月が真っ黒の空の真ん中で黄色くぼうっと光っている。 満月は明るくて、空の端に流れる雲の姿を薄らと照らし出していた。 フェイトの掌にも僅かに月の色が溜まっている。 水を掬うように指を閉じた。 その中で微かに増す夜の影。 フェイトはそっと掌を握り締めると、玄関に向かって歩き始めた。 二ヶ月ぶりに見る家はまるで絵本の1ページのように懐かしい。 いつの間にか春を迎え、植木はたくさんの葉を茂らせている。 夜風の匂いにも、草花の気配が滑り込んでいる。 フェイトは家の表札を眺め、それからゆっくりと門を押し開いた。 金属の蝶番が甲高い音を鳴らす。 それは宵闇の中、通りの先まで響き渡るような音色で、思わずフェイトは左右を見渡した。 夜中も2時を回れば、通りにはもう誰も居なかった。 家々の隅、通りの端にぽつぽつと点る街灯が照らし出すのは、 虫や草木の息遣いがするだけの人気の無い住宅街。 フェイトはふ、と破顔すると、3段だけの階段を上がり、家のドアに鍵を差し入れた。 鍵の重さが耳に残る。 「ただいま。」 扉を引き、フェイトは抑えた声で帰宅を告げる。 家の中には既に一つとして明かりは灯っていない。 開いた扉から差し込む青い夜の方が明るいくらいだった。 靴を脱いで家に上がる。 玄関から真っ直ぐに続く廊下の先に嵌った窓の向こうに庭木の影が透けているだけの寝静まった家の中は、 大きな空白が開いているみたいで、部屋の中は懐かしい匂いなのに少しだけ寂しかった。 足音を忍ばせて、フェイトはリビングへと入る。 電気を点けようかと少し迷って、結局月明かりだけに任せることにした。 暗がりに慣れた目には光は痛い。 それに、時差ぼけで頭痛のする頭にはもっと鋭く突き刺さるだろうから。 フェイトはソファの脇に鞄と着替えの入った袋を置いて、リビングを見渡した。 庭に面した大きな窓ガラスは既に雨戸も閉ざされてしまっているけれど、 台所の傍にある小さな出窓からは月光が滲んでいた。 物の影が青い。 部屋の暗がりの中に点々と輝くのは、テレビやオーディオなどが常に出している機械の光だ。 フェイトが居なかった二ヶ月の間に迎えた春は、この部屋にも咲いている。 カレンダーは淡いピンクの花を見上げる猫の写真になり、 テーブルクロスは可愛いレースになって、 ダイニングテーブルの中央には一輪挿しの花が置かれている。 「タイムスリップしちゃったみたいだ。」 フェイトは呟くと、制服のタイに手を掛けた。 上着も脱ぐと、肩にのしかかっていた形のわからない重圧も解れる。 二ヶ月ぶりの帰宅は、二ヶ月ぶりの休みでもあった。 せめてシャワーでも浴びてから寝ないと、そう思っても体が重くて、 フェイトはソファに腰を下ろすとぼんやりと天井を見上げた。 遠い。 あまりに遠い世界だった。 次元航行船でも一週間もかかる道のりの果てに辿り着いたのは、 気候も風土も空も海も何もかもが違う世界。 そこは砂漠で、それでもいつも夕暮れのように寒くて、空は淡い紫色をしていた。 白い鳥の翼の内にあるような仄かな紫色の空が、薄らと掛かった雲の合間に広がっていた。 聞いたことの無い風の音が、聞いたことの無い言葉の響きが肌に触れていた。ずっと。 知らない世界で、知らない街で、ずっと。 ただ、日が落ちる時にだけ、空が青から赤へと染まっていた。 街中に灯る家々の光を置き去りにして。 私を置き去りにして、 「フェイトちゃん。」 柔らかい声が降り注いだ。 鈴の鳴るような音色で。 フェイトはいつの間にか閉じていた目蓋を押し上げる。 真っ黒な視界が静かに光を受け止めた。 白い光が満ちあふれていた。 その中で、穏やかに頬を緩め、自分を見つめている人が居る。 紫色の瞳が静かにフェイトを映していた。 「なのは。」 乾いた喉で、フェイトは彼女の名前を呼んだ。 なのはは小さく頷くと、フェイトの額を撫でた。 「ダメだよ、ソファなんかで寝ちゃ。」 うん、とフェイトは声なく頷いた。 でも起き上がろうとはしなかった。 なのはもフェイトを起こそうとはしなかった。 フェイトの頭を膝の上に乗せて、なのはは金色の髪を梳く。 「もう夜明けだよ。」 なのはが窓の方を向いて言った。 それから、冗談めかして続ける。 「朝の5時。」 フェイトはなのはの服の裾を握った。 「起こしちゃった?」 その声色は何処か幼くて、なのはは目を細めた。 「本当はフェイトちゃんが帰ってくるまで起きてるつもりだったの。 でも、ヴィヴィオを寝かしつけてたら一緒に寝ちゃって。 だから、いいの。」 頬を包むように手で触れる。 なのはの手の中で、フェイトが微笑んだ。 なのはの手に、自分の手を重ねて静かに。 「ありがとう。」 なのはは口元を解くと、フェイトを見つめた。 「一番に、言いたかったから。」 そして、微笑んで告げる。 「おかえり、フェイトちゃん。」 フェイトはなのはを見つめ返して、柔らかな声を紡いだ。 「ただいま、なのは。」