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長時間の検査の後は、気分が悪くて吐き気がする。
多分、朝から今までずっと病院に居て疲れただけだろう。
いつもこうだ。
一日まるまる検査になってしまった日は、頭が痛くて目が回る。


あめ玉ひとつ


「気持ち悪い、な。言ってもしゃあないけど・・・。」
 口の中で呟いて、はやては車椅子のタイヤを回した。ゴムのタイヤがアスファルトを
噛んでじりじりと鈍く言う。この音を聞き続けるのも、劣化した舗装の上を走る不快な
揺れに耐えるのも、そろそろ限界だった。だが、家までは次の角を曲がればすぐだ。そ
れを思って、はやては車椅子を走らせ続ける。
 もう五月も終わる。
 あれだけ鮮烈だったサクラ吹雪きとかは何処にも残っていなくて、代わりに太陽に透
けてきらきら光る新緑が生い茂っている。側溝の上をよけて道の端を進んで行くはやて
の上には、隣家の塀を乗り越えて枝葉を伸ばす木の作る木漏れ日が細切れに掛かる。帽
子を被っていないはやての目には、交互に飛び込んで来る光と陰で、まるで景色が光の
粒を零している様に見えた。
 頬を撫でる風はまだほのかに冷たい。まだ目眩はしたけれど、なんとなく胸がすっき
りした気がして、はやては草花の匂いが混じる空気を吸い込んだ。そして、パーカーの
ポケットに入れてある一個のあめ玉のことを思い出した。
 ちょっとだけ左手はタイヤをこぐのを休憩し、ポケットに手を突っ込む。そこにはビ
ニル袋に入った大きなあめ玉の丸い感触がある。はやてが好きなミルク味のあめだ。は
やてはポケットの中であめ玉を握り締めた。
「石田先生、ありがとな。」
 にやける顔もそのままに、はやてはあめ玉をくれた人を思い浮かべた。長い検査の時
は検査自体を直接しなくても、終わる頃に一度は会いに来てくれる先生。大体それはい
つもはやての気分が悪くなり出した頃で、タイミングよく現れて石田先生はあめを一つ
くれる。今日がんばったご褒美、なんて言って。両手にいっぱいとかはくれないけど。
多分、それはたべすぎ、という奴を心配してのことだとはやては判っている。はやては
あめ玉を離してポケットから手を引き抜くと、車椅子のタイヤへと手を伸ばした。
 最後の角を曲がると家がもう見えた。
「こんにちはー!
 西村ですけど、しょーくん居ますか?」
 曲がった所、角にある家の前で、男の子がインターフォンに向かって声をあげていた。
帽子を斜に被った男の子で、脇にはサッカーボールを抱えている。まだ五月だというの
に半袖半ズボンで、膝小僧にはいくつも絆創膏が貼ってある男の子ははやてより少しだ
け年上だ。
『けいたくん、ちょっと待ってね。
 しょうごったら用意遅くって、すぐ追い出すから。』
 はやての家は向かいの列だ。そちらを目指しつつ、男の子の後ろを通ろうとするはや
ての耳に、母親らしい人の声がインターフォン越しに聞こえてくる。次に家から響いて
来たのは、玄関を駆け下りているようなけたたましい音だ。
「かあさん、行ってきます!」
 壊す程の勢いで玄関が開き、男の子が飛び出してくる。彼をみるなり、サッカーボー
ルを抱えていた男の子の方が階段の上から飛び降りた。
「おせーよ、早く行こうぜ!」
 言うや否や、彼はそのまま駆け出した。はやてを追い越して風みたいに走り抜ける。
「あ、ちょっと待てよ!
 おれ靴がまだ!」
 門を肩で押し開き、片足で跳ねながら足を靴にねじ込んで置いてけぼりにされそうな
方が叫ぶ。けど、先に出た方は肩越しに振り返って「はやくしろよ!」と言い返しただ
けだった。
「待てって!」
 靴を穿き終えて、彼の足もアスファルトを蹴った。走って行く友達を追いかけている
からか足は速い。
「ちょっと、しょうご!
 夕飯までには帰ってくるのよ!
