庭に出ると、夜露の匂いを孕んだ風が鼻先を掠めた。出してあったサンダルに足を掛け、
シグナムは庭のタイルの上を歩き始める。腕の中に抱いたはやてが苦しくないように、な
るべく滑らかに、ゆっくりとした歩調で足を運ぶと、サンダルが踏みしめる砂の音が耳に
付いた。
 庭木の葉の色は夜に溶けて青く、室内からの明かりが四角く届く芝生だけが滑らかな緑
をしていた。その中に数本生えた雑草は小さな白い花をつけ、時折吹く風に身を揺らす。
肌を焦がした強い日差しも、むせ返る様に立ち込めた昼間の熱気も、もう夜の中、息を潜
めている。耳の奥に微かに響いてくるのは、何処かの通りを走る車のぼやけて輪郭も曖昧
な音と、庭を行きかう生き物の気配ばかりだった。シグナムは庭の外を仰ぐ。街の方、夜
空を照らす明かりが遠くに見えた。
 この小さい庭のある、天球。シグナムが息を吐き出すと、腕の中ではやてが身じろぎを
した。シグナムがはやての顔を覗き込むと、はやてはくすぐったそうに首を竦めて微笑ん
だ。肌に触れるはやての暖かさをシグナムは抱き寄せる。そうすると、はやてはシグナム
の首に回した腕に力を込めた。
「今日は、よう星が見えるな。」
 はやてが、空に輝く夏の星座を見上げた。あどけない輪郭が一層丸みを帯びて仰ぐ空を、
シグナムも望んだ。頭上、空の天辺を見上げる。深く、吸い込まれるような夜空には月が
輝き、千切れた雲の一筋と、砂粒のように煌く星が幾つも散らばっていた。真っ黒の空い
っぱいに瞬く星達は、数えることすら叶わない程で。
「本当ですね。」
 天に流れる川を見つめるシグナムの横顔に、はやては嬉しそうに「せやろ?」と頷いた。
シグナムは間近にあるはやての顔を振り返り、自分を見つめるその眼差しを見つめ返して、
微笑んだ。
「ええ、綺麗です。」
 はやての瞳が、嬉しそうに綻んだ。そうして、はやては空に手を伸ばす。
「なあ、シグナム、見ててな?」
 小さな掌を開いて、指の間に一つの星を捉えて、はやては笑う。幼い顔、丸く黒い瞳の
表面を、光が流れていた。シグナムの見つめる先、はやては小さな手をきゅっと結ぶと、
その右手を大事そうに左手で包み、胸元に引き寄せた。掌に水を掬うように指の間を閉じ
て手を合わせ、はやては開いた掌をシグナムに見せる。
「ほら、お星様取れたで!
 見えるやろ?」
 はやての掌はやわらかく曲線を描いて、大切なものを落とさないように器を形作ってい
る。そこにあるのは夜風と、室内から差し込む蛍光灯の光が形作る陰影だけで。
 でも確かに、シグナムには見えた。
「ええ、もちろんです。」

 シグナムがはっきりと頷くと、はやては満面の笑みを零した。








 吹き曝しの病院の屋上を、凍える風が貫いていた。フェンスに引き裂かれ甲高い悲鳴を
上げて、風が耳元で死んでいく。唇から漏れた息は真っ白く棚引き消える。冬の夜風は一
層冷たい。凛と冷え切った風は地表に熱など残さず、全てを凍りつかせてしまう。シグナ
ムの指先は硬くなり、胸を射抜く寒さにもう、震えすら止まってしまった。何も動かない。
ただ、煽られる髪が頬を打つだけで。
 シグナムは右手をコンクリートの壁に叩き付けた。一撃で拳の皮膚は破れ、血が流れ出
す。濁った感覚では痛みすら温い。もう一度殴りつけると、何かが砕けるような音がした。
燃えるように右手が熱い。やがて、掌に生暖かい液体が染み込んで、拳が不愉快にぬめっ
た。
 血が拳から溢れていた。夜闇の中、殴りつけたコンクリートの壁面を流れ落ちていく。
風に晒されながら、緩慢に壁面を伝う血は夜闇に黒く。
 どうして、守れなかったんだろう。
 あの時、どうして一瞬でもはやてから目を離したんだろう。あの時、どうしてバインド
ではなく結界に閉じ込めておかなかったのだろう。あの時、どうして昏倒しているかどう
か確認しなかったのだろう。あの時、どうして武装しているかどうか調べなかったのだろ
う。あの時、どうして。
 もし自分があの時、はやてから一瞬でも目を離さなければこんなことにはならなかった
筈だ。もしあの時、はやてに下がっているように言っていれば、それだけでもこんなこと
にならなかった筈だ。もし、はやてが来る前に、もっと厳重に拘束していれば。もし、は
やてがあの時、同じフロアに下りてこなければ。
