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 冬の日は短い。あれだけ白い光を零していた太陽は既に没し、透明な空気は深い青に溶
けていく。地平の縁、空の縁だけに残る一抹の陽光は、まるで火の手が上がっているかの
ようだった。オレンジの火は建物の群れを影として焼付け、揺らぐことなく帯のように世
界を染めている。
 アギトはただ、その様を見つめていた。外が暗くなるのに対比して、窓に映る自分の姿
が鮮明になっていく。窓の桟に座り込み、彼方、残照を足元に見下ろし、澄んだ西の空の
向こうに瞬く真っ白い一つの星を見つめている自分の姿はガラスに囚われて、歪んだ平面
だった。
 アギトの背後を、時折人が通り過ぎて行った。靴音をリノリウムの床に響かせ、近づい
ては遠ざかる足音が、いくつも行きかう。振り返らずとも、空を見上げるアギトの視界の
角、ガラスの中に流れる彼らの姿が目に入る。何事もないかのようにゆっくりと歩く患者
や、颯爽と歩き去る病院関係者の姿がぽつ、ぽつと現れて、消えていく。
 滑稽だ。アギトは胸中で呟いた。空調が利いているとはいえ、窓の傍は寒かった。
 アギトを認めて、立ち止まる人は居ない。アギトが何を思おうと、アギトが何を受け入
れようと拒もうと、アギトに何が起ころうと、彼らには何も起こらない。彼らの日常は、
間断なく続いている。今でもずっと。
 自分達の今日も、そんな変わりなく流れる日々の一つでよかった筈だ。新人魔導師の覚
えが悪いとぼやくヴィータの愚痴と、それを気のない様子で窘めるシグナムを眺めながら
いつも通りの帰り道を歩いて。寒さに文句を垂れつつ家のドアを開けると、もう先に帰っ
てきていたリインやシャマル、ザフィーラが居て。そしてその中に、似合わないくらい可
愛いエプロンをつけたはやてが、お玉でも持って待ってくれている。今日もそんな日が来
るので良かったはずだ。
 今日も、そんな日が来るのが良かった。
 はやて。
 名前を呟くと、目頭がぎゅっと熱くなった。こみ上げて来るものが、目の縁に滲み、視
界をぼやけさせる。アギトは手を握り締めて、顔を俯かせた。外から差し込む青に、手の
形は溶けるように霞んでいた。自分の、細くて小さな指。
 羨ましかった。何もない、いつも通りの毎日を送っていることが、送れている人が、ど
うしようもなく羨ましかった。どうして、自分達にはそれがないのだろう。たった、それ
っきりのことでいい。朝起きて、はやてにおはようと言って、ご飯を食べて、仕事に出か
けて。それで、夜になったら家に帰ってきて、ただいまと言って。おかえりなさいと言わ
れて。それだけでいい。ほんの、それっきりでいいのに、どうしてそれすら今目の前にな
いのだろう。
 熱い目蓋のまま顔を上げると、窓ガラスに嵌った自分と目が合いそうで、アギトは空を
仰いだ。先ほどと同じように、西の星を見つめる。残照はこうしている間にも溶け消えて、
代わりに小さな星屑が数粒、輝き始めていた。
 アギトの瞳の奥に、あの日が映る。
 それは、はやてがアギトに、家族になろうと言った日だった。機動六課が解散して、家
に住むようになって三週間くらい経とうという頃のことだ。そもそも、アギトにとって、
はやては予期せぬおまけのようなものだった。自分のロードであるシグナムが仕える人間
という関係を考えれば、尊ぶべきであるのは確かだったが、感情面でも直ぐにそう出来る
程にアギトの思考は効率化されていなかったし、シグナムとてアギトにとっては見定めて
いくべき相手だったのだ。はやての存在は言ってしまえばただの厄介事だった。
 だから、自分達はこの家に一緒に住む家族だから、なんて呼んでも構わないと、家族に
なろうと言われたとき、アギトははやてを変な奴だと思った。可哀想な奴だとも。はやて
が家族と呼ぶのは守護騎士と融合騎で、その中に人間は含まれて居なかったから、他に家
族と呼べる者がいなくて、自分みたいな物にそう言うしかない、可哀想な奴なんだと。た
だ縋っているだけの可哀想な奴なんだと思った。
 それから、二日くらい経った頃。アギトは、夕飯の支度をするはやてと家で二人きりに
なった。一緒に帰ってきたシグナムは夕飯の材料が足りないからとお遣いに行き、他の四
人はまだ帰って来ていなかった。夕飯はから揚げだった。油の跳ねる音を聞きながら、ア
ギトはリビングに何もせず座っているのも、かといって部屋に篭っているのも変な気がし
て、ダイニングテーブルの上に胡坐を掻いて、ひたすらに壁に掛かった時計を眺めていた。
 秒針が刻み、長針が1度倒れ、短針が緩慢に動いていくのを凝視していると、それまで
ずっとから揚げをあげていたはやてが不意に台所から顔を出した。はやてが直ぐにアギト
の姿を認めたのが分かったが、アギトは振り返らなかった。だがはやては、臆することな
くアギトに声を掛けた。その手には爪楊枝に刺されたから揚げが二つあった。
 うっかり数間違えてしもうたから、余った分こっそり食べへん、とはやてはアギトに耳
打ちし、から揚げを一つ握らせた。受け取るつもりなんてなかったのに、から揚げとはや
てがアギトを見つめていて。突っ返せばいいだけなのに、何故だか、いらねえよ、とは言
えなかった。
 アギトははやての視線に促されるまま、から揚げを口に入れた。
