ヴィータがリビングに戻ると、そこには布巾を持って床掃除をする妖精さんが二人いた。
「もう、シグナムもザフィーラも見てたなら止めて欲しかったわ。」
 嘆息交じりにシャマルが言うと、シグナムが申し訳なさそうにうな垂れた。シャマルは
仕方ないと諦めたように肩を竦めると、アイスで汚れたテーブルを布巾で拭く。その間に
も、室内には二つ分の布巾妖精さんの足音が駆け回る。
「ヴィータちゃんも、アイスひっくり返しちゃダメよ。」
 妖精さんを踏まないように気をつけながらソファに戻ってきたヴィータに、シャマルは
そう諭す。ザフィーラが変なこと言うから驚いただけだ、という言葉が喉元まで競りあが
ってくるが、そんなことを言ったらただ墓穴を掘るだけなのでぐっと飲み込んで、物分り
よく頷いた。
「ごめん。」
 シャマルはテーブルのみかんもどかして、全体を綺麗に拭くと布巾を畳んだ。立ち上が
り、床拭き妖精さんもといリインとアギトを見る。二人とも、競うように床を拭いていた。
というより、時折互いを睨んでいるあたり、まさに競っていた。
 そんな二人の様子を見て、シャマルが目を細めて笑った。声もなく表情だけの笑顔は静
かで、その頭上にある蛍光灯のためか表情に落ちる影が仄かに濃い。シャマルはリインと
アギトの布巾も受け取ると、それらを持って台所の方に歩いて行った。
「はう、疲れたです。」
 リインがよろよろと飛びながら、ソファに戻ってきた。空中で左右にふらふら揺れなが
ら、手足をだらっとさせているとまるで蚊みたいだったけれど、やっぱり怒るから黙って
おいた。
「けっ。
 ちびがアイスなんかつけたまま暴れまわるから。」
 アギトは怒り覚めやらぬ様子で腕を組みながら、テーブルの上にどかっと座りなおした。
そして、リインを真っ向から睨みつける。リインはヴィータの膝を掴んだまま、肩越しに
振り返ると、思いっきり舌を出した。
 若干盾にされ気味なヴィータは、胸のうちで深くため息を吐いた。
「もう、さっきから喧嘩ばっかりして。
 ダメよ。
 はやてちゃんに言いつけちゃうんだから。」
 布巾を片付けて戻ってきたシャマルが、扉を後ろ手に閉めながら二人にぴしゃりと言い
放った。二人は一瞬気まずげに顔を歪めて、同時にそっぽを向いた。ヴィータが呆れたよ
うに息を吐いた。
 壁に掛けた時計の秒針が音を刻む。ヴィータは自分の膝に頬杖をついたまま、目だけで
文字盤を追った。時刻は夜の8時。曜日も考えると、見たいテレビもない。ミッドチルダ
には時代劇がないのが困りものだと、ゲートボールをやる合間におじいさんおばあさんと
趣味を密かに共有してしまったヴィータは思う。ミッドチルダの昔の時代をテーマにした
ドラマはどうにも洋物ファンタジーにしか見えない。
 それでもなんかやってるかな、とヴィータがリモコンに手を伸ばしたときだ。アギトが
ぽつりと呟いた。
「なあ、あのさ。」
 リモコンを取るため、腕を前に伸ばした姿でヴィータが止まった。アギトは立ち上がり、
シャマルの方を振り向いた。首を傾げるシャマルに、アギトは口を開いた。
「はやての容態って、結構落ち着いてんだろ?」
 その言葉に、シャマルは頷いた。シャマルが今日の夕飯の席で皆に言ったことは、はや
ての容態は安定していて、思ったよりもずっと回復の様子は良いということだった。アギ
トはそれを確認したかったのだろう。そうだよな、と小さく自分の口の中で呟くと、腕を
組んで悩むように顔を俯けた。
「どうしたですか?」
 つんと澄ました様子だったリインが、アギトに向き直った。アギトは、唸り声を漏らし
ながら、歯切れ悪く口を動かした。
「その、さ。
 あんまりみんなで仕事休んでばっかりだと、
 はやてが心配すると思うんだ。」
 窺うように紡いでいたアギトの言葉が止まる。アギトは息を飲み込むと、顔を上げて皆
を見た。その表情はまだ不安げに歪んでいた。だが、眼窩に嵌った双眸には硬い意志が底
光りしていた。
「だから、はやてのところに行くの、順番決めて行かないか?」
 シャマルとヴィータが呆気に取られたような顔をした。リインは少しだけ意外そうに目
を開いていた。ザフィーラは腕の中から顔を上げ、アギトを見上げる。その中で、シグナ
ムだけが微かに笑んでいた。口角を僅かに持ち上げるだけの笑い。だがその眼差しはアギ
トを肯定している。
「どこに居たって、はやてのこと待ってるって気持ちは一緒だろ?