 じゃないとおいしいもの先に食べちゃうからね!!」
 その彼を追いかけて、ドアからエプロンを掛けた女の人が顔を覗かせた。ご近所さん
だ、はやても顔は知っている。彼のお母さんだ。お母さんに振り返りもせずに彼は「わ
かってるよ!」と声を張ると、サッカーボールを持っていた男の子を追いかけて、通り
の先へと向かって行く。はやてはろくに行ったことも無いが、十分くらい行くと確か公
園があった筈だ。きっと二人はそこに向かったのだろう。そんなことをぼんやり考えて
いると、不意に声を掛けられた。
「あら、はやてちゃん。
 こんにちは。」
 彼女は先程の威勢のいい調子ではなくって、穏やかに挨拶をした。
「おばさん、こんにちは。
 なんやえらい元気よかったですね。」
 車椅子を止めて、はやてはへらっと笑った。あんな一部始終を見てしまうと、挨拶だ
けですませるとか天気の話でもするとか、そんな選択肢がどうしても霞んでしまった。
どうしてかは判らなかったけれど、なかなかにインパクトはある光景だったし、普通の
反応だろうとはやては位置づける。
「ごめんねぇ、なんかやかましいところ見せちゃって。
 五年生になって初めてクラスが一緒になったらしいんだけど、
 それから毎日あんな調子で出かけて行って、よっぽど気が合うのね。」
 そう言って彼女は呆れたように肩を竦めて見せた。男の子同士の友情とかいうものは、
女の子であるはやてにはよく判らない。だからはやては曖昧に同調だけした。
「はやてちゃんは今日、おでかけしてたのね。
 何処に行ってたの?」
 優しい笑顔だった。例えるならそう、この前読んだ本に出て来た気さくな町のパン屋
さんみたいだ。主人公はよく両親にお使いを頼まれて、バゲットを一本買いに行く。だ
からだろうか。
「えっと、図書館に行ってました。
 なんか予約してた本が来たみたいで。」
 嘘を吐いた。
 なんでかは知らない。勝手に口が言っていて、はやては肘掛けの上でぎゅっと右手を
握り締めた。
「あらそうなの。
 どんな本を借りたの?」
 借りたくてでも書架に見つからなかったから、予約を出した本は本当にある。ただの
おとぎ話。女の子がちょっと不思議な街に迷い込んでしまって、たくさんピンチを乗り
越えながら謎解きをして、最後には家に帰る。前に読んだことがあったけど、また読み
たくなったから予約をした。
「クレヨン王国っていうシリーズの最新刊で、この前出たってきいて、それで。」
 でも結局借りられなかった。二ヶ月待って来た返事は、誰かがなくしてしまってその
本はないということだった。
「だから、早く読みたくて仕方なくって。」
 なのに、どうしてこんな嘘を吐くのか、はやてにも判らなかった。
「はやてちゃんは読書家ね。
 それじゃあ引き止めちゃってごめんなさいね。」
 はやては目を細めて、軽く会釈をすると、家に向かって進み始める。家まではあと三
軒。そんなに速さは出ないけれど、はやては道の先を見て進む。
「あ、待ってはやてちゃん。
 昨日焼いたパウンドケーキがあるのよ。
 それにおばさんが家まで押してってあげるから、ね。」
 アスファルトと側溝のコンクリートの間から生えている草を踏んだ。それがタイヤの
下で折れる。はやては自分が唇を噛んだことに気付いた。でも、勢い良く彼女を振り返
る。
「私、そんな動かないから、おばさんのおいしいケーキなんか食べたら、
 すぐ太っちゃいますよ!
 それに、うちまでちゃんと自分で行けますから!」
 振り返った先で、サンダルを突っかけた彼女が玄関から一歩出て来ていた。炊事をし
ていたのだろう、エプロンは少し濡れている。
 よく手入れをされた玄関先の植木が、五月の太陽に向かって体を伸ばしている。輝く
日差しと陰がコントラストを描いて、はやての目に光の破片を突き立てる。本当に五月
は明るくてきらきらしていて、はやてはこの季節が好きだった。
「それじゃあ!」
 歯切れよく言って、はやては今度こそ手を振った。
「はやてちゃん、困ったことがあったら手伝うからなんでも言うのよ!