 もし、ばかりを積み重ねても、何処にもいけないことは知っている。もしなんて言葉に
意味はない。時は止まらないし、巻き戻りもしない。自分の行動の結果が、今に現れてく
る。それを受け止めていくことしか出来はしない。やり直すことも、逃れることだって出
来ない。いくら、拒んだとしたって。だからこそ、生は責任を背負っている。自分に対し
ても、他者に対しても。 
 自分の目の前にあるのは、だから、自分の不甲斐無さの、結果だ。
 はやてを守れなかったことの、自分が弱かったことの、結果。
 込み上げて来る激情が、シグナムの体を震わせた。顔が歪に変形し、噛み締めた歯が鈍
い音を立てる。足元、踏みしめたコンクリートの床の上に、シグナムの影はなかった。雲
の掛かる星空では、全てが影になってしまう。老化したタイルの隙間に吹き溜まる埃は漆
黒の奈落を刻みつけ、劣化した建材を飲み込んでいく。
 シグナムはその暗い線を踏みつけて、眼前の闇を睨み付けた。
 だがこれが、主はやての成してきたことの結果なのだろうか。
 間違っていたのか。何か一つでも。人を守る。それの何が間違っていて、こんな結果に
至るというのだろう。傷つけられる人を守りたい、それの一体、何がおかしいというんだ。
 人間には二種類いる。
 傷つける人間と守る人間だ。人間のことを傷つけるのは人間だけだ。彼らはこんなに同
じ世界に生きて、こんなに傍に生きているのに、それが他者であるという理由だけで、同
じ人間だと思っていない。自らの行動が与える影響も、捻じ曲げてしまう人の生にも、何
にも関心がない。彼らにとって、人は物でしかない。命ですら金に変わり、その行動のた
めに傷つけることに躊躇いすら覚えない。身勝手で愚かで馬鹿げていて、一時の感情でど
んなことでも犯してしまって、後先のことを省みることも無い。大切なものの一つもない。
ましてや、人の、同じ人の命や生活を食い潰して生きることさえよしとする。
 そんなに人間に、一体どうして主はやてが――――。
「―――――っ。」
 唇から低い声が響く。誰も聴くことのない声は、ただ一人シグナム自身の鼓膜のみを打
った。拳に爪が食い込む。
 そうできるならしてやりたい。
 シグナムは拳を壁に叩きつけ、額を押し当てた。そして、胸に刻んだ言葉を強く己に打
ち付ける。
 自分は騎士だ。他の誰でもない、夜天の王八神はやてを守る騎士だ。
 主はやてはそんな人間を淘汰したいのではなく、そんな人間に傷つけられる人を守ろう
としていたんだ。だから自分は信じなければならない。主はやての意志を守るために。主
はやての騎士であるために。そんな人間にも生きる価値はあると、信じなければならない。
本当に守るということは、その人の想いすら守るということだ。
 本当に守りたいものを守る。
 共に生きる中に、幸せがある。
 その想いを守るのに、復讐する為の剣は要らない。
 シグナムは眼差しを細める。暗澹たる海の瞳で、夜をその目に収めて。
 でも、シグナムには分からない。人を傷つけ生きる人間の存在価値が。居ないほうが余
程世の中は安全で幸福なはずだ。居なければ誰も傷つくこともなく、誰も悲しむことなど
ない筈だ。それをどうして、否定しないのだろう。その存在を淘汰しようとすることもな
く、剣を振るうこともなく。
 そんな人間のために、はやては。
 震える息を吐き出すと、シグナムはゆっくりと顔を上げた。壁に自分の影が映っていた。
血塗れの掌には淡く光が差し込み、朧な陰影を残している。シグナムは体を起こし、背後、
広がる夜空を振り仰いだ。
 雲がいつの間にか晴れていた。冬の透き通った空には白い月が煌々と輝き、丸い天球を
照らしている。街に月明かりが降り注ぐ。シグナムの手の中にも、その姿にも、全てに。
無数の星が煌いていた。こちらを見つめ瞬きを繰り返す星は、見つめていると吸い込まれ
るようで。満天の星空だった。両腕に抱えきれないほどの星が輝き、光が降り注いでいる
夜。
 シグナムは右手を空に翳した。血に汚れた掌を大きく開き、指の間に一つの星を捉える。
直ぐそこに見えるのに、決して届かない光を、掌にぎゅっと握り締め、左手で包んだ。そ
うして、胸元に手を引き寄せる。指は、ゆっくり、一本ずつ開いた。
