夜明け前の凍えた風が突き上げて、黒い木々の影を揺さぶった。激しい音に一切の音は
吹き流されて、地面を這う落ち葉は舞い上がり、黒い夜空へと吸い込まれていく。全ての
ものを薙ぎ倒し空へと飲み込んでしまおうと足元を吹き抜けた感触に、悪寒が体中を這い
上がる。
 一枚の落ち葉がシグナムの頬を掠めた。枯れた葉たちは囁きあいながら、風に翻弄され
るままに、木立の合間へと消えていった。
 手が悴んで、上手く動かなかった。強張って、言うことを聞かない指先。シグナムは鈍
い指を折り曲げて、ゆっくりと握り込んでいく。その間にも、冷たい風は掌を撫で、指の
間をすり抜けて行く。何も捕まえられない手を、シグナムは組んだ。祈りの様に指を絡ま
せて、でも、祈りを紡ぐには大きすぎるほどの力を込めて。関節が嫌な音を響かせるのす
ら無視し、シグナムは額を組んだ手に押し付け俯いた。
 病院の中庭に一つだけ置かれたベンチは古ぼけていて、落としようもなく錆が浮いてい
た。僅かな身じろぎですら悲鳴を上げるそのベンチに座り込み、どれだけの時間が経った
のかすら、シグナムには分からなかった。少し離れたところにある常夜灯がシグナムの足
元に落とす影の形はずっと変らない。シグナムの影は地面に張り付いたままだ。
 組んだ手、その手首に黒い染みが垂れていた。その染みは掌から流れていて、べったり
と掌紋に入り込み、爪の間にまでこびり付いている。凝固したそれはシグナムの掌にある
冷たい汗に溶かされることなくしがみついて、錆のような喉に纏わり付く匂いが蟠ってい
た。
 流れ落ちた血を洗い流すことが出来なかった。手に、足に、体中に付いた血はもはや乾
き切って、皮膚を引き攣らせるばかりで、時折剥離して落ちるだけなのに、それを流して
しまうことが出来ない。何処にも帰ることの出来ないものだとしても、もうただの汚れと
しかされないものだとしても。
 これを流したら、はやての命まで、何処かに吸い込まれて消えていってしまうようで、
怖かった。体が崩壊してしまいそうだった。破壊音を轟かせて弾け飛びそうな程に、衝動
が体の奥から突き上げてくる。もうそれがなんなのか分からない。怒りか憎しみか悲しみ
か憤りなのか、どれなのかわからない全てなのかもしれない。ただ、吐き気がして、震え
が止まらなかった。吐いてしまえたら、どれだけ楽だろう。それでも体は少しも動かない。
まるで、体が全部石か何かになってしまったみたいに固まって、凍り付いて。動かないの
は自分なのか、時間なのかもわからなくなる。
 夜が永遠に何処までも続いている。明けない夜の存在証明がこの場でなされている。も
う何もかも止まってしまえばいい、時間も、空気も、星の瞬きも雲の歩みも、全て止まっ
てしまえ。そうすれば誰も失うことは無いから、目の前から消えてしまうことは無いから。
だからもう、何もかも、止まってしまえばいいのに。
 こんな世界なんて、
「シグナム。」
 靴音が一つ響き渡った。夜の存在感がシグナムに打ち付ける。シグナムは折り曲げてい
た体を、声のした方に向けた。青白い顔に、影が滑る。暗闇の中から、常夜灯の元に歩み
出て来た人を、シグナムは縋るよう呼んだ。
「シャマル。」
 泣き出しそうな程に震えた声に、シャマルは表情を曇らせた。ベンチに座り込み身を竦
めているシグナムは唇すら青く、怯えの滲んだ瞳をシャマルに向けていた。シグナムの口
が僅かに動く。だが、そこから音は出ない。
 二人の間に風が流れて、地面を落ち葉が転がって行った。
 シャマルはゆっくりと唇を開いた。
「はやてちゃんは、集中治療室に移ったわ。」
 静かな声は夜風に浚われながら、シグナムに触れた。シグナムの歪んで、細められてい
た目蓋が開かれていく。丸くなった目が、焼き付けるようにシャマルを映した。
「ほんとう、か、シャマル。」
 シグナムが腰を浮かせた。常夜灯に照らされた逆光の中、目の縁には、微かに光を湛え
る物が滲んでいる。シグナムはシャマルの肩を掴むと、眉間に皺を寄せ、表情を潰す。
「よか、った。」
 シグナムが顔を俯け、シャマルの肩に預けた。落ちた言葉と共に、シグナムの背が一つ
跳ねる。光の一滴が落ちていったのを見た気がして、それでもシャマルは腕を体側に垂ら
したまま、シグナムの背中の向こうに広がる夜の景色へと目を向け続けた。星はまだ強く
輝き、空は高みの果てまで黒く、木々の合間にもベンチの下にも、二人の足元にも、黒い
影が穴を開けている。シャマルの背後から風が吹き付けて、木の葉を飛ばし、木々をざわ
めかせ、弄ばれる髪が頬を打った。夜露を孕んだ冷たい冬の匂い。吸い込むと鼻を突き刺
すような寒さに視界が滲んだ。一瞬だけ。シグナムの手から、血の匂いがした。
「はやてちゃんの内臓はね、
 消化器が潰れて、肝臓まで傷ついてたの。」
 シャマルは抑揚なく言葉を口にした。基底にあるような声音に、肩を掴んでいるシグナ
ムの指が僅かに跳ねた。
「人間が生命を維持するために必須とする臓器7つのうち、
 2つが破壊されてたって言ってもいいわ。
 そうそう助かるものじゃないのよ。」
 淡々と告げられる事実の中、シグナムが緩慢に首をもたげていく。僅かな明かりに晒さ
