残照






 遠く地平の彼方、手を伸ばしても届かないもっと先、街並みを焦がして遠く空の果て
に、太陽が消えてしまっていた。残された光は、そこかしこを赤く染め上げる。眩く。
景色の先に聳える建物の群れも、足元のアスファルトも、腕に抱えた棚の天板も、ゴミ
捨て場に積み上げられた廃材の山も。はやての手も、フェイトの姿も。
「これで、ラストー!」
 はやてが雄たけびを上げ、最後の天板をゴミ捨て場に放った。傍で見ていたフェイト
が苦笑を漏らす。
「もう、そんなことして、崩れてきても知らないよ?」
 折り重なり倒れる廃材は、夕日に滲みながら、背後のコンクリートの壁に格子のよう
な影を焼き付ける。鮮やかな赤が燃え上がるようだった。
「大丈夫やって。
 こういうのは、上手いこと出来とるもんなの。」
 根拠なく言い放って、はやては手を空に突き出して伸びをした。晒された腕を、吹き
始めた夜の風が撫でる。だるくなった腕や肩を冷ましてくれるようで、はやては顔を綻
ばせた。
「んー、それにしても、
 フェイトちゃんが手伝ってくれて、本当に助かったわ。
 ありがとうな。」
 肩を伸ばしながら、はやてはフェイトを横目に仰ぐ。ゴミ捨て場の方に体を向けてい
たフェイトの横顔には夕と夜の織り成す陰影が強くついていた。
「いいよ、これくらい。
 はやてのためだったら、お安い御用だよ。」
 フェイトが振り返りながら微笑む。頬のラインを光が滑り、赤い瞳が暖色の中で尚、
瞬いていた。はやては微かに息を呑んだ。そうして、フェイトから顔を逸らし、太陽の
残滓をその瞳で追った。
「そんなこと言うと、ええように使ってしまうで。」
 瞬きを一つして眼を伏せて、はやては言葉を空気に乗せた。冗談めかした響きに、フ
ェイトが可笑しそうに眼を細めた。前髪が煽られて、額が覗く。
「毎日棚の片付けばっかりはしたくないなあ。」
 太陽が消えた地平は、見る間に夜へと染まっていく。頭上の群雲は背後を夜闇に飲み
込まれながら、西の空の光に、未だに輝いている。はやては表情を崩すと、西の方、道
を先へと歩き出した。
「フェイトちゃんに毎日片してあげさせる程の棚はないなあ。
 これでも私、片付け頑張ったんやからね。」
 自慢げに、はやては肩越しにフェイトを振り返った。ゴミ捨て場の前に立ったままの
フェイトが、はやてを見て頷く。
「うん、凄く部屋が綺麗になってるから、驚いちゃった。
 よく片付けたね。」
 はやてが片方の口角を吊り上げた。
「よくってなんよ、よくって。
 もとからそんな汚れてへんかったよ。」
 はやての顔に掛かった影が、黒から緩やかに青に変り始めている。肩口で揺れる毛先
だけが、彼方から空を突き通す光を湛えて煌いていた。
「よくはよくだよ。
 リインがいくらもっと片付けようって言っても、
 ずっと知らんぷりしてたじゃない。」
 フェイトの指摘に、はやてが顔を歪めた。頬を掻きながら、いや、まあ、そんなこと
もあったかな、等と口中で呟いてフェイトに背を向ける。細い背中。華奢な肩が、白い
シャツに透ける。うなじが僅かに覗いていて、かすかに鳥肌が立っているように思えた。
「はやて、寒いの?
 上着貸すよ。」
 フェイトははやてに歩み寄り、そう言って手を伸ばす。顔を僅かに俯けていたはやて
は、フェイトの指先に気づくと身を翻した。フェイトの手が宙を滑り、はやての髪が零
した光を掠める。
「ええよ、寒くないって。」
 跳ねるような足取りで、はやてが一歩、フェイトから遠ざかる。1メートルにも満た
ない間。その向こうで、はやてが笑う。フェイトは伸ばした手を緩やかに下ろした。そ
うして、はやてを見つめる。穏やかな声が、紡がれた。
「はやて、何があったの?」
 はやてが、フェイトを見上げた。
 僅かに見開かれたはやての瞳を見て、フェイトが表情を翳らせる。光が揺れる眼差し
に、はやてを映して。はやてが顔を背けた。
「なにそれ、フェイトちゃん。
 私が片づけをするのって、そんなにおかしい?」
 はやてが笑い声を上げた。朗らかな声が軽やかに跳ねる。
「はやて。」
 フェイトの声に秘められた、密やかな響き。はやては笑みを返しながら、止まってい
た歩みを進めだす。空を見上げて、何処かのんきな風体で歩くはやてをフェイトは目で
辿る。フェイトは唇を少し噛んだ。
 一歩の距離を詰める。
「はやて。」
 そして、体側で揺れるはやての手を掴んだ、瞬間。