 とんでもなく熱かった。
 噴出さなかったのは奇跡だと思った。よくよく考えなくとも、今の今まで揚げていたよ
うなものなんて、即座に食べられたものではなかったというのに、いい匂いに騙されて口
に入れたのが運の尽きだった。それと同時に、アギトは可哀想な奴だと思っていることが
ばれて、よもや報復されているのではと勘繰った。生活を共にするうちに間抜けな印象の
方が強くなっていたが、元は機動六課の部隊長だ。アギトの手の内など知り尽くして、こ
うやってねちねちと嫌がらせをするつもりかと思うくらいに、アギトは人のことが好きで
はなかったし、から揚げは熱かった。だからアギトは、はやてを横目で伺った。
 はやては全力で咳き込んでいた。
 ただの馬鹿だった。
 はやてはひとしきり咳き込んで、それでもなんとかから揚げを飲み込むと、涙目でアギ
トのほうを振り返った。そうしてはやては、ごめん、熱かったな、火傷せえへんかった、
と言いながら、呆れるほど緊張感のないあほ面で笑った。あの甘ったれた笑顔で、はやて
は
「なんで、泣いてるですか?」
 冷酷な声がアギトに注がれた。金属を叩いたような澄んだその音に、アギトは自分の足
を打った生暖かい雫に気づいた。見下ろせば、胡坐を掻いた足に水滴が落ちていた。それ
が何か分からず眺めていると、追いかけるように数滴の水が目から溢れて落ちた。
「なんで、泣いてるですか?」
 リインフォースが繰り返した。背筋を伸ばして起立したリインフォースは、座ったまま
のアギトを見下ろしていた。凍れる冷徹な青い双眸に睥睨され、アギトは握り締めていた
手を解き、掌を開いた。そこに新たな暖かい水滴がいくつも跳ねる。歪んだ視野は目蓋の
縁から水滴が落ちる度に、一瞬鮮明になった。
「泣くなって言ったのは、アギトじゃないですか。
 それなのに、どうして泣いてるですか。」
 暗く沈んだその声は、もはや質問ではなくアギトを責めていた。アギトは顔を上げる。
既に点された電灯が逆光になり、リインの表情は黒かった。
「泣くなって、言ったじゃないですか。
 それなのに。」
 リインの唇が言葉を紡ぐのを見つめていると、アギトの濡れた頬に、雫がまた垂れてい
った。感情すら静止したリインの面差しに、アギトは自分の口元が歪むのを感じた。口角
が吊り上がり、不恰好な笑みの形に変わる。頬に押されて目が細められて、目頭から熱く、
「お前、シャマルが言ったこと、本当に分かってるのか?」
 涙が溢れた。
 潰れた笑顔で、アギトは震えていた。
「はやては、苦しんで死ぬんだぞ。」
 アギトの両眼から溢れる涙が、頬を伝い落ち、掌に零れ、窓の桟にまで跳ねる。それを
見つめるリインの眼窩に、氷結した瞳の青が溶け出していた。浮かんだ透明が、電灯の無
機質な白と、窓の外に残る黄昏の青に滲む。服を握り締めるリインの指先には、病的な白
で骨格が透けていた。リインが唇を戦慄かせる。
「泣くな、って。
 言ったじゃないですか。」
 アギトはもう一度だけ、笑って見せた。
 涙しか溢れなかった。
「泣くなって言ったじゃないですか!」
 劈くようにリインが叫んだ。甲高い声は裏返って耳に響いて痛くて、アギトは引き攣っ
た口を開いて、はは、と音を出した。漏れただけだった。
「信じろって言ったじゃないですか!
 それなのに、どうしてアギトが泣くんですか!」
 リインが体を折り曲げて、腹の底から絶叫する。銀の髪が散った。流れ星の軌跡のよう
な光を纏って、雨のように降り注ぐ。外は夜。室内の明かりに照らし出されて、窓は鏡の
ように二人の姿を映し、景色は見えない。夜空も、星も。
 もう、二人の姿しか、見えない。
「はやては、痛い思いして、でもこんだけ頑張って戻ってきて。
 それなのに、苦しんで死ぬしかないんだって、さ。
 それを、」
 アギトが囁くような声を、降らせた。
「泣かないでなんて、いられないよ。」
 リインの瞳から、涙が零れ落ちた。大粒の涙がいくつもいくつも頬を伝う。決壊したか
のように溢れるそれは、止めようもなく流れる。流れる涙は光に晒されて、流れ星に見え
た。いくつ落ちても、願い事なんて唱えられないのに。唱えるべき願い事なんて、もうな
いのに。
「泣くなって、信じろって、言ったじゃないですか。」
 回復と崩壊を繰り返し、段々とぐちゃぐちゃになっていく。蒼白な顔で、機材に繋がれ
て、笑うことも泣くことも話すことも出来なくて、痛いって言うことだって出来なくて。
そんなのを何回も何回も繰り返して死ぬんだ。アギトに、家族になろうと言った人が。リ
インに一緒に生きていこうと言った人が。

 初めは変な奴だと思った。可哀想な奴だとも。
 家族という意味も良く分からなかった。
 それでも、はやてをはやてと呼んだのは、

 単純に、はやてを好きだと思えたからなのに。

「泣くなって、言ったじゃないですか!」
 リインが泣きながらアギトを怒鳴りつける。アギトはだから、拳を握り締めて、今度こ
そ絶叫を迸らせた。胸の奥から全て吐き出すように、大声を張り上げた。
「泣かないでなんて、
 いられるかああああああっ!!」
 燃え上がる咆哮に打ち抜かれて、リインの膝から力が抜けた。涙が流れるままに、リイ
ンはアギトに抱きついて。そしてリインは子供のように、声を上げて泣き出した。