夜の間に降った雨がきらきらと輝いていた。常緑樹の緑の葉っぱの上で、濡れたアスフ
ァルトの上で朝の光が跳ねる。あの光の粒が掴めそうだ、とヴィータは思った。門から出
てアスファルトに飛び出すと、僅かな水の感触を踏む。跳ねると水滴が幾つも零れた。光
を生み出し歩く朝だ。
「ザフィーラ!
 早くしろよ!」
 ヴィータは開け放たれた玄関を振り返り叫んだ。玄関ではコートに身を包んだザフィー
ラが靴紐を結び終わったところだった。厚手の黒いロングコートが翻る。ヴィータはそれ
を見て上機嫌に唇を歪めた。
「そのコート、この前はやてが見立ててくれた奴じゃん。」
 ザフィーラは灰色のマフラーを巻き直しながら、短く肯定した。
「ああ、そうだ。」
 皆で遊園地や動物園に行こうというときなんかは、格好いいお兄さんやっててくれたほ
うがいい、とはやてが言ったのは小学生のころ、初めて皆で遊園地に行こうと計画した時
のことだった。一重にその理由は、犬だと一緒に遊園地に行けないからであったのだが、
そのときから、要るときもあるだろうと数こそ多くないものの、ザフィーラの服も用意す
るようになった。
 大抵は、はやての気の向いたときに、ザフィーラが街を引っ張りまわされるという構図
で買い物は進む。はやてはいつも朝一番で出かけたかと思えば、夕方頃にそこはかとなく
やつれたザフィーラと一緒に紙袋を一つか二つだけ持って帰ってくる。その日の夕飯の後
には、はやて主催でザフィーラのファッションショーが開催されるのが恒例だ。取立て、
このコートは最近ショーでお目見えしたものだから、ヴィータの記憶にも新しい。
「へ、似合ってんじゃん。」
 ヴィータが振り仰いで言うと、ザフィーラが微かに笑った。快晴の空の中、煌く。
「当たり前だ。」
 家の中から見送りに、リインが飛び出してきた。朝の冷たい空気を舞って、二人の目の
前に来ると、ぴっと人差し指を立てた。
「いいですか、はやてちゃんはやっとお見舞いできるようになったところなんですから、
 絶対に五月蝿くしたり起こしたりしちゃダメですよ?」
 頬を膨らませて言うリインは、昨日のじゃんけんのあとから妙に口煩い。昏睡状態から
目覚めなくて困っているのだから、むしろ起こしちゃうのはいいことなんじゃないかと、
ヴィータは密かに思っているのだが、正直に口にするとややこしいので言わない。リイン
はただ、じゃんけんで負けたことが悔しいだけだ。
「病院で走り回っちゃだめですし、
 それから、それから――――。」
 尚も言い募ろうとするリインに、家から出てきたアギトがつっけんどんに言い放つ。
「一番やかましいのはお前だ。」
 リインが言葉を詰まらせて、やや後方に浮いているアギトを振り返った。リインの頬は
両側とも丸く膨れている。
「リインはお見舞いに行く者の心構えを説いているだけです!」
 むすっとしたまま言うと、アギトが半眼になりつれない調子で口を開く。
「ばってんちびが心構えをねー。
 大層なことだな、寝癖ついてるくせに。」
 途端、リインが目にも留まらぬ速さで頭を両手で押さえた。真っ赤な顔で頭を腕で覆う。
「あう・・・。」
 涙目になりながら、リインが雨の中、捨てられた子犬のような目をする。途方に暮れた
その顔を見ながら、アギトがぷっ、と噴き出した。そして一言告げる。
「嘘だけど。」
 リインの顔が、さっきとは違う意味で真っ赤になった。
「アギト!
 昨日からリインのこと何度もからかって、許さないですー!」
 叫ぶや否や、リインはアギトに向かって飛び掛った。しかし、アギトの方がやっぱり一
枚上手だった。軽く身を捻ってやりすごすと、通り過ぎて行ったリインを尻目にヴィータ
とザフィーラを見上げた。
 二人と目が合う。アギトは何か言おうと口を開きかけ、でもうまく言葉が出てこないの
か、唇の形を歪めただけだった。そこへ、後ろから、戻ってきたリインがタックルをかま
した。
「ぐおっ!」
 腰が逆向きにくの字に折れたアギトが変な声を上げる。リインはアギトの腰にしがみつ
いたまま、怒った様子で捲くし立てた。
「アギトみたいな、年がら年中そんな格好で季節感もTPOもない子に、
 身だしなみでからかわれる筋合いありませんです!」
 大きな声を出し、ぎりぎりと腕で締め付けてくるリインに、アギトが苦しそうに顔を赤
くしながら、放せ、と悲鳴を上げる。暴れるアギトとしがみつくリインの二人は、きりも
み状態で口論をする。そんな二人に、ザフィーラが表情を緩め、ヴィータが肩を竦めるよ
うにして笑った。
「それにしても、まだ9時だぞ。
