残照






 リインフォースが上機嫌にはやての頭の周りを飛んでいた。
「はやてちゃんも、やればちゃんとお片づけ出来るですね!
 流石です!」
 両手を上げて、文字通り手放しで喜ぶリインフォースの喜びようが可笑しくって、は
やては口の端を歪めて、歯を見せた。はやてが自分のデスクやら執務室やらをきちんと
整理するようになってからずっとこの調子なあたり、リインはどうやらはやてが思って
いたよりずっと、部屋が中々片付かないことを憂いていたらしい。
「そら、私かて一人暮らし暦長いんやから、
 これくらいちゃんと片付けられるって。
 舐めるんやないでー。」
 伺うように片眉を吊り上げて見やると、リインはますます笑顔になって頷いた。
「もちろんです。
 はやてちゃんは、やれば出来る子です!」
 本当にいつになくご機嫌なリインに、はやては声を忍ばせて笑う。
 入り口の傍に立ったまま腕組をして、改めて整理された部屋を見渡すと清々しかった。
片付かない荷物の為に半ば隠れていた机の天板は、今や綺麗に整頓されている。ペン立
てには黒いボールペン二本と赤と青のボールペンが一本ずつと、貰い物のちょっと出来
のいい万年筆が、背後の大きな窓から差し込む光に晒されて、妙に生き生きとした様子
で佇んでいた。
 仕事の合間を縫うように、少しずつ片付けをし始めてもう一ヶ月。夏の終わりはとう
に迎えて、広々とした机の上にも、部屋の中にも、穏やかな秋の日差しが零れて煌いて
いる。空気の中に舞う埃は、その中で光の欠片みたいに輝いていた。冬を迎えるまでの
僅かな時間。静かな季節。
 はやては頬を緩めると、天井近くに舞い上がったリインを振り仰いだ。
「なあ、リイン。」
 呼びかけると、銀の髪を翻し、リインがはやての方を向いた。
「なんですか、はやてちゃん。」
 綻んだ表情。はやてはリインに、部屋の奥、窓際に置かれた古い金属製の棚を示す。は
やての背丈よりもずっと高さのある、紙が数枚置かれているだけの空っぽの棚だ。
「あの棚片付けたら、もうお掃除終わりやよね?」
 リインは元気良く頷いた。
「そうですよ!
 はやてちゃん、よく頑張ったです。」
 惜しみなく笑顔を見せるリインに、はやては満足気に首肯した。今でこそ棚は空だが、
以前は、ぎっしりと書類やファイルなどが崩れてきそうな程に詰め込まれていて、雑然
とした室内をより一層殺伐とさせるのに一役買っていたのだった。だが、片付けが進む
につれて、入れるものが減って行き、とうとうこの間何も無くなって、お役ごめんとな
ってしまった。
「うん、そやから、ちょっと今日あたり、
 この棚、こっそり局のゴミ置き場に捨ててこようと思うんやけど、」
 どうかな、と続けようとして、はやては言葉を区切った。リインがあからさまに顔を
顰めて、責めるようにはやてを見つめていた。
「はやてちゃん、あの棚は局の備品ですよ。
 いくら要らないからって、勝手に捨てちゃ駄目ですよ。」
 めっ、と子供を叱る様にされて、はやては唇を尖らせて不平を漏らす。
「こんな古い棚、もうええやん。
 管理表からとっくに消されてるって。」
 この金属製の棚は、はやてがこの部屋を使っていいとなった時から既に置いてあった
ものだった。その時点で随分と年季が入っていたのだが、ここ最近はそのボロさが際立
って酷い。至る所の塗装が剥げて錆が浮いている上、傍を歩くだけで揺れて軋んだ音を
立てるのだ。こんな棚、もうとっくに管理外になっている筈だと、はやては確信してい
る。だが、リインはきっぱり首を横に振った。
「それでも、決まりは決まりです。」
 頑ななその態度に、はやては肩を落とした。
 リインはお堅いなあ、なんて呟きながら、重たい足取りで歩き出す。向かった先は、
問題の棚の前だ。その前に立つと、すぐ傍にある窓の織り成す陽だまりが、棚を見上げ
るはやてごと包み込んで温めてくれる。
 錆びた棚の表面を指先で撫でながら、はやては体が日光に温められてじんわりとほぐ