れる顔は、紙の様に白かった。シグナムの視線がシャマルの横顔に触れる。しかし、シャ
マルは夜闇だけを見つめていた。何処までも続いていく夜を。
「縫合なんて可能なレベルじゃなかった。
 あれは、魔導師を殺すためのナイフね、もう手の施しようなんてなかったわ。」
 シグナムが、何か呟いた様な気がした。ただ息を吐いただけかもしれない。言葉として
聞こえるようなものは何もなかった。シャマルは息を深く吸い込んだ。
「だから、人工臓器への機能置換を行ったの。
 魔法によって体内に臓器を形成したのね。
 私たちのような、プログラム生命体を作る技術の流用、って言えばいいかしら。」
 言っていることのどれだけを、シグナムが理解しているか等、シャマルにはもうどうで
も良かった。理解できないならシグナムが馬鹿なのがいけないのだ。
「でもね、魔法による人工臓器は、
 ミッドチルダでもまだ十分確立した技術とは言えないの。
 とても機能置換なんて出来るものじゃないわ。
 普通は病気の治療の一環として、機能補助に使われる程度のものよ。
 これほど緊急じゃなければ、絶対に使わなかったわ。」
 シャマルは一度目を閉じた。常夜灯がなければ、きっと目を閉じていても開けていても
変らないだろう。そう思った。
「そのせいで、はやてちゃんが回復したら、もう一回施術が必要なの。
 体外で形成した再生臓器と置換するためにね。」
 シグナムがシャマルの肩を離した。剥がれた血の破片が肩に残る。白い服に付いた血の
跡は落ちない。
「そう、なのか。
 なんだ、あんまり脅かすなシャマル。
 主はやては大丈夫ということなんだろう?」
 初めてシャマルはシグナムの顔を真正面から見据えた。微笑もうと不細工に引き攣った
頬。シャマルを映す目の奥には、不安という感情が明らかに揺れていた。長く共に居た相
手だ。こういう話し方をするのがどういうときか、わかっているのだろう。
「魔法による人工臓器には問題点があるの。
 一つはさっき言った、機能置換するには能力が足りないこと。
 二つ目は安定した動作をするには大量の魔力を必要とすること。」
 立ち尽くしていると一層空気が冷たくなってきた気がした。二人とも、コートすら羽織
っていなかった。白い息が黒い空気の中に広がる。
「多少能力が足りないとは言っても、
 正常に安定した動作をすれば十分回復は望めるわ。
 でも、あれだけの広範囲に及ぶ傷を十分補うには、相当量の魔力が必要なの。
 私たちみたいなプログラム生命体を形成するよりも大きな魔力よ。」
 プログラム生命体は確かに実在を持っている。それゆえ、人間やその他生き物とまるで
遜色ないかのように振舞っているが、内部構造は決定的に違う。内臓というものの機能こ
そは存在するが、同じように動作しているわけではなく、擬似的なものに過ぎない。それ
は、魔力という質量をもたないもので形成するには、肉体というものはあまりに大きく複
雑に過ぎるからである。
 つまり、人間本来の肉体の機能を持つ臓器を形成するには、それに見合っただけの膨大
な魔力を安定して供給し、運用し続ける必要がある。
「だけどそれは、普通の人の必要量でしかないの。
 魔導資質を持つような人に対しては、
 その人に内在している魔力に、
 構成を破壊されないだけの強度を持たせなくちゃいけないわ。
 でもね、シグナム、知ってるでしょう?
 はやてちゃんの魔力はなのはちゃんやフェイトちゃんと比べたって桁が違うわ。」
 シグナムが一つ喉を鳴らした。見開かれ続けた目は乾いて動かない。シャマルは最後の
一言を風に乗せた。
「それだけの魔力を安定して体内で運用し続けるような技術、
 どこにも現存しないのよ。」

 地面が壊れた。足が礫の中に埋もれて体が傾ぐ。立っていられない。後ろ向きに転がる
体、顔が空を仰いだ。黒かった筈の空に、いつの間にか青色が差し込んでいた。
 無様に尻餅をついて座り込んで、シグナムはシャマルを仰いだ。シャマルの背後、遠い
空で夜が明け始めている。光が木々と、たくさんの建物で埋め尽くされた地平の上で踊っ
ている。雲が白く輝きだしている。
「それじゃあ、主は、どう、なるんだ・・・?」
 非現実からの声がシグナムの頭の中に響いた。シャマルが顔を俯ける。金色の髪が光に
透けて、彼方から差し込む眩さを、頬に落ちた影が切り取っている。シャマルが重ねた自
分の手を握った。
「はやてちゃんの人工臓器はすごく不安定なの。
 まともな機能なんて、ろくに持ってない。
 だから、
 回復は、すごく難しいわ。」
 吐き出された凍った息が、冷えた空気に広がって、散った。光に突き刺され、まるでそ
れは輝いて。
 冷え切った頬が、耳が痛い。後ろに付いた掌に、小石がめり込んでいる。
 夜が彼方に消えていく。世界に朝の光が満ちる。夜が明ける。東の空から溢れる光が世
界を覆って、景色を包み込んでいく。俯き佇むシャマルも、座り込んだまま動けないシグ
ナムも、真四角に聳える病院も、中にある病室も、全てを朝が包み込んでいく。
 シグナムの目が、東の空、木々の隙間に赤い光を見た。
 太陽が、昇る。