 面会時間は午後からだというのに、いささか早すぎはしないか?」
 きりもみする二人を手で避けながら、サンダルをつっかけたシグナムが門から出てきた。
尤もな指摘に、ヴィータは直ぐに答えを返しかねた。だが、ザフィーラが淡々と返す。
「雪が降って交通機関が麻痺するかもしれん。
 それに備えての行動だ。」
 ヴィータがぽんと手を打った。
 シグナムはそうか、と返しながら、快晴の空を見上げた。雲ひとつない、高く晴れ渡っ
た青空を。
「確かにそろそろ雪が降る季節よね。」
 シャマルがそう言いながらシグナムの隣に並んだ。その白く染まった息の端が、光に透
かされて広がった。ミッドチルダではあまり雪は降らない。一年に2、3度積もる程度だ。
かまくらなんてとても作れはしないけれど、庭の雪で雪だるまを作るのは、雪が積もった
日の最重要ミッションだった。
「今年は雪だるま、はやてと一緒に作れるかな。」
 ヴィータが小さく零した。シグナムは口角を持ち上げると、ヴィータの頭の上に手を置
いた。
「何すんだよ。」
 不機嫌そうな声を上げるヴィータに、シグナムは手袋を差し出した。
「忘れ物だ。
 テーブルの上におきっぱなしだったぞ。」
 ヴィータは受け取ると、ありがと、と呟くように言った。
「そろそろ、行って来い。
 雪が降って交通機関が麻痺すると大変だからな。」
 シグナムがそう言うと、ヴィータとザフィーラは頷いた。言い争いながら何処かに吹っ
飛んでいたリインとアギトが争う腕を止めて、シグナムの隣に並ぶ。
「じゃあ、はやてのところに行って来るからな!」
 手袋を嵌めた手を振ると、ヴィータとザフィーラは皆に背を向けて歩き出した。
「行ってらっしゃいですー。」
 リインが未だ悔しそうにと手を振る。そのうちに、二人は速い足取りで角を曲がってい
ってしまった。じゃんけんで最後の最後まで負け続けたリインがお見舞いに行けるのは明
後日だ。
「いつまでもめそめそしてんじゃねーよ。
 仕方ねー、あたしが順番変わってやろうか?」
 アギトがにやっと意地悪く笑いながら言うと、リインはそっぽを向いた。
「アギトも明後日のくせに、よく言うです。」
 ふくれっつらのリインが飛び上がり、庭のほうへと飛んでいく。アギトは目で追うと、
肩を竦めて後を追いかけた。
「まったく、騒々しい奴らだな。」
 シグナムが行ってしまったリインとアギトを目で追いながら、隣に居るシャマルに話し
かける。
「しかし、お前が昨日の夜突然、
 今日から面会できると言い出したときは、
 本当に驚いたぞ。」
 振り返ると、シャマルはまだ、ヴィータとザフィーラが歩いていった道の先を見ていた。
「本当は何日か前から、
 いつ面会出来るようにするかって、話していたんだけれど。
 中々決められなくて。」
 穏やかな風が吹いて、柔らかい金色の髪、その毛先が微かに揺れた。直接はやての治療
に携わっては居ないが、医師としても勤めることのあるシャマルはこの中で最も正しく、
そして良くはやての容態や治療方針を理解している。主治医と最も話し合っているのもシ
ャマルだ。
「そうか。」
 シグナムは頷くと、表情を崩した。
「しかし、お前が回復は凄く難しいと言っていたのに、
 こうやって会えるほどに回復なさるとは、
 流石我等の主だな。」
 感慨深く、胸の奥から湧き出たような声音でシグナムは紡ぐと、空を仰いだ。快晴の空、
真っ青な空から白い光が零れ落ちてくる。太陽と共にある朝。シグナムは瞳にその景色を
映すと、微笑を広げる。
 その中に佇むシャマルもまた、鮮やかな色で描き出されていた。唇を結び、道の先から
遠い景色を透かし見るシャマルが。
「ねぇ、シグナム。
 あなたは知ってた?」
 シグナムは目線を街並みへと下ろすと、シャマルを振り向いた。
「なんだ、シャマル。」
 白い横顔に目を向ける。シャマルは前を見たまま、目を微かに細めた。
「管理局と管理外世界の人間が関わってしまった場合に取られる対応は、
 二つしかない、って。」
 シグナムが首を傾げた。突然の話題の転換についていけなかったし、シグナムは法務に
ついて余り深くを知らない。そうなのか、と問い返すと、シャマルは頷き、そう、と囁く
ほどの声音で頷いた。
「一つは魔法を失って記憶を奪われるか、あるいはそれに準拠した対応。
 もう一つは管理局の嘱託魔道師として生きる道よ。」
 静かに編み上げられた言葉に、シグナムは息を詰めた。シャマルがシグナムを振り返る。
澄んだ眼差しが朝日を浴びて、光を湛えていた。シャマルの唇が、言葉を生む。
「私たちって一体、はやてちゃんの何なのかしら。」



