静謐を切り裂く五指が弧を描いて振り下ろされた。
 夜天の王、その力が顕現する。
「響け終焉の鐘、ラグナロク!」
 咆哮に空間は貫破され、鉄槌が立ちはだかるものを叩き潰し

「叩き潰した!―――――じゃないよ!
 夜天の書の角で私の頭叩いただけでしょ!?」
 フェイトが頭のてっぺんを押さえて勢いよく振り返った。気圧されるように、はやて
は手にしていた夜天の魔導書を胸に抱えて、あいまいな笑いを浮かべる。
「いやあ、その、やっぱりいざっていうときのために、
 接近戦用の必殺技も持っておかないとあかんなあって思って。」
 えへ、とこれ見よがしに首を傾げて、無邪気を装った眼差しを向けたが、フェイトの
顔は冷めていた。冷め切っていた。
「へえー。」
 平素にはない単調な声を響かせるフェイトに、はやては流石に身の危険を感じた。ど
うにでもなれとばかりに魔導書を放り出すと、フェイトの首に腕を回した。
「もー、ちょっとした戯れやんかー。
 フェイトちゃんにちょっかいかけたくてしかなかったんやって。」
 イメージとしては耳も寝かせて、尻尾を思いっきり振っている子犬の感じ。はやては
瞳に星でも瞬かせてフェイトに顔を擦り寄らせるが、フェイトはむっと口を尖らせた。
「そういう顔すれば、許してもらえると思ってるんでしょ。
 ごまかされないんだからね。
 本当に痛かったんだから。」
 つれない態度でそっぽを向いたフェイトに、はやては逆効果だったか、と一瞬危ぶん
だが、やっぱり相手はフェイトだ。押せ押せで行けば何とかなる。
「勢い殴っちゃったのはごめんって。
 ただちょっかいかけたかったんはほんまなんやよ。」
 はやてはフェイトにもたれかかって、そのまま床に押し倒した。押し倒されたことに
フェイトは少し眉を歪め、はやてを見上げる。
「そんなこと言って、ただ傍にいたからなんとなく叩きたくなったんじゃないの?」
 責めるよう言うフェイトに、はやては内心で頷いた。ご明察です。しかし、そんなこ
とはおくびにも出さず、頬に頬を摺り寄せると「ちゃうもんー!」と声を上げる。
「フェイトちゃんのこと好きだし気になるやん?
 せやから、目に付くとどうしてもなんか手を出したくなっちゃうんよ。」
 眉間にしわを寄せ、フェイトがはやての顔を覗き込んだ。二人の視線が正面からぶつ
かり合って、やがて不機嫌に口を開いたのはフェイトだった。
「じゃあ、私のことどれだけ好きか、証明して見せてよ。」
 ひねくれた口、半分になった目はフェイトの不満をありありと表していた。はやての
背中を冷や汗が伝い始める。フェイトがこんなことを言うなんて珍しい。これがデート
の最中に顔でも赤らめながら言ってくれるのだったらいいのだけれど、今は残念ながら
無益な暴力を気まぐれで振るったというか、ちょっといたずらをしすぎてしまって取り
繕わなければならない場面なのに、これはまずい。対応を間違えたら、八神はやて特別
捜査官は僻地へ左遷されてしまうかもしれません。
 フェイトがせかすようにはやてに強い視線を送り続けている。しかして、はやては即
座にそんなものを証明できるような方法を持ち合わせていなかった。頭の中に浮かんだ
選択肢は二つ。一つはまじめっぽいことをとりあえず言ってみる。もう一つは、
「わかった。」
 はやては厳かに頷くと、居住まいを正した。とはいっても、フェイトの腹の上にふて
ぶてしく座ったままなので、どこまで正しい居住まいなのかには議論の余地がある。は
やてはしかし、真摯な響きを撃ち出した。
「じゃ、服脱いで。」
 フェイトが目を見開いたのは一秒もなかった。
 そして。
「実家に帰らせていただきます。」
 温度のない声でそういうと、フェイトははやてから逃れようと身をひねって暴れだし
た。それを慌ててはやては抱きついて止める。
「うそやって、冗談やって!
 もー! フェイトちゃんはお堅いんやから!」
 もがくフェイトと離すまいとするはやての二人は、フローリングの上でばたばたと埃
を立てる。
「夫のぼーりょくといやがらせにもう耐えられませんっ。
 離婚届けは判を押して後で郵送しますから!」
 体をどうにかひっくり返して、匍匐前進の体勢になったフェイトの背中に、はやては
必死でへばりついた。
「おれが悪かった! もう一度やりなおそう!
 せやからまだ婚姻届も出してないのに離婚届出さんといて!」
 そう叫ぶと、はやてはフェイトを押さえつけるように体の上に圧し掛かった。う、と
鈍いうめき声を漏らしてフェイトの動きがわずかに止まる。はやてはその期を逃さず、
ぎゅっと頭に抱きついた。そうすると、逃れようと抵抗していたフェイトから力が抜け
床に伸びた。
 それでも腕を緩めずにいると、フェイトが頭を左右に数度振って、はやての腕の隙間
から顔を出した。息苦しかったのか、その顔はわずかに赤い。長いため息をつくと、棒
読みで台詞を言う。
「やっぱりこのひとは私がいないとだめだと思って、
 もう一度かんがえなおしてみることにしました。」
 それを聞くと、はやては微笑んでフェイトの頭に顎を乗せた。
「戻ってきてくれたのか、ありがとう。
 心を入れ替えておれがんばるからな、二人で幸せになろう。」
 どっかで聞いたことのあるような言葉を言いながら、はやてがフェイトの左手を包ん
だ。はやてよりも白い手は、ほっそりとしていて、指は長く綺麗だった。自分の両手の
中で、はやてはフェイトの形のよい爪をいじる。少し丸っぽい自分の指で、滑らかな曲
線を描くフェイトの爪を撫でると、フェイトがくすぐったそうにした。
「婚約指輪は月収の三ヶ月分のをくれるんだよね。」
 その言葉に、はやてはフェイトの薬指に触れた。その付け根、ちょうど指輪がはまる
あたりを指でなぞり、やわらかい声音で頷いた。
「せやね。
 フェイトちゃんにぴったりなの、作ってあげないとあかんな。」