やっと判ったんだ。」
 折り曲げられた指が拳を作った。
 シグナムは拳をアギトに向けて、潰れかけた顔で無理矢理笑みを浮かべて、言い放った。
「私は、絶対に、主はやての家族であり続けたい。」
 アギトを見据えるその顔は、けれどすぐに歪んだ。
「自信がなくて、情けないけど・・・、それでも・・っ。」
 肺の奥から絞り出して言う、その様は本当に自信が無くて、情けなくて。アギトはちょ
っとだけ頬を緩めた。
 自信満々にそんなことを言い切れるようになるなんて、きっと、誰にだってないだろう。
大切な人の命がかかっている時に、何も手掛かりも無くて、結局、出来たのは自分の意志
を持つということだけだ。状況は何も進展していないのに、普通、力一杯そんなことを言
い切るなんて出来ない。
 けれど、アギトは軽く、努めて明るく笑った。
「あんまり、そんな情けない顔すんなよ。
 あたしの立つ瀬がなくなるだろ?」
 拳を握り締めて強く。
「シグナム、お前はあたしの自慢のロードなんだから。」










			絶対幸福論


			 最終話

		    君を信じられたら



















 速く、速く、速く!
 もっと速く!
 風よりも、音よりも速く!
 光を引き千切るようにもっと速く走るんだ!
「はぁ、はぁ、はあっ――――。」
 粗い呼気を吐き出しながら、ヴィータは駆ける。左右の景色が色の帯に代わって、目の
前の世界は全て障害物だ。まだ着かない、まだ辿り着けない。もっと速く走りたいのに、
体がこれ以上動かない。肉体が邪魔だ。心だけならずっと先まで速く走っていけるのに。
「はやて・・・っ。」
 思わず口の間から漏れた名前に、目頭が熱くなる。視界が歪みかける。でも、まだ泣い
ちゃいけない。まだ泣くには早いんだ。この目で見ない限り、この目で見るまで泣いちゃ
いけない。本当のことは、この目で見ないと。
「はやて、はやてっ!」
 でも、一度堰を切った声は留まることを知らない。目の縁が滲む。熱い雫が目から溢れ
出てしまいそうで、ヴィータは顔を上向けて走る。手で拭ったら本当に泣いてしまったこ
とになるから拭ったりしない。まだ泣けないんだ。
 病院の入り口を駆け抜けて、中庭まで走り抜ける。病室までならこっちの方が早い。人
を避けなくていい、人に合わなくていい、誰にもこんな顔を見られなくていいから。ヴィ
ータは夏の熱気の中、煉瓦を蹴って駆ける。生い茂る緑が、虫の羽音が、咽せる様な熱い
空気が体を擦り抜けていく。
「あっ。」
 病棟へと入る通用口で、看護士とすれ違う。その人はヴィータの顔を見て、小さな声を
零した。ヴィータはその声を振り切るように走る。すぐ傍にある階段を駆け上がって、二
階、三階へと。杖をつくおばさんも、点滴を引き摺るおじさんも避けて速く、五階にある
病室へと走る。
 最後の一段、足音が廊下へと響き渡った。
 リノリウムの床に真夏の太陽の光が焼き付いている。空調の音がまるで洞窟のように反
響して、明るい廊下に満ちていた。
 ヴィータは立ち止まって、廊下の左手を見た。奥から3つ目。太陽にちょうど照らされ
た、真っ白い大きな引き戸の部屋。息を潜めて、足音を消して緩慢な動作でそちらに向か
って歩く。一歩一歩、周りの景色を目に焼き付けるように。
 そうして、ヴィータはその扉の前に立った。
 中からは、何の音も聞こえてこない。ドアが厚いからだろうか。ドアに張り付いた真っ
黒な自分の影を、ヴィータは凝視した。陽光の強さに目が焼ける。
 ヴィータは静かに、病室の扉を開いた。

 真っ白い光が、そこには満ちていた。
 シグナムが、リインが、シャマルが、アギトが、ザフィーラがそこには居て、その奥、
青空を切り取る大きな窓の手前に、ベッドが一つある。その上には、静かに横たわる人が
居た。肩よりも少し伸びた黒い髪、歳よりも少し幼く見える顔立ちで、笑うとまるで花が
咲いたみたいに明るい人。
 その人が、ゆっくりと右手を上げた。
 ヴィータに向かって微笑んで。
「おはよ、ヴィータ。」

 ヴィータは思いっきり泣いて、はやてに向かって走り出した。


「はやて!」