 あと、今度夕飯を食べにいらっしゃいね!」
 ありがとうございます! と大きな声ではやては答えた。
 ぐるぐると、体の脇でタイヤが回る。自分を乗せた椅子が動いて行く。はやては扉が
閉まる音を背後に聞いて、何故だか体の力が抜けるのを感じた。息を長く吐き出して、
そうして家の前に着く。
 南向きで、リビングには大きな窓がある家。表札には八神と書いてあって、庭の脇を
通って行けば玄関だ。はやては門の取っ手を掴む。金属の門扉は冷たい。
「あ、そだ、鍵だしとこ。」
 思いつき、はやては鞄へと手を伸ばした。はやての両手には余るくらいの、少し擦り
切れたショルダーバッグ。いつから使っているのかはやては覚えていないけど、家の鍵
を入れる所は決まっている。大きなチャックの中にある、サイドポケットの中だ。はや
てはいつも通りに、そこへと手を突っ込んだ。
「あ、・・・れ?」
 指先に何も触れない。間違えたかと、隣のポケットに手を入れるがそこにも何も無い。
はやては大きく鞄を開いて、中を覗き込んだ。入っているのは財布と、保険証とかを入
れているカードケース、いつも飲んでいる薬が入ったポーチと、この前買った最新刊だ。
「いつも通り、ここにいれたはず、やけど。」
 言いながらはやては荷物をかき分けて中を探る。しかし、求めている金属音は聞こえ
ない。はやては財布もカードケースもポーチも本も、全部足の上に出した。からっぽに
すれば、挟まっている鍵が見つかる筈だ。はやては鞄を逆さまにして振った。
 本当にからっぽだった。
「・・・・・うそ。」
 思わず呟いて、でもはやては頭を振った。今日はたまたま違う所に入れたのかも知れ
ない。そう考えて違うポケットも開けた。ズボンのポケットにも手を入れた。パーカー
のポケットにも手をいれた。でも、出て来たのはあめ玉ひとつだった。
「うそ、うそやって・・・。」
 他の所に入っていないか、はやては服の至る所を叩く。でも、なんの音もしない。何
度鞄を逆さにしても何も出てこない。出来るだけ開いて覗き込んでみても色あせた中敷
しか見えない。
 それを、3回繰り返して、はやては認めた。
「鍵が、ない。」
 家の鍵を自分で締めずに出るということは無い。今日もちゃんと締めて、鞄にいれた。
そこまでは記憶がある。でもその後が思い出せない。いつだろう、鞄は何度も開けた。
落としたら音がするから気付かない筈が無い、変な音がしたことはなかっただろうか。
でも、いくら考えても、そんな破片なんか思い出せない。
「どうしよ、家、入れないやんか。」
 石田先生。
 今日もあめを一つくれた人の顔がフラッシュバックした。そうだ、石田先生ならなん
とかしてくれる。石田先生の電話番号は知ってる。公衆電話だってここからそんなに遠
くない。
 でも、石田先生は今日、忙しそうだった。きっと今だって仕事中だろう。それを邪魔
しちゃいけない。いつも介添えを頼んでいるセンターの人が次に浮かんだ。でも、楽な
仕事じゃないって知っている。この時間帯はとくに、通院している人とかの送迎が大変
な頃だ。角のおばちゃんには今断ったばかりだ。夕飯だってこれから作るんだろう。
 それに、自分が今からがんばって探せばみつかるかもしれない。落とす場所なんて限
られてる。だから、探せば見つかる筈だ。落とす場所なんて限られてる。バスか病院だ。
 でも独りじゃ行けない。
「どう、しよ。」
 はやては家を見た。門も扉も閉ざした家。戸締まりは出てくる前に確認した。鍵が開
いてる場所は無い。どうやっても、入れない。
 顔を上げたはやての目に、インターフォンが映った。普通、押せば誰か出て来てくれ
て、ドアを開けてくれる。誰かを呼ぶボタン。家族が出て来てくれる、呼び鈴。
 何故か、はやてはインターフォンを叩いた。
 もうなんでもまぐれでもいいから中から人が出て来てドアが開いてくれればいいと思
った。そうでなければ、鍵が無ければ、自分には入って行ける場所が無い。こんな箱で
もいいから、自分を迎えて欲しかった。
「ああ、ほんま、どないしよ。」
 はやてはインターフォンに手をついたまま、俯いた。視界が滲む。こんな姿、誰かに
見られたらどうしよう。そんなことを頭の片隅で思って、でも目が潤むのを止められな
かった。鍵を落とした、ただそれだけなのに。
 ただそれだけで、自分は帰る箱もなくしてしまう。
「だれ、か。」
 ポケットにあめ玉が一つだけ入っている。なんで一つだけか、はやては本当は理由を
知らない。もう一個欲しい、そういえば石田先生はくれるかもしれない。でも何度そう
思っても、もう一個欲しいなんて言えなかった。
 ポケットの中のあめ玉を握り締め、はやては手を振り上げた。アスファルトを睨んで
見開いた目から涙が落ちて行く。
「どあ、あけてくんない、かなぁ・・・っ。」
 投げ捨てたら、たったあめ玉一つでも自分は拾えない。
 はやては誰かが無くしてしまった本の最後を思い出した。危険を乗り越えて家に帰っ
て、いつも通りにバゲットを一個買ってくるようにと、両親が小銭を握らせてくれる。
いつも通りの笑顔で。
 何度読んでも、はやてにはその時の両親の、いつも通りの笑顔が判らない。そこだけ
まっくろに塗り潰されてしまって、顔が判らない。笑顔が、細められている筈の目が、
緩んでいる筈の頬が、笑っている筈の口元が。その、幸せそうな笑顔が、判らない。
「どあ、あけてよ。
 とうさん、かあ、さん・・・っ。」