「なんで、こんなことになるんだよ。」
 押し殺すよう呟かれたアギトの声は、怒りに震えていた。真っ白く、筋が浮き出るまで
に握り締められた両腕が戦慄いていた。炎のような両眼が、シグナムを捉えて燃え上がる。
「なんであたしたちが捜査から外されなきゃなんないんだ!
 はやてがずっと続けてきた捜査じゃないか、
 それを、どうして!」
 それは先ほどの捜査会議で告げられたことだった。質量兵器密輸に関わる本案件は、そ
の主体を次元航行部隊に移し、地上部隊での人員は主犯が他次元世界に逃走したことから
押収物の捜査並びに逮捕した人間への聴取等が主となり、それに伴い人員が削減される。
引き続き地上部隊で捜査をする者の名簿の中に、八神はやての文字も、シグナムの名前も、
他の誰の名前も、印字されてはいなかった。
「主はやてがあのようなことになったんだ。
 近しいものは、外されるのが当たり前だ。
 捜査に私情を持ち込むわけにはいかない。」
 決まりきったような言葉。当たり前だとでも言わんばかりの口調で、淡々と告げたシグ
ナムに、アギトは激昂した。シグナムの眼前に肉薄し、大声で怒鳴りつける。
「私情って!
 そんなんじゃねぇだろ!
 お前、悔しくないのかよ!?
 お前だって見ただろ、
 はやて、あんないっぱい意味わかんねぇ管とか付けられて、
 真っ青な顔してて、
 お前悔しくないのかよ!?」
 アギトの声がシグナムの鼓膜に突き立った。全身から迸る怒りがシグナムを責める。怒
鳴り声と共に、アギトは拳を宙に振り下ろした。
「お前、あいつらのことぶっ飛ばしてやりたくねぇのかよ!?」
 叫びがアギトの口から切れ、残響が肌を震わせた。怒りのせいでアギトの目尻には涙が
滲んでいた。シグナムはアギトに向き直ると、静かに告げる。
「主はやては、
 人を傷つける人間を淘汰されたかったわけではない。
 人を守るために、捜査官をされていたんだ。」
 アギトは唇に歯を立て、黙った。本局の、二人以外に誰も居ないスペースに充満するの
は蛍光灯の無機質な光だ。シグナムの頬に微かに落ちるのも足元に蟠るのも平坦な影で。
「人は、
 人と共に生きる中に、幸せがあるから、と。」
 シグナムの言葉は、その中で舞った。
 はやては未だ面会謝絶で、直接会うことも出来ない。モニタ越しに僅か数分、その顔を
見ることしか出来ない。モニタに映るはやては、外から、冬の日差しが差し込む中で、真
っ白いシーツの上で、穏やか過ぎるくらいに蒼白だった。腕に刺さった点滴だけではなく、
何本も細い体からコードが延びているのがモニタ越しでもはっきりとわかった。それは、
肌の消え入るような色とは対照的に克明で。
 これからどうなるかわからないと、それはわかっている。回復は難しいと言い放ったシ
ャマルの声は耳に突き刺さったまま幾度となくリフレインして消えない。
 それでもシグナムは静かに言う。アギトを見上げて、アギトに向かって。
「だから、お前の言うように、ぶっ飛ばす為に、
 復讐する為に剣を振るってはいけないんだ。」
 アギトは渾身の力でシグナムを睨み付けた。睥睨した。相手を削り取るように、抉る様
に力を込めて、怒りを纏って、口を歪める。
「意味わかんねぇよ。
 結局、人間のこと傷つけんのって、人間じゃねぇかよ。
 金とか、そんなくっだらねぇことのために、
 どうして他の奴傷つけたりすんだよ?」
 吐き捨てるように言い放つ。
「変だろ、
 旦那やはやてみたいな、守ろうとしてる奴ばっかりいつも怪我して。
 そんな奴らいなかったら、旦那もはやてもこんなことにならなかった筈だろ!?」
 アギトは怒号を叩き付ける。
 シグナムの顔が曇る。知っている。シグナムが、あれからどれだけ悩んでいたかも、悔
いていたかも、アギトは知っている。だからこそ許せなかった。こんなに突然、わかりき
ったような顔で、わかりきったようなことを言い出すシグナムが信じられなかった。どっ
かのバカみたいに、正論染みたことぶちまけていれば、それで全ての感情に整理がつくと
でもいうのか。つけろとでも言うのか。
「お前は、そんな奴らもその中に入ってると思うのかよ!?
 そんなことお前、本当に思ってんのかよ!
 お前、ごまかしてんじゃないのか!?」
 シグナムが堪えて今立ち上がっているその礎がきっと、その口から零れた、はやての言
葉の為だったはわかっている。でもだからこそ怒りは納めることが出来ない。人を守ると
言った人が傷つけられて、どうしてそんなこと言えるのか理解できない。アギトには振り
上げた拳の下ろす先が必要だ。それは誰も一緒な筈ではないのか、そして、目の前で倒れ
たはやてを抱き上げたシグナムにこそ、それは必要な筈ではないのか。
「答えろよ、シグナム!!」
 喉を裂くような叫びが、シグナムを撃った。
 シグナムは唇を引き結び、アギトの正面に起立する。同じ目線の高さに飛び、アギトは
その前に立ちはだかる。静寂が、二人の間に張り詰める。目を逸らす事の許されない空間。
 そのとき、廊下の端から、二人を呼ぶ声が響いた。
「シグナム! アギト!」
 声にシグナムとアギトは弾かれたように振り返った。廊下の端、そこにはこちらに向か
って歩いてくる二人の姿があった。
「テスタロッサ、ティアナ。」
 久方ぶりに見る二人の名を、シグナムは口にした。対照にアギトは顔を微かに歪めなが
ら、高くへ飛び上がった。切られてしまった会話の行方はもう追えそうもなかった。二人
は足早にシグナムとアギトの元へ来ると、フェイトが挨拶を交えつつ、仄かに微笑んだ。
「お久しぶりです。
 本局に来てるって聞いて、どうしても会っておきたくって。」
 そうか、とシグナムが答える。そうすると、フェイトは言い難そうに顔を顰め、続けた。
「その、はやてのことで。」
 そっぽを向いていたアギトが、僅かに肩を跳ねさせた。シグナムが言葉を詰まらせる。
すると、ティアナがフェイトの横から半歩前に出た。
「はやてさん、どうなんですか?