「触らないで!」
 甲高い音が、響き渡った。
 フェイトが叩き落とされた手をさ迷わせたまま呆然と、はやてを見つめた。乱暴に払
われた手が、震えている。はやては振り上げた右腕に気づくと、胸元に手繰り寄せて左
手で抱き込んだ。はやての眼差しが、地面へと落ちる。怯えに強張った顔に、緩慢に諦
めが広がっていく。
 はやては眉間に力を込め、唇を引き結んで、一つ呼吸をした。
「夢を、見たんよ。」
 ぽつりと、僅かに開かれた口から、言葉が転がり出た。
「夢?」
 聞き返すフェイトに背を向けてはやては歩き出す。一歩ずつ踏みしめるようにゆっく
り、足元を見ながら。はやての後姿が率いる長い影が、倒れた小石のそれと重なり、ア
スファルトのおうとつに入り込む。はやては、歌うように微笑んだ。
「そ。
 私が、みんなを殺しちゃう夢。」
 声が風に舞う。はやてはステップを踏むような足取りで、縁石の上に横たわった廃材
の上に飛び乗った。錆を垂れ流している鉄材が悲鳴を上げる。
「どうして、そんな・・・。」
 立ち尽くしたまま、フェイトが険しい顔をしていた。はやてはフェイトを横目で一瞥
すると空を仰ぐ。日の落ちた空は、天頂で、昼の緋色と夜の藍に塗り分けられていて。
地平の何処か彼方から吹き抜けてくる風は、冷たく湿った匂いが混じっていた。
「別に、そんな大したことが起こったわけやないんよ。
 ただ私が、魔力の制御を失って、暴走させた。
 それだけ。」
 目蓋の裏に、夢の切れ端が過ぎる。体から際限なく迸る白い光が、街並みも景色も空
も何もかも塗り潰していく。捲れ上がり融けて炎の塊と化したアスファルトも、倒壊し
ていくビルの轟音も、賑わっていた街並みも、地面も、蒸発して消え去れば、静寂しか
残らない。
「私の魔力に触れた人がね、一瞬、真っ赤な霧みたいにぷあっと広がって、
 そのまま消えるんよ。
 真っ白く塗り潰されて、もう影も残らへん。」
 どれだけ泣き叫んでも、どれだけ懇願しても、自分の体なのに、なにも言うことを聞
かなかった。人とは桁の違う魔力は、一度に全て開放されてしまえば自分でも制御が利
かなくて。
 はやては笑うと、フェイトを振り返った。フェイトは立ち尽くしたまま、はやてを見
つめていた。はやてが唇を動かす。
「最後に、私の前に現われたんは、フェイトちゃんやった。」
 自分で自分の肩を抱き締めて、蹲って涙を流して、大声で泣き声を上げていた。嗚咽
で空気が吸えなくって苦しくって、そのまま死ねばいいのに、咳をしながら空気を求め
て、そのせいでもっと涙が出て。一人で丸まって泣いていた。白の中には、もう自分以
外なにもなかった。光も、影も、何も。
 もう嫌や、止まって。枯れた声で、何度目か知れない絶叫を上げて、涙が喉に絡んで。
 そこに、一つの色が舞い込んだ。
 気づいて、ゆっくりと涙で汚れた顔を上げた。歪んだ視界、ぼやけた輪郭の中に描き
出された、唯一つの明確な輪郭。
 フェイトが、微笑んでいた。
 金色の髪を背に流し、黒い服に身を包み、赤い瞳ではやてを映して。
 涙が止まっていた。嗚咽も、全て止まって、音が無くなる。自分の呼吸のリズムだけ
が、耳の裏で穏やかに流れていて。心臓が、胸の前で握った左手の裏で、鳴っていた。
 フェイトが手を、はやてに伸ばした。
 指先がはやてに向かう。はやては左手を胸の前で結んだまま、右手を伸ばした。空を
掻き、フェイトへと手を伸ばしていく。距離が無くなり、温かい手が近づく。
 互いの指先が、触れ合うその刹那に、フェイトの指先が解れた。
 硝子の破片が崩れていく様に、指先から壊れ、赤い筋に代わり、消えていく。はやて
はフェイトの腕を掴んだ。零れていく彼女を繋ぎとめたくて、かき集めたくて。でも、
はやてが触れたところから、彼女は崩れた。
 フェイトちゃん! と、大声で叫んだ筈の自分の声が聞こえなかった。抱き締めても
抱き締められない。フェイトに回した腕は虚空を滑る。それでも、フェイトは優しげに