 角を曲がり、皆の声が聞こえなくなったところで、ヴィータがザフィーラを仰いだ。
「随分、急いでんじゃねーか。」
 好戦的な声音。ザフィーラは冷静な眼差しを道の先に向けていた。
「いつも通りだ。」
 ヴィータが呆れたように、でも面白そうに笑った。
 通いなれた道、歩きなれた通りが輝いている。向かう先の空で太陽が光を放っていて、
自然と眩しさに目が細くなる。ザフィーラが微笑んでいるように思えるのは、その伏せら
れた睫に光が瞬いているからだろうか、とヴィータは思った。
「そっか、それじゃあ、駅までどっちが先につくか競争しねー?
 早くついたほうが、はやての手を先に握れる。」
 そう提案すると、ザフィーラが珍しく強く答えた。
「泣くことになっても知らんぞ。」
 みんな輝いている。太陽も、木の葉も、アスファルトも、人も、靴についた水滴も、み
んな。ヴィータはザフィーラが乗ってきたことに素直に笑いながら、掛け声をかけた。
「よし、勝負だ!」
 言うや否や、ヴィータはザフィーラを置き去りにして駆け出した。出遅れたザフィーラ
が全力疾走をしてくる足音が聞こえてくる。この構図で、助けて、とか叫んだらザフィー
ラは捕まるんだろうな、なんて縁起でもないことを想像したら余計に可笑しかった。

 走るヴィータの耳元で朝の風が切れて音を立てる。

 この風の音が、はやての居る病室まで届けばいい。
 冷たいけど気持ちいい風の中で、ちょっと冷たくなった手を握って。

「はやて。」

 それで、隣に居るからって、
 あったかいねって、
 そう言って、笑い合いたいよ、


 はやて。