 もう、ずっと昏睡状態だって聞いてるんですけど。」
 いつもより強い調子でティアナがシグナムに迫る。シグナムは眉間に皺を寄せ、首肯し
た。
「ああ、まだ、目は覚ましていない。
 面会も出来ないんだ。」
 ティアナが胸元に手繰り寄せていた自分の右手を握り締めた。
「そう、なんですか。」
 ぽつりと唇から呟きが零れて、ティアナの顔が俯いた。髪と、蛍光灯の落とす影でティ
アナの表情が隠れる。フェイトがその肩に手を伸ばしかけ。聞こえてきたのは、引き攣っ
た声だった。
「どうして、こんな目にはやてさんが会わなきゃならないんですか。
 はやてさんは何も間違ったことしてないのに、どうして―――っ!」
 フェイトはティアナに伸ばしていた手を下ろした。二人には表情の窺えないティアナ。
でも、その瞳から零れ落ちたのであろう雫が、光を反射させながら床へと落ちるのを見た
から。
「ティアナ・・・。」
 フェイトが囁くよう呼びかけた。シグナムは立ち尽くしたまま、嗚咽を漏らすティアナ
を見つめていた。アギトの、廊下の先を睨んでいる眼差しが、細くなる。
「どうして、はやてさんが・・・。
 酷いですよ。」
 そう搾り出すと、ティアナは手で顔を覆った。フェイトはティアナの背を見つめ。そし
て顔をゆっくりと上げると、シグナムを仰いだ。精悍な相貌を向け、口を開く。
「シグナム、地上部隊からの引継ぎの捜査班に、
 私たちも入ったんです。
 あのナイフの解析も、管轄です。」
 フェイトが言う。
「何かわかったことがあったら、連絡します。」
 凛々しいという以外に形容しようのない、曇りのない姿だった。シグナムはそれに頷い
て、礼を告げる。
「すまないな、テスタロッサ。」
 二人の視線がかち合う。フェイトは真摯な表情を崩さぬまま、口元に微かな笑みを浮か
べた。ティアナが袖口で顔を拭き、決然と顔を上げる。
「絶対、犯人たち捕まえますから!」
 力強い声で、ティアナはそう宣言した。少し赤らんだ顔を見つめ、シグナムが破顔する。
「ああ、期待してるぞ、ティアナ。」



 そうして、二人は元来たほうに戻って行った。ティアナの後姿が、光の中を進んでいく。
 シグナムはいつの間にか、自分が強く拳を握り締めていたのに気づき、意識的に目を瞑
った。そして、息を長く吐き出すと、ゆっくりと拳を開いていく。そこへふっ、とアギト
の声が舞い込んだ。
「あいつ、何で泣いてんだよ。
 はやてと特別仲が良かったのは、もう一人の方だろ。」
 シグナムはああ、と短く頷いた。そして思い当たることを述べる。
「ティアナは唯一の肉親である兄を、犯罪捜査の中で亡くしているからな。」
 アギトが思わず息を詰めた。シグナムはアギトに向き直る。
 両親の居なかったティアナの唯一の肉親である兄。執務官という夢を追っていた兄が事
件の最中に息を引き取り、その死すら人に侮辱されたティアナ。多くは語らない彼女の心
中など、到底誰にも想像などつかないだろう。ただ、ひたむきに走る彼女の横顔だけが、
強い感情を滲ませている。
「それでもティアナは、復讐の為に力は使わなかった。
 兄の夢であった執務官になる、と。」
 シグナムはアギトと目を合わせた。真っ直ぐな眼差しを、確かにアギトに向ける。
「守るというのは、身を守るということだけでは終わらないんだ。
 大切な人の気持ちや意志というものまで守れてこそ、
 本当に、守るということなんだ。」
 アギトはシグナムから顔を背けることが出来なかった。見下ろした視界の中、シグナム
は己が足で影を踏みその上に佇んでいる。強い意志をその身に湛えて、告げる。
「お前もだろう、アギト。
 ゼストの意志を守るために、私と共に居る。」
 アギトは掌を握り締めた。妙に汗ばんでいる気のする掌だ。ゼスト、その名が木霊する。
彼の姿が蘇る。
「本当に守りたいものを守る。」
 シグナムが力強く刻んだ。はっきりと、凛と澄んだ声音で。
「アギト、
 人を傷つけるのは人だけだと、私も思う。」
 体側にあったシグナムの右手が胸の前で握り締められた。その掌に握られているのは、
銀の鎖。シグナムの剣だ。
「だが、この世界は、
 ゼストが守ろうとしてきた世界だ。
 主はやてが守ろうとしている世界だ。」
 シグナムは己が剣を手に、決然と告げた。
「だから、信じろ。」