 掌にあったのは、血の跡と、星明りの落とす指の影だった。

 錆付いた蝶番が動く耳障りな音が響いた。屋上に続く扉から、一つの足音が現れる。シ
グナムは緩慢に背後を振り返った。そこには、見知った人の横顔があった。肩口で揃えら
れた金髪が風に靡く。屋上を中央に向かって歩を進める彼女はコートも羽織っていなくて、
スカートが風に翻った。そして彼女は無言のまま、夜空を見上げる。遥か高く、手の届か
ない漆黒の夜空を。
「シャマル。」
 その後姿に、シグナムは彼女の名前を呟く。振り返らないシャマルは、空を仰いだまま。
「何してるの、こんなところで。」
 彼方へ向けられた声が、微かに風に流れてくる。小さな声だった。ともすれば、途中で
掻き消えてしまいそうな程に小さな声で。
「こんなところに居たって、何にもならないのに。」
 冷たく捨てられた言葉。シグナムはただ、唇を引き結んだ。そして、噛み締めるように
低い声で言う。
「お前は随分、落ち着いているんだな。」
 シャマルは何も答えなかった。シグナムは構わずにその背を見つめる。二人の間に横た
わる距離のためか、その背は小さかった。
「ずっと、覚悟していたんだな。
 主が回復していけば、いずれそれが原因で人工臓器を破壊してしまう、と。」
 思えばいつだって、シャマルは快い笑みを浮かべたことなどなかった。アギトが見舞い
は交代で行こうと言い出した時も、面会が出来るようになったと告げた時も、ヴィータと
ザフィーラを送り出すその時も、一度たりともシャマルは穏やかに微笑んだりなどしなか
った。目を細め、声もなく表情だけの静かな顔は、笑みを象っていただけだ。その眼差し
には常に、仄かな影が落ちていた。
「言ったじゃない。
 回復は、すごく難しい、って。」
 肯定とも否定とも取れない音だった。無関心な響き。あのいくつもの会話の最中、笑み
によって覆い隠していた冷徹な残酷さで、感情の滲まない声を返す。
「本当はね、もっと前から面会くらい出来たのよ。
 でも、お医者さんにはまだしない、もっと落ち着いてからにしましょうって言って、
 あの晩まで黙ってたわ。」
 シャマルが緩やかにシグナムに向き直る。相貌は月明かりに仄白く、温度のない表情が
唇を動かす。
「面会ができたのはね、回復に向かっていたからじゃないの。
 もう、助けようもないから、面会が出来たのよ。」
 シャマルは笑わない。泣きもしない。ただ事実だけを告げる機械のように淡々と述べる。
「だって元から、延命治療だったんだから。」
 シャマルにはどこまでも、感情はなかった。
「あれがはやてちゃんとの、最後のお別れだったのよ。」
 今まで、幾度となく見つめたはやての姿。その最後の姿が、あんな蒼白な頬で眠り続け
るだけの姿になる。もう二度と笑わない。もう二度と声が聞けない。もう二度と自分をか
らかったりなどしない。もう二度と、抱き上げたりなど出来ない。
 もう二度と、一緒に生きていけない。
 シグナムは鎖を手に絡め、己が剣を握り締めた。
 自分はフェイトとティアナ達に事件の行方を託した。だが、もはやそれを管理局の力で
解決することは出来ない。もうはやてが戻ってくると信じて、ひたすらに待ち続けること
も出来ない。
 主を殺すあの男は、今ものうのうと息をしているというのに。

 騎士である自分が守るべきものは、主が信じた幸福論だ。
 それ故に、主はやての騎士たる自分の行動は、悪であってはならない。怒りのまま力を
振るってはならない。それが、せめてもの自分の力の証明であるから。それが、騎士たる
自分の誇りだから。
 だが、このまま主が失われ、その志も半ばのままにしておくことなど、どうして許せる
だろうか。人を殺して生きるものを、そのままにしてなど置けるわけがない。主はやては
死ぬというのに、その命を奪う人間が、いかなる制裁も受けずに生きていく。まるで今ま
でと変わらずに、他の人の命を食いつぶして。それを、どうして許せるだろうか。
「なあ、シャマル。
 管理局に手が出せないからといって自ら剣を振るうのは、悪だろうか。」
 シグナムの問いかけに、シャマルは短く答えた。
「さあ。
 どうでもいいわ、そんなこと。」
 シャマルの言葉に初めて宿った感情は、本当にただの、無関心だった。