はやてがベッドの上に寝っころがって本を読んでいた。パジャマに包まれた左右の足
が交互にぱたぱたと揺れ、それが猫じゃらしか何かの動きに見えて、フェイトはかすか
に笑った。
「小さな子みたいな仕草だね。」
 声をかけると、はやてが本を掴んだまま、肩越しにフェイトに視線をくれた。いたず
らっこな表情を浮かべる。
「子供心を忘れると、いいおかあさんになれへんねや。」
 フェイトはぷ、と小さく吹き出すと、ベッドの端に腰掛けた。お風呂上り、よく乾か
した髪が肩口を流れる。はやてはその背中を見上げたまま、片手で壁を指差した。
「ベッドに入るんなら、部屋の照明切ってくれへん?
 テーブルランプに変えよう。」
 あ、そうだね、とフェイトは頷くとそのまま立ち上がって、照明をきった。はやてが
予めつけておいたテーブルランプに、部屋がオレンジ色に照らし出される。はやてはラ
ンプのつまみを回して光量をいじると、また本に目を向けた。分厚いハードカバーの本
だ。
「はやて、暗い中で読んでると目がわるくなるよ?」
 ベッドの上に乗って、フェイトが呆れたように告げる。しかし、はやてから投げられ
たのは生返事だ。
 フェイトは肩をすくめると、はやてが読んでいる本に目を落とした。なにやら旧字体
で書かれている、やたらと面倒そうなほんだった。紙はすでに黄ばみ始めているし、装
丁はくたびれている。しおりがわりに出ている紐でさえ、もう半ばばらばらになって、
風情というよりみすぼらしさが溢れていた。
「その本どうしたの?」
 たずねると、今度はまともな返事がくる。
「図書館で借りたん。
 100年だか200年くらい前の外国の本やよ。
 前になんかで紹介されとんのみたから、なんとなく。」
 そうなんだ、とフェイトは相槌を打ちながら、いまいちぴんとこなかった。でも、は
やての読書をこれ以上邪魔するのも、と思い口を噤み、毛布を捲ろうとした。しかし、
その毛布は捲れなかった。たどっていけば、はやての下敷きにされているのに気づいた。
フェイトはしょっぱいものでも食べたかのような、微妙な表情になり、はやてに視線を
くれる。
 名前を呼ぼうと口を開きかけたところで、ぷつ、と動きが止まった。
 やや生乾きの感の残るはやての後ろ髪。その隙間から覗くうなじ、首筋に目が縫いと
められる。
 なにを考えているんだ、と、頭の中の冷たい部分が呟いた。フェイトは顔を背け、と
りあえず毛布のことは諦めてベッドの上に仰向けになる。拍子に、スプリングの強いベ
ッドの反対側で、はやての体がぴょこんと跳ねた。それと一緒に、はやての視線が飛ん
でくる。
「んー、フェイトちゃんおねむー?」
 はやてはぼそぼその紐を読んでいたページにはさみ閉じると、右手をフェイトの頬に
伸ばした。細い指で頬を押し、その弾力と肌触りに表情を崩す。
「そうだよ、いいこは寝る時間だもん。」
 フェイトはわざとらしく唇を尖らせてそういった。はやての笑い声が聞こえる。指先
はそれに同期するように、フェイトの首筋を滑った。フェイトはそのくすぐったさと、
はやての手に安堵して目を閉じる。
「なあ、フェイトちゃん。」
 衣擦れの音がして、フェイトの頭の脇でスプリングがきしんだ。体がすこしベッドの
中に沈む。目を開けると、はやてがすぐ傍にいた。
「はやては悪い子だからねないの?」
 冗談めかしていうと、はやてが歯を見せた。
「そうかも。」
 はやては覆いかぶさるように、フェイトの顔の両脇に肘をついた。そして、体の上に
しなだれかかる。
「はやてやらしい顔してる。」
 片眉を歪めて言うフェイトを、はやては鼻で笑った。