れていくのを感じていた。はやてよりもずっと長くこの部屋に居て、同じように陽光を
浴びてきた棚。空っぽの棚。
「なあ、リイン。
 この棚をどかしたら、ここに一個ソファを買ったろ言うてたよね。」
 はやては話しかけつつも、剥がれかけた塗装を指の腹で割っていく。薄膜が砕ける感
触が心地よかった。
「はい、言ってました。」
 はやての頭のすぐ上辺りに浮いたまま、リインが頷いた。その声音が弾んでいること
に気づいて、はやては棚を弄るのをやめた。指先についた錆と塗装の欠片を床に落とす。
 この棚を片付けると、日当たりのいい壁際がぽっかりと空くことになるから、ここに
ソファを置いたら気持ちいいだろうねと、初めて話したのは結構前のことだ。窓は随分
大きいし、ここで寝そべれば空を見上げることだって出来られるだろうと、リインはそ
の話をする度に決まって嬉しそうにしていたことが、はやての脳裏を過ぎる。
 はやては普段と変らぬ調子で口を開いた。
「今な、リインが欲しいって言うてたソファ、
 セールしてるって、知っとる?」
 瞬間、リインが息を呑んだ音が聞こえた。それから、不自然に間を置いて返事をする。
「本当ですか?」
 いつになく慎重な声音だった。はやては棚を眺めたまま、うん、と頷く。
「20%オフで、6万4千円やて。
 しかも、送料込み。」
 リインが、はっきりと喉を鳴らした。
 リインが欲しがったのは、三人掛けのソファだ。デザインはシンプルだけれど何処か
可愛いソファだった。リインに提示された時、確かにはやても買うならそれが良いと思
ったそれの値段は、送料別で8万円丁度。
 だが、予算は7万円だった。一万円の差は、そうそう看過できるものではない。結局、
二人はそのソファを諦め、6万円の小さい二人掛けのソファを買うことに決定せざるを
えなかったのだった。
 それも、セールとなれば話は違う。
 リインの強い視線をはやては後頭部に感じていた。情熱やら期待の篭った熱い眼差し
だ。それに対して、はやては大きく肩を竦めてみせた。
「やけどな、明後日までなんよ、セール。
 となると今日明日くらいに頼んでおかんとあかんけど、
 頼んだら二週間以内に配送されてまうんよねー。」
 リインが凍りついた。
 局の備品を捨てるのには、事前に申請をして、それが受理されてからでなければなら
ない。しかしながら、備品整理に関する申請は後回しにされることが多いので、基本的
に一ヶ月くらい処分するまでに時間がかかることになってしまう。だがこの部屋に、棚
を処分できるようになるまでの間、ソファを置いておくことなど出来ない。扉を開けた
瞬間、ソファが構えていたのでは業務に差し障る。
 はやてが悪巧みしているときの表情でリインを横目に見上げた。
「どうする?」
 にやっと弧を描く目に、リインはう、と声を詰まらせて一瞬押し黙り。
 それから、小さな声で呟いた。
「棚、こっそり捨てて来ちゃうです。」
 ここに、商談が成立した。

「いやいやいや、リインも話が分かるなあ。
 さすがうちの末っ子。」
 仄暗い取り引きをしたことを、心の片隅で後悔しているリインの背中に、楽しげなは
やての声が触れる。でも所詮、心の片隅は片隅だ。
「ここに三人掛けのソファ置いたらええよねー、
 私だって十分ねっころがれるし、気持ちええでー。
 日中はお日様ぽかぽかやし、
 冬とかになっても、空調の傍やから寒くないし。
 一緒にお昼寝とか出来ちゃうしなあ。」
 はやてにそんな風に囁かれると、リインには顔が笑みに歪んでしまうのを止められな
かった。リインはいけない子になってしまったです、なんて胸の中で呟いてみたりもす
る。だが、三人掛けのソファのある生活を考えれば考えるほどに、こっそり捨てるとい
う悪事を働くことが、段々どうでもよくなっていくあたり、多分はやてが言うとおり、
さすが八神家の末っ子なんだろうと思った。はやてと一緒にお昼寝という甘い響きに勝
てる筈が無い。
「でも、こんな大きな棚、どうやって捨てて来るですか?