目を細めていた。大好きな笑い方だった。いいよ、って、なんでも許してくれてしまう
ときの、少し甘い笑顔で。
「フェイトちゃんもな、
 私、殺してしまったんよ。
 それで、一人っきりになって、そこでようやく、夢は終わり。」
 しょうもない夢やろ、と付け足すと、はやては廃材の上から飛び降りた。けたたまし
い音が鳴り響いて、でもそれだけで止まる。ゴミ捨て場の山から離れて投げ捨てられた
鉄材は孤独に、一人で錆びて、雑草に埋もれていく。
「だから、いろんなものを片付けて、
 一人でいなくなろうとしたんだね。」
 フェイトが口を開いた。確信の篭った口調に、はやては困ったように眉を垂らした。
「そこまでこの短時間でばれるとは。
 フェイトちゃんも、あなどれへんなあ。」
 はやてが情けない表情で後頭部を軽く掻く。
「でも、そこまで分かってくれてるんなら、話も早いんかな。
 もう私の片付けはこれで終わりなんよ。
 だから、さよならやね。」
 はやてはそう言って、フェイトを仰いだ。自信のある、強い笑みがフェイトに向く。
それに応えずフェイトは黙ってはやてへと近づいた。そして、はやての頬に手を伸ばす。
けれどはやてはやはりその手を避け、フェイトの影に入った。
「フェイトちゃん、セクハラはあかんで。」
 悪戯に顔を歪め、はやてが笑う。でも、フェイトは笑わなかった。
「はやて。」
 夕日に火の手を上げた、焼け付くような影さえもう無い。残照に彩られた暮れの空を
背景に立つフェイトの姿は薄暗い。突き上げるような風は肌を貫くように冷たく、吸い
込んだ喉の奥、胸の底で冬を再現する。フェイトの髪が風に靡く。金色の髪の数本が、
太陽が在った筈の未だ赤く燃える雲間、遠い空の放つ光の一条に透ける。輝きを内含し
た彼女。
 眩しさに、はやてが目を細めた時、その手が、はやてを抱き寄せた。
「ちょ、離してっ!」
 フェイトの胸を両手で押し返し、身を強張らせたはやてが抵抗をする。だけど、フェ
イトはますます力を込めて、はやてを胸の中に抱き締める。痛いくらいに強く。フェイ
トははやての耳元に顔を寄せ、明確な声で放った。
「嫌だ。」
 華奢なはやての体は、フェイトの腕の中に納まってしまうと、もう身じろぎ一つ満足
には出来なかった。冷えた体に、薄いシャツを越してフェイトの熱が伝わってくる。鼻
先が首筋に押し付けられて、フェイトの匂いがした。そんなもの感じたくなかった。
「はやて、私は、消えたりなんかしないよ。」
 目を硬く瞑ると、真っ黒い視界の中で、声が鮮やかに描き出される。耳を塞いでしま
いたくて、息を止めてしまいたくて。でも、そのための手は、強く抱き締められて動か
なかった。フェイトの胸を、押し返しもしない。
「フェイトちゃん、離して。
 お願い。」
 はやては声を振り絞った。震えそうで、それだけは嫌で、堪える為に手を握り締めた。
その指先が、フェイトの服を巻き込む。強く。
「何かあったら、私が守るよ。
 そんなことにもしなったら、私が絶対に、止めてあげるから。」
 違う、無理だ。フェイトにはそんなこと出来ない。フェイトは知らないだけなんだ。
自分にはどうにも出来ないようなことが起こるってことを、自分の意思がなくたって、
誰かの力で、何かの力で捻じ曲げられてしまう未来があるって、知らないだけなんだ。
そのときが来たら、フェイトになんか止められない。絶対に、止められない。
「おねがい、離して・・。
 フェイトちゃん。」
 はやての手が震えていた。目頭が熱くて、でも、冷たい何かが滲んでくる。それが嫌
で、唇を噛むと、体中が震えた。止まらない。閉じた目蓋の間から、溢れてくる、涙が。
止まらない。
「はやてを一人になんて、しないよ。」
 力強い声が、耳元で囁かれた。
 違う、欲しいのは、そんな言葉じゃない。熱い腕で抱き締めないで。強い言葉で守ら
ないで。受け止めないで。
 私は、嫌だ。

「はなして、フェイトちゃん。」

 動いて、私の手。
 突き飛ばして、振り解いて、お願い。

「おねがい、はなして。」

 お願い。