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体が羽になったみたいな気持ちで、自分がまるで軽いようなイメージで、地面を蹴れば良い。
軽い一蹴りで、私は宙に浮く。


月は一つ


 私が月の数を知るのと、私自身の物心が付くことの、どちらが早かったかと問われれば、
多分月の数を知ったことの方だろう。月の数は二つ。一緒に出てくる日もあれば、一つしか
見えない時も、二つしか見えない時も合った。月がどう動いているのか、どこを動いている
のかを最初に教えてくれたのは誰だったかは、覚えていない。
 大人になって小難しい言葉を覚えた私が言うならば、ミッドチルダが乗っかっているこの
星の直径の、およそ4分の1程度の大きさの月が二つ、互いに交差する公転面を回っている。
公転半径が違うからぶつかる確率はそれこそ、拾った宝くじで一等前後賞が当たるのよりも
もっと低い。6億円分買ったって、サッカーくじで6億円は当たらないのに。小さい頃、月
が二つぶつかったらどうしようとか、それで落っこちて来たらどうしようとか心配していた
のがちょっと可笑しい。
 真剣に心配していたら、そんなこと起こらないからって言って、もしそんなことになった
ら守ってあげるからと言ってくれた誰かが居て。だから単純に安心して、じゃあきっとあん
なに眩しい月がぶつかったりしたら光がきらきら弾けて綺麗だろうな、と想像した光の雨だ
けが目蓋の裏で今も輝いている。きっとその光は、私の宝物じゃなかった筈なのに。
 大きな衛星を二つも抱えて、この星は連星系をなしていて、星の軌道は単純に万有引力の
形作る逆二乗則だけで簡単にはかけない筈なのに、よくミッドチルダでは科学が発達したな、
とか。地球に対する月でさえ、衛星として大きすぎるからどう出来たかの議論がいくつもあ
るというのに、どうしてそれと同じくらいの衛星を二つもつに至ったんだろう、とか。いつ
の間にか理論武装を覚えた私の目には、多分彼女と同じように月は見えない。
 私は何も無い空中を蹴った。
 いつの間にか足の下には家々の屋根が合って、夜闇の真っ黒い景色の中で窓の形にだけ、
橙色の光を零している。路の端には、そこへ至る道を照らす街頭が並んでいる。私は振り切
るように、空を仰いだ。
 風が頬を撫でる。冷たい夜の風は、私の息を白く靡かせた。真っ黒の夜空は宇宙を見せて、
青黒い雲が宙を渡って行く。足早な雲は月を過るとき、月の光を大きく描き出した。白い光
が雲を照らして広がる。
 私はただ、空を目指した。
 雲はどんどんと近づいて、見下ろさない私の足下で街並が小さくなって行く。一番低い雲
の傍を通り抜けて、薄い層状の雲を目指す。その先に見える月をめがけて。私の通った後に
は、金色の光が散る。あの日、目蓋の裏で砕けた月と同じ輝きを雨のように降らせて。
 仰いだ夜空に月は一つ。海鳴の空に二つ目の月はない。月は砕けない。守ってくれると言
ったあの声も響かない。私には見えない。
 私は雲の上で飛ぶのを止めた。どれだけ舞い上がっても大きくはならない月を見上げて、
遠ざかった街の灯だけを見つめていた。誰かの声が聞きたくて、でもそれが誰の声なのか、
わからなかった。