待ち合わせまで後3分を切ったのに気づくと、はやては本気で焦り出した。 捲くった左袖を戻しながら、青信号に変わった交差点を走って渡る。 オフホワイトのショートコートの裾が翻った。 10月も最後の日、今日の最高気温は確か、17度とかいう予報だった。 用心してコートを羽織ってきて良かったとはやては走りながら思う。 夜八時前、黒い空に飲まれないよう光る街角で、はやての息も白く染まる。 「フェイトちゃん、もう来てるんやろうな。」 呟いたはやての横を、何台もの車が追い抜いて行く。 やはり、仕事が早く終わったからと言って、一度着替えに家に戻ったのは失策だった。 待ち合わせまで余裕で着くはずが、渋滞に巻き込まれたせいでもうぎりぎりだ。 車は完全に足手まといで、遅れると思って途中にあった駐車場に入れて来てしまった。 駅にして一区間分の距離。 歩けばまあ20分くらいといったところだろうと踏んでのことだったが、 蓋を開けてみれば30分もかかってしまっていた。 はやてはビルの大型スクリーンの端に映された、デジタル時計を見上げる。 時刻は、7時58分だ。 「あと、一分ちょいしかあらへん。」 すれ違う人々を避けながら、はやては走るペースを上げた。 待ち合わせ場所は、次の角を曲がったところにある、ちょっとした広場だ。 ここ2週間、フェイトが次元航行任務に就いていたため、直接会うのは久しぶりだった。 だから、待ち合わせより早めについて、 必ず自分より先に居るはずのフェイトと少しでも早く会いたかったというのに。 こういうときばかり、自分の足の遅さが酷く呪わしい。 だが、嘆いたところでそれこそ手遅れだ。 はやては転がるように角を曲がると、待ち合わせ場所の公園に一気に駆け込んだ。 蛍光灯に白く照らし出された公園は帰宅途中の人影がいくつかと、 夜のランニングをしている人がいるくらいだった。 はやては荒れた息を抑え付けながら、左右を見渡してフェイトの姿を探す。 ツツジに周囲を囲われた公園は、奥に行くと、芝生の広場がある。 その境には、桜の木が植わっている。 背の高い桜の木、その葉っぱは黄色く色づいて、土の上へと風と共に舞い落ちていた。 公園の入り口に立つはやての足の下にも、枯葉が折り重なっている。 枯葉は踏むと、乾いた音を立てて騒いだ。 芝生の広場の境、桜の木の下に、はやてはフェイトの姿を見つけた。 黒いロングコートに、金色の髪が映える。 すらっとした体躯に似合う井出たちで、ポケットに手を入れ佇むフェイトに、 はやては即座に声を掛けられなかった。 夜風が吹いて、桜の木を煽る。 金色の髪が数本散る。 それを、幾枚もの降り注ぐ木の葉が彩った。 風の柔らかな曲線に、フェイトの姿が溶ける。 はやては息を詰めると、静謐を震わせぬよう、静かにフェイトへと歩み寄った。 桜の木々の下には、落ち葉が幾重にも積もっている。 フェイトは少し顔を俯けて、何処かを見つめていた。 離れたところにある蛍光灯に晒される頬の、整ったライン。 それが見えるところまで来ても、フェイトははやてに気づかなかった。 赤い瞳が、揺れることなく静けさを宿している。 はやてはふ、と小さく息を吐き出すと、落ち葉を踏みしめた。 僅かな音がした。 「フェイトちゃん、お待たせ。」 声を掛けてから、はやては走ってきたまま髪に手櫛も通していないことに気づいた。 格好つけているようにごまかしながら髪を片手で掻きあげるのと、 フェイトが振り返るのはほぼ同時だった。 「はやて。」 はやては微笑を浮かべ、こっそりと腕時計を覗き見た。 丁度、時計の針が8時になる瞬間だった。 ぎりぎりセーフ、正真正銘の及第点だ。 はやてはフェイトの前に立つと、悪戯な表情で振り仰いだ。 「ちょっと渋滞に巻き込まれてしもうたから、 車、捨てて来ちゃった。」 舌を小さく見せると、フェイトが眉を歪めた。 「えー、じゃあ、今日のデートは車を拾いに行くところからスタートなの?」 紡がれた声音は言葉とは裏腹に上機嫌だった。 はやては悪びれずに肯定してみせる。 「そういうことになりますなあ。 いやはや、でも、散歩からスタートなんて、健康的でええんやない?」 フェイトがそれもそうかもね、なんて言って笑った。 「でも、デートなんて、 久しぶりでちょっと照れちゃうね。」 フェイトが頬を軽く引っかきながら、そう零した。 走ってきたために赤らんでいたはやての顔が少し歪んで、目がちょっと何処かに泳ぐ。 はやてはフェイトをちらっと見上げた。 「ん、なあ、ちょっと手、冷たくあらへん?」 