「なあ、フェイトちゃん。
 まだお仕事終わらへんの?」
 はやてがソファに身を預けたまま、部屋の天井をぼんやりと仰ぎながらぼやくように尋ねた。
「ん、・・・んー。」
 それに対するフェイトの返事はもっとぼやけたものだった。関心のない話題に対する相槌よりも
もっと酷い。間の抜けた声は恐らくはやての言葉の意味すら、頭に取り込んでいないのだろうとわ
かる。はやてはため息を押し殺しながら、更にソファに深く身を埋めた。それに重なるようにして、
モニタを弄る電子音が聞こえた。それから、フェイトの声が遅れて続く。
「もうちょっと。」
 そう、と答えるのも億劫で、はやてはソファに寝転がった。残業という時間区分に属する今の時
刻、局内は何処も静かだ。普段はいるフェイトの補佐官も既に帰路についている。それにも関わら
ずフェイトが今、こうしてはやてをひたすらに待たせて仕事をしているのは、今日に限って言えば
フェイトが勤勉であるからではない。
「フェイトちゃんが、法務処理で凡ミスするなんてなぁ。
 世も末なんかなぁ・・・。」
 はやてはしみじみと呟いて、ソファに顔を押し付ける。フェイトはよく聞こえなかったらしく、
5秒ほど遅れて、「んぇ?」と変な声を上げたけれど、どうせ答えなおしてもろくに耳に入らない
だろうということはわかっていたので、はやては「なんでもない。」とばっさり言って終えた。
 一緒に夕飯を食べて帰ろう、と交わした約束は何処へやら。もう欠片もそんなときめきの夜なん
てものの気配が見つけられなくて、はやてはなんとなく涙が出そうだった。凄く悲しい、というわ
けではないのだけれど、なんだか寂しい。というか、むなしい。冷静に分析してみるのなら、それ
くらいに自分が無意識のうちに、フェイトと夕食を食べて帰る、ということに期待を寄せていた、
ということでもあるけれど。
 はやては一人だけマイペースに動き続ける時計を見上げた。こういう暇なときとか落ち込んでい
るときにばっかり存在感を醸し出す憎い奴だ。楽しい時とかには、ああもっとゆっくり進んでくれ
ればいいのに、と思わせるくらいそっけない奴なのに、こういうダルい時に限って、妙にねちっこ
く纏わりついて来る、この世で一番性格の悪い奴だ。
 もう直ぐ、時刻は9時になろうとしていた。この時刻でもやっている店はあるだろう。だが、今
日行くつもりだった店は、もう1、2時間すればラストオーダーだ。とても、これからゆっくり食
事をする、というわけにはいかない。
 フェイトが今片付けているのは、明日の3時までに提出しなければならないものらしい。今日の
うちに手直しをし、明日の午前中にもう一度補佐官らと確認作業をしてから提出するために、どう
しても残業をせざるを得なかった。
「ごめん、はやて。
 あとほんのちょっとだから。」
 フェイトがコンソールを叩きながら言う。はやては寝返りを打って、入り口から目の前にある棚
までを眺めながら気のない返事をする。
「うん、ええってもうそんな急がなくって。」
 フェイトが一瞬黙って、それから、「ごめん、急ぐから。」と呟くように答えた。
「ええよ別に、私が居たいから居るだけやし。」
 はやての言葉に、もう返事はなかった。
 残業になるとフェイトがはやてに伝えることが出来たのは、はやてがフェイトの部屋に来てから
だった。凡ミスながらも、広範に渡る訂正箇所にフェイトが気づいたのが、丁度その直前だったか
らだ。フェイトは先に帰るように言ったのだが、はやてが待っている、と言って憚らないまま、既
に何時間だろうか。フェイトはあまり考えたくない。あと数箇所の訂正を、なるべく早期に片付け
ることにだけ、心血を注ぐ。
 フェイトが作業をする音と時計の針が動く音が、室内に満ちる。静寂に波紋を立てるのは、椅子
の関節部が軋む音と、時折身じろぎするはやてが立てる衣擦れの音だけだった。自分の呼吸が明確
に、形を持って感じられる空白。
 はやては落ちてきそうになる目蓋を堪えながら、書棚に並んでいる本の背表紙を見た。業種の違
いのせいだろうか、随分と自分とは読んでいる本の類が異なる。法務関係の仰々しい本が鎮座する
棚。その中に一冊、薄い本があった。はやては目を凝らして、そのタイトルを読み取る。
「たの、しい・・おかしづくり?」

 思わず口に出していたタイトルを、案の定フェイトは聞いていなかったらしい。なんとも反応が
ない。それを良いことに、はやては気配を忍ばせて書棚へと歩み寄る。刑法総論と国際法の間に、
その薄い本は収まっていた。はやては肩越しにフェイトが気付いていないことを確認して、疑惑の
『たのしいおかしづくり』を手に取った。
「あ、おいしそう。」
 開いたページにはフォンダンショコラにアイスを添えた写真が1ページを使って大きく載ってい
た。フォークで崩された生地の間から熱く溢れるチョコレートが溶けたアイスと絡んでいて、空腹
を訴えるお腹にクリティカルヒットを与える。
 次のページにはふわふわのシフォンケーキが広がっていて、その次のページにはガトーショコラ
の写真がある。どれも鮮やかに撮られた写真と詳細な手順が載っていて、なるほどおかしづくりが
たのしくなりそうな本だった。
 はやてはページを次々に捲っていく。薄い本のページはすぐに半ばを過ぎて、あと残り僅かにな
った時、本の間から一枚の紙片が落ちた。
「なんやろ。」
