モニタの中で、ティアナが苦渋に満ちた表情を濁らせる。
「それで、他の次元世界での犯行の取り締まりと、
 質量兵器の密造が行われている管理世界の摘発へと捜査方針が転換したんです。」
 シグナムはそうか、と短く返事をすると唇を引き結んだ。自分の顔が歪んでいるのが分
かる。ティアナはよくやった。皆、よく動いたのだろう、その結果こうなったのであれば
仕方のないことだ。シグナムは胸中でそう唱えると、努めて表情を和らげながら、ティア
ナに礼を告げる。
「すまないな、ティアナ。
 知らせてくれたこと、感謝する。」
 慇懃に頭を下げ、シグナムは通信を切った。モニタも消すと突然視界が開ける。地上本
部の一角にある、ソファが幾つかと鉢植えの観葉植物が数本置かれただけのラウンジは、
昼間といえど電気がついていないためか薄暗かった。シグナムは息を吐き出すと、影の落
ちた自分の手を見る。背面は一面ガラス張りになっていて、まばらに雲が散るだけの空か
ら注ぐ光が、床にシグナムの影を淡く落としていた。光の中に蟠るシグナムの黒い影は、
冬の朧な日差しに輪郭を曖昧にしていた。
 時空管理局が踏み込めるのは、本来的には管理世界のみだ。魔法技術の一切を持たない
管理外世界への干渉は、度を過ぎればその世界の均衡を破壊しかねない。慎重になるのは
当然のことであり、犯人達が管理外世界政府の内部に入り込んでいるのであれば、それに
管理局を知られずに捕縛するのは難しい。そして知られたならば、おそらくそれは件の管
理外世界にとっては致命的な過干渉になるだろう。
 第121管理外世界は内部国家を二分する大戦の最中にある。この大戦の行方が今後の
世界の行く末を決めるものであれば、容易に干渉することなど出来よう筈もない。質量兵
器の密輸犯らはそこに目をつけたのであろう。彼らはその第121管理外世界では製造不
可能な管理世界で造られた高度な兵器を売りつけることで多額の利益を得、なおかつそこ
に身を隠すことで、管理局の手を逃れることにすら成功している。
 彼らに手を下すことは、もう実質不可能だった。
 管理局は既に、他の次元世界での犯行の取り締まりと、質量兵器の密造が行われている
管理世界の摘発へと捜査方針を転換した。これはつまり、あの男を追うのを諦めたという
ことに他ならない。密輸犯を野放しにしておくのだ。あの男を捕まえることが出来ないの
だ。
 シグナムは指を組み手を合わせ、力を込めて握り締めた。歯を立てた唇が痛む。
 悔しかった。言葉を失うほどに。はやてを傷つけ、人を傷つけ、そんな人間を野放しに
生かすことしか出来ないそれが、例えようもなく悔しかった。背中をじりじりと焦がす日
が熱い、網膜が焼け、視界の中に自分の影が残り、瞬きの度に暗闇の中に浮かび上がる。
 感情のままに暴力を振るった犯罪者を見る度に思っていた。彼らは何故、人を傷つけず
に居られなかったのか。今まで理解することは出来なかった。だが、あの時から、シグナ
ムはその訳を理解している。はやてが刺されたあの夜から、シグナムは確信に満ちてその
訳を知っている。
 止めるのが難しいのだ。体を突き破るような怒りを、理性が吹き飛ぶような憤りを、抑
えつけることの難しさは、抑えつけるときの悔しさは、それこそ我が身が沸騰しそうな程
だった。怒りに震える両手が何度自分に剣を振るえと叫んだことか。こんな人間共に生き
る価値はないと、斬り捨ててしまえと何度怒鳴ったことか。
 目の縁が熱く滲んで、シグナムはなおさら強く唇を噛んだ。
 私は騎士だ。
 シグナムは胸にその言葉を刻みつける。いくら憎くても、それでもしてはならないこと