 分解するにしても、リインとはやてちゃんだけじゃ、
 ちょっと大変過ぎるです。」
 倒れてきたら、押し潰されちゃうかもしれないです、とリインが零す。はやては唸り
声を上げた。そう、それが一番の問題だった。自分の身長よりも高く、重たそうなこの
棚を、果たして身の丈15センチメートルの相棒と共に、分解できるのかどうか。
 正直言って、自信はなかった。
「誰か、手伝って貰えたらええねんけど。
 スバルとか、誰か腕っ節の強いの、丁度良く現われてくれへんかな。」
 はやてとて棚の下敷きは勘弁願いたい。リインが頭を捻りながら、悩ましげな声を上
げる。
「ですねー。
 誰か、うーん、誰が・・・。」
 機動六課のメンバーがいろいろリインの頭に閃いては消える。しかしその中に、地上
部隊のはやての執務室に通りがかりそうな人は現われない。皆、本局勤めの人間ばっか
りなのだ。守護騎士も今は本局の方に行っている。
 だからと言って、地上部隊の人に下手に頼むのも中々に綱渡りだ。部下を使うのは、
体面というもののため出来ないし、上司には尚更頼めない。しかも上級キャリアコース
で、レアスキル持ちでといった特殊な立場にいるはやてには、同僚という言葉がしっく
りくる相手もいない。となると、やっぱり二人でどうにかするしかないのだろうか、し
かしどう頑張っても、リインには、棚の下敷きになるはやてと自分の姿しか思い浮かべ
ることが出来なかった。
「ううー。」
「んー。」
 二人分の唸り声が室内に充満する。
 そのとき、来客を告げる呼び出し音が響いた。
「どうぞー。」
 電子音に向かって、はやては入室を促した。それに応じてドアが開く音を耳にしなが
ら、尚もはやては棚を前にして腕組みをしていた。その背中に、来客者が声を掛ける。
「お邪魔するね、はやて。」
 途端、はやては弾かれたように振り返った。聞き覚えのある声。
 ドアの前に立っていたのは、執務官服に身を包んだフェイトだった。
「フェイトちゃん。」
 フェイトは軽く手を振りながら、室内に足を踏み入れた。その背後でドアが閉まる。
驚きに目を丸くするはやてを尻目に、リインが顔を輝かせてフェイトを迎えた。
「いいところに来てくれましたですー!」
 リインは歓声を上げるなり、フェイトに一直線に飛びついた。体当たり同然に、フェ
イトの顔面に突っ込むと、べしべしと手でフェイトの額を叩いた。
「さすがです!
 ナイスタイミングです!」
 突然、なんのことだか分からないフェイトは、くすぐったそうに首を引いてリインを
見返す。
「どうしたのリイン。
 なにか、私に用事でもあった?」
 尋ねると、リインはフェイトの額を叩くのをやめた。そして、にわかに真剣な色を双
眸に宿し、フェイトを真正面から見つめた。
「よくぞ聞いてくれましたです。
 実は、お願いがあるです。」
 リインは一度言葉を切ると、息を深く吸い込んで、背後の棚を力いっぱい指差した。
「一緒に、あの棚を片付けるのを手伝ってくださいです!」
 突然のお願いに、フェイトが目をまん丸くした。明らかに、フェイトの予想の範囲を
超えていたみたいだと、はやては件の棚の前に立ったまま分析をした。まあ、当たり前
だろう。
 はやてはため息を漏らすと、呆れた様子でリインを宥めた。
「リイン、フェイトちゃんにも都合ってもんがあるんやから、
 そんな我侭言うたらあかんて。」
 ひらひらと手を振って、戻って来いとの意思表示をする。だが、リインは戻ってくる
どころか、フェイトの指先を両手でしっかりと握り締めた。
「お願いです、
 あの棚を片付けないと、ソファが買えないです!
 だから!」
 蒼い瞳を心なしか潤ませて、リインがフェイトを上目遣いに見つめる。僅かに口を開
けたまま、フェイトは呆然とリインを見返すばかりだった。はやては一つ長い息を吐き
出すと、リインに向かって再び口を開こうとする。だが、フェイトが破顔する方が早か
った。
「いいよ。」
 優しげに細められた瞳から、微笑みが零れ落ちる。
 リインが大喜びで両手を上げた。
「ありがとうですー!」
 声を弾ませ、リインはフェイトの頭の周りをぐるぐると回りだす。しかし、それに慌
てたのははやてだった。
「そんな、フェイトちゃんええねんで、
 お仕事とか他にあるんやろ?
 私に気を使うことないって!」
 両手と首を振って、はやては思いっきり遠慮する。だが、フェイトが面白がってリイ
ンの旋回を目で追いながら寄越した返事は、爽やかなものだった。
「ん、いいよ。
 事務の方に用があってきたんだけど、もう終わっちゃって帰るだけだし。
 本局にも今日は戻る必要ないから。」
 そう言ったフェイトは、来たらいきなり片付け要員に加えられてしまったのに、リイ
ンと同じく喜んでいるように見えた。フェイトがじゃれてくるリインを手でかまいなが
ら、無邪気な笑い声を上げる。
 屈託の無い笑顔が光を零す。
 はやては二人を見つめながら、口を閉ざした。錆付いた棚に片手を乗せる。硝子越し
の陽光に焼かれる背中が、じりじりと熱かった。