「言うてろ。」
 はやてがフェイトに唇を寄せた。互いの柔らかさが触れ合って、ほのかなぬくもりが
伝わる。ほんの短い時間で、ほんの少しのふれあいで。はやては顔を少し離すと、フェ
イトを見下ろして片眉を歪めて見せた。
「フェイトちゃんやって、やらしい顔しとるやん。」
 フェイトが溶けるように笑った。
 唇を、フェイトの頬に落とす。くすぐったそうに目を閉じる仕草。はやては右手で額
に掛かる髪を上げさせると、開けたそこにも口付けをした。思わず両目を閉じたフェイ
トが、伺うように見上げてくる。その自然と上目遣いになった様子が、なんだかおかし
くて、少しかわいかった。
「なに?」
 目を覗き込んで首を傾げると、フェイトはやや赤らんだ頬のまま、目線をかすかにそ
らした。「なにも。」という平素に比べて若干そっけない返事が出てくる。はやては自
分のほうに向けられた頬にも口付けると、すっとフェイトの首筋にも押し付けた。
「ん。」
とフェイトの声が震えた。はやては舌を出して首筋を舐める。フェイトが身を強張らせ
ているのがわかったけれど、舐めて光ったそこを甘噛みした。
「もう、はやて。」
 不機嫌を装った声が漏れる。はやてはんー、と言いながら、肩に顎を乗せた。右腕で
フェイトの頭を抱き寄せて、でも左手は服のすそを捲った。
「よいではないか、よいではないかー。」
 にやにや笑って、はやては自分のほうに首だけ振り向いたフェイトの額に、自分の額
を当てた。わき腹から素肌に触れて、なで上げるとフェイトの顔が赤くなる。
「お代官さま、おやめください、・・・って?」
 肋骨をたどるように指先を滑らせる。近いから判る、フェイトの息がかすかに震えて
いる。睫の先だって、そう。
「いやよいやよも好きのうち、ってやつやな。」
 胸に触れると、フェイトの唇から、「ふあ、」と一声漏れた。はやてが口の端を吊り
上げる。
「やっぱ、やらしいのはフェイトちゃんのほうやんなー。」
 そう一人得心が行ったように呟くと、「ちょ!」と文句をたれようとしたフェイトか
らあっさり離れて、お腹の上に座った。
「いやいや、議会も満場一致で決議に賛成ですよ。」
 なんていまいち意味のわからない、ワイドショーでなじんだような言葉を口にしなが
ら、はやては今度は遠慮せずに両手でフェイトの服を捲った。
「もう、はやて!」
 テーブルランプの明かりにさらけ出される彼女の肌は変わらず決め細やかで綺麗で、
身体の隆起による陰影すらどこか神秘めいて見えた。はやては手をその腰から這わせな
がら、目を細める。睫のなす影の落ちた眼差しに、ランプの明かりが差し込む。
「なあ、フェイトちゃん。」
 真っ赤な顔で身を捩るフェイトに、はやては穏やかな声音で問いかけた。
「な、に?」
 フェイトははやてを見上げた。はやての瞳が、ゆっくりとフェイトに向けられた。鳶
色の中に、フェイトが映る。
「最後に血を飲んだのはいつなんかな?」
 フェイトの息が詰まった。一瞬で、それを取り繕うよう動き出すけれど、はやてが
「そう。」と頷くほうが早かった。
「随分痩せた気がしてたけど。なに、断食月とかあんの?」
 フェイトの唇が真一文字に引き結ばれた。はやては冷めた目で、フェイトの左腕を取
った。フェイトがとっさに腕を引きかけるが離さない。
「フェイトちゃんって、バカなん?」
 掴んだ腕を、はやては力づくで捻った。そして、ランプの光に当てる。ほとんど見え
ないけれど、光の加減で見えるのは穴が開いたような跡だった。
「それとも自分で自分を食べるとか、飢えたタコかなんか?