 挟まっていたせいで随分と平らになった二つ折りの紙を拾い上げる。開いてみると、そこには几
帳面で丁寧な文字が流れていた。書いてあるのは、薄力粉と無塩バターと板チョコ3枚と、
「こら!」
 突然後ろから伸びて来た手が、はやてからメモを取り上げた。
「あ! なにするん!」
 怒ってはやてが振り返ると、フェイトがメモを胸ポケットにしまっていた。
「なにするん、じゃないよ。
 もう、勝手にメモまで見たらダメでしょ。メっ!」
 子供に言い聞かせるみたいな口調に、思わずはやては吹き出した。くすくす笑い声を漏らすと、
フェイトが不満げに眉を寄せた。
「私は真面目に言ってるんだよ。
 一応、執務官の部屋なんだから、大変な書類が出て来ちゃったら困るでしょ。」
 本人は真剣なつもりなのかも知れないけれど、メっ、とか言うのだから付き合っているこっちは
たまったもんじゃない。どうしてカメラを回していなかったのだろうと後悔するくらいだった。は
やては口の端を笑みで大きく吊り上げながら、軽く頷いた。
「はいはい、そうやねそうやね。
 おかし作る為のお買い物メモとか、もう超重要な機密事項やもんね1
 ごめんごめん!」
 フェイトが憎たらしい、とでも言いたげに顔を歪めて、顔を耳まで真っ赤にした。微かに目の縁
に涙まで滲んでいるのだから尚更おかしかった。
「で、フェイトちゃんは残業終わったんな?」
 たのしいおかしづくりを本棚には戻さず小脇に抱えながら、はやてはフェイトを振り仰いだ。
「終わったよ。
 ごめんね、もうこんな時間になっちゃった。」
 壁に掛かった時計は既に9時を回っていた。これからすぐ片付けをして真っ直ぐ家に帰っても、
はやてが着くのは9時40分とかになるだろう。フェイトの方が少し家が遠いから、さらにやや遅
い時間になる。
「今日はまっすぐ帰ったほうがいいよね?
 明日も仕事あるのに、ごめんね。
 せっかく、予定開けてくれてたのに。」
 明日を思えば、確かに遅くまでやっている様なダイニングバーにでも、という気にはならなかっ
た。今日はこれでそれぞれ家に帰って、また日を改めて、とした方が良いだろう。けれど、肩を落
として眉も垂らして、はやてより背が高いくせになんとなく上目遣いになっているフェイトは、ま
るでしょぼくれた犬みたいで、はやてはその頭をくしゃくしゃ、と撫でた。
「フェイトちゃん家の現在の冷蔵庫の中身は?」
 頭に手を置いたまま、はやてはフェイトに問い掛けた。するとおとなしく撫でられるまま、フェ
イトは逡巡した。
「えーっと、レタスとキュウリとトマトでしょ。
 あと、前に作ったミートソースが冷凍してあって、昨日の夕飯の残りで唐揚げがちょっと。
 それと、お豆腐とか卵とかかな?」
 それがどうかしたの、と問いたげに丸い目をしてフェイトははやてを映した。はやてはフェイト
の手を掴むと、決まりやね、告げた。
「今日はフェイトちゃん家に泊まる。
 そんで、夕飯はサラダとミートソーススパゲッティと唐揚げとお豆腐な!
 ちなみに拒否権は認めません。」
 はやては最後の一言を無駄にキリッと格好いい顔をして決めた。フェイトは突然の絶対命令につ
いていけないらしく、頭の回りにクエスションマークが見えそうなくらいに目を回していた。
「え、ええ?
 いや、たしかに、パスタとかあるけど、ほんと?」
 はやては無駄に胸を張って、大仰に頷いた。
「あったりまえやん。
 それにこれだけ待ったんに、そのままさようならー、っていうのはちょお酷いんとちゃいます?」
 詰め寄ると、フェイトはう、と言葉を詰まらせた。はやては調子に乗って、フェイトの頬を指先
でつつく。やたらと柔らかい頬の感触に、はやてはにやける。
「でも、本当にそれしか無いけど、いいの?
 うちに来ると、帰る時間も遅くなるし、明日家を出る時間も早くなるよ?」
 頬をぷにぷにさせながら、フェイトが小首を傾げる。気にしている内容が何処までもはやての心
配なのがおかしくって、それ以上にフェイトらしくって、はやてはフェイトの腕に抱きついた。
「いい、って言ってるやんか。
 それに、家でゆっくりする時間は短くなるけど、
 フェイトちゃんと一緒に居る時間は長くなるやろ?」
 ちょっと悪戯な笑みを浮かべて見上げると、フェイトが照れたように頬を染めた。
「まあ、それとは別に今日の埋め合わせはしてもらうけどなー。」
 はやてはそう言うと、フェイトの胸ポケットに手を伸ばした。
「あ、ダメだよっ!」
 はやてがメモを取ろうとしていることを察したフェイトが、そう声を上げて身を捩った。
「嫌よ嫌よも好きのうちや!」
 しかし、はやてはそう言うや否や、絡めとったフェイトの腕を渾身の力で握り締めて、一瞬の攻
防に勝利する。右手にはスリ取ったさっきのメモ。ついでにちょっと胸も触っておいたのは役得だ。
「へんたい。」
 憮然としてフェイトが文句を言うが、はやては聞こえないフリをしてメモをひらひら振った。
「フェイトちゃんがそんなええ胸をしとるのがあかんの。」
 しれっと告げると、フェイトが半眼になった。
「さいてー。」
 やたらと平たい言葉が突き刺さるけれど、はやてはそれも知らないフリをした。そうして、さっ
きの本にメモを乗せると、意識して上目遣いをした。
「これ、作ってくれへん?
 そしたら、全部許してあげるから。な?
 胸をもむ回数も一回分くらいは減らす。」
 するとフェイトは、なにその最後のせせこましい条件、と呟いて目を細めて笑った。