がある。そして、それをしないことこそが、自らのせめてもの力の証明なのだ。怒りのま
ま力を振るわない。自分にはあんな人間等とは違い、守るべき大切なものがある。目の前
で主を傷つけられた情けなく、弱く、存在価値もない騎士。それでも、その力の意味を履
き違えてはいけない。守るべきものを守る、それを忘れることは出来ない。それを忘れた
ならば、自分はもう騎士ではない。
「主。」
 呟く自分の声が聞こえる。リインフォースを失って10年のうちに自然と綻びた守護騎
士システムは、精神リンクに度々の不調を来たすようになっていた。だが、意志に応じず、
主へと声が届かなかったことはない。主の声が届かなかったことはない。誇り高きかの人
への騎士の誓いは10年の時に崩れることなどなかったというのに。今、いくら呼びかけ
てもまるで繋がらない。何処とも知れぬ大海に声を放り投げているようで、主が何処に居
るかも分からない。精神リンクは完全に断絶して、存在も感じられなかった。声は聞けな
い。聞こえない。
 シグナムは睨み付けた視線の先の空間を、薄暗いラウンジに潜む観葉植物の葉が茂らせ
る鈍い光沢を、誰も座っていないソファの上にある空白を見つめた。人がいなくなったら、
そこに穴が開く。自分はその、穴を開ける感触を知っている。決闘の後の空隙。
「ゼスト。
 私はどうすればいい。」
 あの誇り高き騎士はここには居ない。彼の言葉はもう何処からも降っては来ない。シグ
ナムの中にその破片がいくつも散らばっているだけだ。
 本当に守りたいものを守る。
 それだけのことが、どうしてこんなにも難しいのだろう。
 騎士である自分が守るべきものは、主が信じた幸福論だ。だが、シグナムにはそれを守
る術がない。成し得る方法も奪われて、今シグナムに出来るのは、待つことだけだ。先日
会ったはやてはまだ蒼白な顔をしていた。回復しているとはいえ、目覚めるまでに多くの
時を要するであろう。それを、はやてが戻ってくると信じて、ひたすらに待ち続けること
しか出来ない。他には何も出来ない。
 シグナムは組んでいた指を解き、身を起こした。体を捻り振り返ると、一面の窓を見上
げる。薄汚れた透明の先に広がる街並みと、白んだ冬の空を見た。千切れた雲が西へと渡
り、太陽が高みで輝いている。週間の天気予報では、今週末には雪が降るだろうと予測し
ていた。降れば今年の初雪になる。シグナムは思う。毎年のように雪だるまを作ることは
出来るだろうかと。白銀の世界の中に、お前の姿を見ることが出来るだろうか、と。
「リインフォース。」
 シグナムの声が空中に描き出された。窓の四角くが映りこみ、シグナムの瞳は光を表面
に滑らせている。今は居ない者に、縋ってはいけない。リインフォースは主のことを自分
達に託して消えたのだ。だが、願わずにはいられなかった。シグナムは緩やかに手を握り
締めると、静かに言葉を紡ぐ。
「どうか主を、導いてくれ。」
 十字も鐘も司教も居ない礼拝堂のステンドグラスは土埃に霞んだ窓ガラスで、騎士は一
人その中で真昼の空に祈りを唱えた。
 その時、通信の呼び出し音が響いた。シグナムは空を仰いでいた顔を俯けると、モニタ
を開き通信者を確認する。それは今頃、はやての見舞いに行っている筈のザフィーラから
だった。シグナムは通信回線を開く。
 画面に映し出されたのは、人型のザフィーラだった。いつも通り表情に乏しいが、その
顔にはまったくと言っていいほど、感情が見えなかった。時が静止したような、まったく
波のない表情に、シグナムは眉を顰めた。ザフィーラはシグナムを見据えたまま、口を動
かした。
「シグナム。
 主はやてが、――――――。」
 シグナムの目が、驚愕に見開かれた。