 いくら傷の治り早いっていうても、こんなんやって気づかれないとでも思った?
 頭悪いやろ。」
 言い捨てて手を離すと、フェイトの手はシーツを握り締めた。
「いやなんだ。
 もう、はやてや他の人のこと、食べる対象としてみたくない。
 だから、そうしないで済むんなら、私は、」
 言い掛けたフェイトの口をはやての左手が掴んだ。そして、閉じないように指をねじ
込む。
「へえ、殊勝なことやね。」
 吐き捨てるよう言うと、はやては右手の親指をフェイトの口内につっこんだ。
 そして、それを牙に押し当てる。
 フェイトの口から、くぐもった悲鳴のような声が零れた。肉の切れる音は一瞬。鋭利
な刃物に裂かれたように、手のひらが割れて血が溢れた。顎を押さえつけるはやての腕
をフェイトが掴む。引き剥がそうともがく間にも、血がフェイトの口内に流れ込んで、
溢れた。
「フェイトちゃんは、確かに言うとおりええ子やね。
 ちゃんとご飯食べられるやん。」
 フェイトの喉が一つ、大きく音を立てたのを見て、はやてが笑った。力の入りきらな
かったフェイトの腕がようやくはやての束縛を振りほどく。はやてを押しやるように、
身を起こす。そのときにまた一つフェイトの喉がなった。
「いやだって、言ってるのに。」
 呟いたフェイトの肩が大きく上下する。息が荒い。生理現象か自然な欲求か、血を飲
み込んでしまったフェイトははやてのほうを見なかった。顎の辺りを血で汚したまま、
俯いている。
「フェイトちゃん。」
 はやてはフェイトの顎を掴み上げた。はやてを振り仰いだ、フェイトの眼差しが揺れ
る。泣きそうな目だった。涙が隠しようもなく滲んで、溢れそうになっている。でも、
その奥には本能と名づけられてしかるべき光は確かに底光りしていた。
 はやてが右の手首を、フェイトの歯に押し当てた。突発的にフェイトが身を引かせる
のを、力で押さえつけるのは一瞬でよかった。
「うあ、あ・・・。」
 傷口から溢れた血が、はやての腕を伝い落ちていく。フェイトの目はそれに吸い寄せ
られて、離れられない。肘にたれていこうとする血を示して、はやてはそれを近づけた。
「ほら。」
 鼻先にまで寄せると、フェイトがそれを追った。荒く熱い呼気が肘に触れる。そして、
フェイトが舌を出した。
「ふあ、は。」
 興奮したような乱れた息遣いで、はやての腕を、腕に伝う血を舐め上げていく。腕を
少し動かすのにも、フェイトはついてきた。唾液と血に塗れた唇が、傷口にたどり着く。
そのまえに、はやては腕をフェイトから取り上げた。
「あ。」
 フェイトのもの欲しそうな眼差しが、はやての手を追う。はやては口元をほころばせ
ると、まだ血の残る傷口を自分の首筋に押し当てた。
「こっちやろ、フェイトちゃん。」
 フェイトに瞬時、罪悪感の色が走り抜けた。はやては怯えたように身を竦ませたのに
気づくと、フェイトの首筋に両腕を回した。絡めるように抱きついて、後ろ髪を撫でる。
「フェイトちゃん、ええんやで。
 フェイトちゃんが人のことをもう、
 たんなる食べ物やって思ってないことは私が知っとる。
 誰だってなんだって、その対象がなんであれものは食べるやん。
 しゃあないって。」
 凍りつくフェイトの背を、あやすようにはやてが叩く。ゆっくりとした鼓動に周期を
合わせるイメージで。はやては頬をフェイトに寄せると、耳元に囁いた。
「私は、そんなんで嫌いになったりせえへんから。な?」

 フェイトちゃんが、自分を食べてがりがりになられるほうがつらいよ。

 そう言うと、フェイトがかすかに身を震わせて。
 静かにはやての首筋に牙を立てた。