意識をした目配せ。 フェイトの頬が、内側からちょっと染まる。 「そうかも。」 躊躇いがちな肯定。 フェイトの右手がポケットから出て来て、はやての左手にそっと触れた。 冷えたはやての指が、ポケットの中で温まっていたフェイトの指に包まれる。 温度に解けていく指先と共に、はやての表情が綻ぶ。 はにかんで、はやてはフェイトを見つめた。 「フェイトちゃんの手、あったかいな。」 指を絡めて手を繋ぐと、じんじんと伝わってくる熱が、熱い鼓動の音と重なっている気がした。 「うん。」 小さなフェイトの声が二人の間に滑らかに流れて、はやての耳に触れた。 フェイトが静かにはやてを見つめた。 透き通る、赤い瞳にはやてが映っている。 いつか見た、透明な眼差し。 はやてはフェイトのその目を、見つめ返した。 そうして、緩やかに編んでいた言葉を解いていく。 「最近、なにか考え事でもしてるん?」 穏やかな響きに、フェイトは僅かに躊躇して、それからはっきりと頷いた。 「うん。」 繋いだ手に力が篭る。 はやては微笑むと、尋ねるよう首を傾げた。 「何考えてたのか、教えてもらってもええ?」 フェイトが一つ、息を飲み込んだのがわかった。 空を覆う桜の枝から、一枚の葉がまた落ちてきた。 身を回しながら、ゆっくりとそれはフェイトの肩に乗る。 枯葉が囁くと、フェイトの手の力が少し緩んだ。 「その、何回も、言うのも、あれかなっても思うんだけど。 私、はやてが好きなんだ。」 フェイトは区切ると、冷たい夜気を吸い込んだ。 「すごく、きっと、すっごく、好き、なんだ。 でも、多分それだけじゃなくって、 はやてと一緒に居ると、どきどきしたりとかもするし、 嬉しくなったりとか、楽しくなったりとか、たまに、ちょっと寂しかったりとか、して。 それがなんなのか、良く、わかんないんだけど。」 歯切れ悪く言いながら、フェイトが空いている左手でコートの裾を握り締めた。 はやてはただ黙って、フェイトを見つめて、そして、フェイトの言葉を聴いていた。 「私、あんまり国語とか得意じゃなかったし、 だから、なのかな。 この、なんか、なんだろう、はやてへの気持ちって言うの、かな。 そういうの、伝えたいって思うんだけど、 全然上手く言葉にできなくって、それで、 どうしたら言えるんだろうって、伝えられるんだろうって、考え、てた。」 フェイトはそこまで言うと、はやての手を強く握った。 はやては一度、視線を下に落とした。 枯葉の中、向かい合う自分とフェイトの足。 距離なんて殆どない、足一個分も。 触れ合わせた掌から温かさが、間にある空気が言葉を伝えてくれる。 はやては同じ強さで、フェイトの手を握り返した。 目を上げると、フェイトの真摯な眼差しがはやてを受け止めた。 はやては訊く。 「それで、答えは出たん?」 フェイトは首を横に振った。 拍子に、肩に乗っていた枯葉が宙に滑る。 「全然、わからないんだ。 いくら考えても、君が好きだって、それしか浮かばないんだ。 もっと、気の利いたこととか、見つけられればいいんだけどね。」 眉を垂らして、フェイトは呆れたように破顔した。 はやては手を引いて、足一個分、フェイトを引き寄せた。 すぐ傍に、フェイトの情けない顔が来る。 はやては右手をその頬に触れ合わせると、背伸びをしてフェイトの唇に口付けた。 柔らかい感触。 離れると、白い息が零れる。 はやては驚いた顔のフェイトを見上げて、微笑んだ。 「私も、フェイトちゃんのこと、好きやよ。 すごく、好き。」 手を繋いだまま、はやてはフェイトに抱きついた。 フェイトのコートは夜風に冷やされていて、火照った頬に心地よかった。 距離はゼロ。 なのに、目を閉じるともっと近くに感じられて、だからはやてはフェイトの腕の中で目を閉じた。 背中に回されたフェイトの腕が、はやてのコートを握る。 フェイトが今、どんな顔をしているかとか、 そんなことは分からないけれど、同じように思っていてくれればいいな、と思う。 フェイトの鼻先が、はやての肩口に埋まる。 この距離でしか伝わらない声。 はやては囁くように言った。 「上手く言えないけど、とにかく、好きなんよ。 好きばっかり言うのも、やっぱりあれやけど、 その、なんていうの、ゆっくり近づいていくのもええんやないかな。」 最初思っていたよりも、口に出すと言葉はたどたどしかった。 でも、穏やかな声が返ってくる。 たった一言、フェイトが肯く。 「うん。」 フェイトがぎゅ、とはやてを抱き締めた。