 じゃあ、はやてが安心して寝てられるように、
 やらなきゃいけないことをやっていたほうが良いと、思うんだ。」
 そんだけ、だけど、と気まずげに言い切ると、耐えられないとでも言うように、誰の顔
も見ないように首を回して思い切りそっぽを向いた。アギトには皆が自分に視線を寄越し
ている事に気づきながら話すのはこれが限界だった。顔を微かに赤らめ頬を掻きつつ、目
を逸らす。
「賛成だ。」
 低い声で短く告げたのはザフィーラだった。ザフィーラはそれだけ言うと、先ほどと同
じように丸くなった。続いて聞こえてきたのは、そっけない返事だった。
「ま、あたしも賛成だな。
 いつまでも病室の前をうろうろしてる子供の噂なんて立てられてちゃ、
 たまんねーからな。
 それに、そろそろ体動かして気分でもすっきりさせたいところだったし。」
 気のない風に言い放って、ヴィータが頭の後ろで腕を組んでソファに凭れ掛かった。そ
の隣で、リインが頷く。
「アギトもたまには良いこと言うです。」
 たまには余計だ、とアギトが皮肉気に笑った。アギトはシグナムに目を向ける。挑むよ
うに強い眼差しを向けながら、唇だけを笑みの形に歪める。シグナムは無言のまま頷いた。
そしてアギトは、最後の一人、シャマルを仰いだ。
「お前はどう思うんだ、シャマル。」
 シャマルは微笑んだ。
「賛成よ。」
 その返事に、ヴィータが呟いた。
「決まりだな。」
 さてこうなると、問題は順番の決め方と、一日に何人が行くかだ。八神家の人数はヴィ
ータ、シグナム、シャマル、ザフィーラ、リイン、アギトの6人だ。つまり一日一人だと、
次の順番が回ってくるのは6日後である。
「別に、直接会えるわけでもないけど、
 そんなにはやての傍にいられない時間が多いのもな。」
 ヴィータが苦々しく言った。リインが横で激しく頷く。
 直接会えなくとも、やはり距離が遠いのは精神的にきついらしい。次の順番までの5日
間は、必然的に寂しい生活が待っていることになる、というわけだ。あれだけ平素からは
やてにべったりな甘ったれた騎士ばっかりなのだから、当然か、とアギトは重たい呻き声
を上げながら唸る面々を見て呆れた。
 でも、その気持ちがわからないわけではなかった。ずっと会えないのは寂しい。あの、
あほ面で笑うはやてが見たいと、思う。確かに。
「あ、一日二人ずつでどうですか?」
 リインがぽんと手を打って提案した。すばらしい案だ、とシグナムとヴィータとザフィ
ーラまでが目を一様に輝かせた。気の揃い方がこいつらたまに気持ち悪いと、アギトは思
う。
「でも、そんなに休んで大丈夫かしら。」
そんな面々の中、シャマルがだけが首を捻る。すると、リインが珍しく勇んで言い放った。
「首にするなら、首にしてみるです。
 毎日カレーせんべいを送りつけて、ポストの中をべちゃべちゃにしてやるです。」
 そして、胸に秘めたる悪意を暴露した。
「まあ、ヴィータは一週間以上休み続けているからな、
 首になるのはヴィータからだから問題ないな。」
 シグナムが可笑しそうに言う。
 というわけで、はやてのお見舞いは一日二人ずつの3日間ローテーション。
 なんだと、と応えながら、ヴィータが右腕の袖を捲くった。リインが両腕を絡めて捻り、
手を合わせて握り締める。アギトが腰溜めにおいた右手を左手で握り込み、ザフィーラが
人型に変わり拳を額に押し当てた。シャマルが祈るように胸の前で右手を左手で包み、シ
グナムが振り上げた腕で虚空を掴み、鋭い視線で皆を睥睨した。緊迫が皆の間に張り詰め
る。
「あ、そうだわ。」
と、そこで、シャマルが思い出したように言った。
「明日から、はやてちゃんと面会できるようになるって、言ったわよね?」
 全員がシャマルを見つめて固まった。

「ええええええええええええええええええええっ!?」

 聞いてない! 何でもっと早く言わないですか! シャマル、お前! 多様な悲鳴がめ
いめいの口から轟々と上がった。
「みんなを驚かせようと思って、言い忘れちゃったみたい。」
 シャマルがあらやだうっかり、とすっとぼけるように首を傾げて付け焼刃に微笑むと、
ヴィータが叫んだ。
「お前、そんな大切なこと言い忘れてんじゃねーよ!
 それじゃあ、明日はみんなではやてに――――!」
「あ、それはダメよ。
 こんな大人数で押しかけちゃ。」
 シャマルに遮られ、ヴィータが口惜しそうに歯噛みした。
 これはもう、負けるわけにはいかない。
 皆の構える手が微かに震える。ヴィータの目の端が滲んでいたし、リインは今にも泣き
出しそうな顔をしていた。シグナムは刃のような目で己が拳を見下ろし、ザフィーラは口
を真っ直ぐに引き結ぶ。アギトが前を見据えた。
 そして、
「じゃんけんぽん!」
 全員が、己の命運をかけ拳を振り下ろした。